七月

7月は何故かいろんな人があの世にいく月なのかなあと思う。
大好きなバンドマンも、慕ってくれた後輩も、図らずも7月にいってしまった。
今回、親類の訃報があり急遽帰省をした。
遠方なので飛行機で行ったがここまで気乗りしない帰省は初めてだと思う。
よく聞いてはいたが、人が亡くなるとこんなにドタバタするのか、と半ば社会勉強のように大人たちの様子を見つめていた。
自分も近い将来ああなるし、送られる側にもなる。
そう思うと悲しくなったり寂しくなったりした。
ずっと炊かれる線香が鼻にこびりついてる気がしながら、来た初日は斎場で蝋燭の番をした。
意外と何回か起きて2回ほど蝋燭は変えたし、灯りは煌々とついてるから変な怖さは無かった。
ただ、故人の声を聞いた気がしてそれを親類達に報告したらあまり信じてもらえなかった。
特に話したわけでもない、二文字で声をかけられただけだから、わたしも確信がない気もするしある気もする。

割と葬儀のあれこれには興味があって納棺師の仕事もどんなものか見てみたくて残っていたりした。
正直、亡くなってからの身体や顔はあまり見たくはなかったのでせめて綺麗になってからがいい。
一旦外に出て戻っていたら既に始まっていて、入ろうとしたら目の前に泡だらけの故人の顔があって、それを親類たちに話したら爆笑されてしまった。
隣で待っててくれと言われたので、ちゃんと見ることは出来なかったけど尊い仕事だと思ったし、病院で身体も綺麗にできず死んだ故人を思うとしっかり身綺麗にしてくれて感謝しかない。
棺に納める作業の手伝いもした。
意外と身体は軽くて、故人の生前のしんどさを何となく思い起こさせた。
家族葬ではあったが、故人の写真を飾りませんかと葬儀のプランのひとつとして、写真を選ばせてもらった。
家族写真や旧家での姿、旅先の姿、知らない姿ばかりだった。
ひとつのパノラマ写真に、ぶすっとしたわたしと故人が写っている写真があった。
よほど収まるのか嫌だったんだろうが、どこで撮ったのか覚えてない。
あまりにもすぎて、思わず笑ってしまった。
わたしと故人は、晩年折り合いが合わず4年ほど全く口をきかなかった。
というか、そもそも昔から仲良く話す方ではなかったしこちらとしては方言が全くといっていいほどわからなかったので、話しても返ってくる言葉が殆どわからなかった。
それでも学生時代は1ヶ月程過ごしたり、年に何度かは足を運んで、大人になってからは暮らしたりもした。
折り合いが合わなくなったのは暮らし始めてからで、こんなにも人と暮らすことが苦痛なのかと身に染みた。
最後に話したのは去年秋に帰った時だった。
もういいだろう、と母がわたしを無理やり連れて行って二言三言話をした、ほんとうにそれが最後だった。
乗り気では無かったけど、今は話せて良かったと思う。
それなりに元気そうだったのに、あっという間だったから。

通夜が終わった翌朝、火葬をすることになっていた。
都会では火葬待ちで何日も冷蔵保存されると聞いてたが、田舎はあまり問題ではないようだった。それでも、わたしたちの前後で立て続けに火葬は行われていた。
わたしは、結構怖かった。軽くなったとはいえ中にはほんの数日まで生きていた人間がいるのだ。
ましてや自分もいつかはこうなるのかと思うと震える。
それでも順番はやってきて、とうとう棺が機械に押し入れられた。
喪主がボタンを押せばそこから火が回る、なんとも言えず残酷なように思えたけど大事な役回りでもあると感じた。
あっけなくボタンは押されて、荼毘に付された。そこから一時間は家族で他愛もない話をして、終わるのを待った。
呼び出された時には全てが終わっていて、あまりそれらしきものも残っていなかった。
まだ火の熱や燃えた匂いがあって、ボタンを押した瞬間の轟音を思い出したら燃え上がる様子を想像させた。
地方によって骨壷には全ての骨を入れるところと、入れずに余った分は保管したり色々あるらしい。
なんとなく、分かる骨とか丈夫そうな骨を入れて、2/3くらいになった時には充分だと職員に勧められて骨壷は閉められた。
この時には、火葬されるという恐怖は無くて妙な爽快感のようなものがあった。
肉体から骨になるという過程は半ば諦めに近いものがあるのかもしれない。
別にわたしは故人に執着はない、でも言うべきことはあったかもしれない。
肉体だけあったとしても言ってもどうせ返ってこないし、いくらでも悪口言えるけど、何故か骨になってしまうと何も言えなくなる。
まあ、悪口なんか言わないんだけど。

あまりいい帰省ではなかったけど、たくさんのことを学び、思い出せる帰省だった。

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