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シネ・ヌーヴォの歴史③

「シネ・ヌーヴォの特徴」

梅田や難波から離れた遠い九条の地で、オープン当初は、3年もったら上出来、などと揶揄されながらも、今日まで上映を続けてこられた最大の原因は、お客さまからご支持をいただけたことですが、多くの映画人の方々からもご支援をいただき、また、関係する数多くの皆さまのご協力がいただけた賜物です。
 
劇場顧問としてさまざまなご支援をいただいたのは、映画評論家の上野昻志さん、そして市川準監督、小栗康平監督、黒木和雄監督、原一男監督。皆さんには幾度もご来館いただき、講演などをお願いしました。

そして、元大阪スポーツ代表の映画評論家・浅野潜さんには、開館当初から十数年という長きにわたって毎月「映画を楽しむ会」をご主宰いただき、映画のお話を聴かせていただきました。

しかし、2006年には黒木和雄監督が、2008年には市川準監督が死去。小川紳介監督は当館誕生を知ることなく1992年に死去、自主上映時代に何回も上映した土本典昭監督も2008年に死去、浅野潜さんも2020年に亡くなっています。そして昨年には小林政広監督、大森一樹監督、吉田喜重監督、今年は山根貞男さん、そして中島貞夫監督と、訃報が相次いでいます。監督は亡くなっても、映画は残っています。繰り返し映画を上映することで、その監督たちとスクリーンで再び出会うことができます。亡くなったのは深い悲しみですが、「特集上映」を行い、監督を偲ぶとともに、これからも出会い続けたいと思っています。
 
また、視覚障害者にも映画を楽しんでいただきたいとの趣旨から「字幕朗読上映会」を、耳の不自由な方向けには「日本映画字幕付き上映」をオープン当初から開催。多彩な映画を多様な皆様にご覧いただきたいとの思いからでしたが、時代の先駆けとして現在のバリアフリー上映にもつながる試みでした。これも多くの皆さまにご協力いただけた賜物です。

「シネクラブ合評会」もオープン当初から現在まで途切れることなく開催してきています。今では会員の皆さまの主体的な運営で開催しており、映画について話し合える貴重な場として、また会員同士の交流の場として定着しております。
 
トップの写真は、『憂鬱な楽園』の「字幕朗読上映」スタッフをホウ・シャオシェン監督が激励の様子。(1997年6月)

次回シネ・ヌーヴォの歴史④は「上映の2つの柱」です。


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