オタール・イオセリアーニ映画祭1:「そして光ありき」をみて

ジョージア出身の映画監督オタール・イオセリアーニの未公開を含めた21本の映画が上映されるとのことで、映画館へと向かいました。

オタール・イオセリアーニは、私の好きな映画監督3人の中に入っています[1]。
映画を見た後やインタビューを読んだ後に新しい考え方を学ぶきっかけとなり、以後の人生に影響を与え続けているように思えるからです。

映画の感想を書くのが初めてで、どういった文章で表現すればいいかあまりわかっていませんが、ぽつぽつと映画をみて感じたことを書いていきます。ネタバレもあるのでまだ見ていない方は、この投稿を読まないほうがいいかもしれないです。

まず、「そして光ありき」は、全編アフリカで撮影した異色作で、セネガルのディオラ族が森林伐採など文化産業の侵食に蝕まれる様を寓話的に描いた映画とのことです。

全編で現地の言葉?が話されていて、字幕がつくのは5%未満です。ほぼ映像から何が起こっているかを感じながら見ていました。

いくつか心に残ったシーンがあったので、それを書いていきます。

半身が土の中にある胴体に、鍋で何かをした首を戻すと目が開き生き返るシーンや、息を強く吹くと突風が巻き起こったりしたシーンは、この作品が寓話的といわれる所以なのかと思いました。

小高い丘に村人が集まり夕日が沈むんでいくのを眺めるシーンは、どこか寂寥感が漂っていました。これが村で幾度も繰り返されてきたのかと思うと、私も懐かしいような寂しいような不思議な気分になりました。

村人は、少し遠くの村人とコミュニケーションをとる方法として丸太をバチで叩き、その音の強弱やリズムで意思の伝達をしていました。
言葉で気持ちを伝えるのも難しいのに、こうした打楽器でコミュニケーションをとることができるものなのかと疑問でしたが、ある意味で現代は言葉によるコミュニケーションに依存している側面もあり、普段から打楽器で何かを伝えることに慣れていれば、伝わることもあるのかもしれないなとあとから思いました。

終盤にさしかかり、森林の伐採が進み周辺は荒れ地になっていきます。村に住むことが困難になった人々は村から出て行きます。そこでシャーマン?の老婆が土地に呪いをかけると辺りは火につつまれました。

村から町に出た人々は町に出て新しい暮らしを始めます。村にいるときは半裸だったのに服を着て町の人と見分けがつかない姿になっています。村を出るとき恋仲になったカップルは、村の信仰対象だった神像を道の片隅で売っています。
一方で、結婚生活への不満から一足先に町に出た村人の妻は夫の説得により家族で村に戻ってきました。しかし、そこにあったのは、以前の木々に囲まれ動物が闊歩する風景とは異なり、木々が切り株になり土がむき出しとなった荒れ果てた村でした。

映画が終わり「そして光ありき」の対象とは、なにかと考えずにはいられませんでした。
町に出て過去の信仰対象を売って日銭を稼ぐ元村人か、呪いを受けた土地に戻ってきた家族のこれからの生活か、はたまた大木を買い叩く商人や大木が運ばれる先の消費者か。


[1]他にアレハンドロ・ホドロフスキー、ジャ・ジャンクー、ミヒャエル・ハネケが好きです。好きな監督を4人あげてしまった。。

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