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父の掌

小さな頃、土日になると毎週のように家族で何処かに出かけるのが我が家の日課でした。

冬はスキー、夏は海やプール、秋になるときのこ採りで春はお花見。

夏休みになると沖縄や北海道、小豆島など、毎年みんなで計画を立てて旅行に連れて行ってくれました。

数年前にはワーホリでオーストラリアに行った弟に会いに家族でオーストラリアに行きました。

家族写真を撮るのが好きな父にカメラを向けられるたび、少しくらい笑ったらいいのに、何故かいつもわたしは不機嫌な顔をしていました。長い長い反抗期です。


思えばずっと親不孝だったなぁと思うのです。

酷い言葉も言ったし、悲しませた事もたくさんありました。

自分が親になるまで、わたしは普通なら想像できそうな親の苦労やいろいろな事に気づこうともしないで、好き勝手に生きてきました。

散々反発して、めちゃくちゃ生きて来たけれど、自分が歳を重ねる事に、いろいろな世界を見るたびに、わかってくる事が増えました。

そして自分が親になって初めて、親の気持ちに気づく事が出来ました。


父も母も今のわたしのように子ども達の成長に目を細めていただろうし、家族で同じ景色を見て思い出を作りたいと思っただろうし、嫌われたってなんだって子どもの事は心配だし大好きだし味方なんだと思うのです。


冬が終わり、もうすぐ新しい元号が発表になるという数年前の4月、母が亡くなりました。

何の前触れもなかったのです。

2日前に普通に会っていて、それが最期になりました。


母が亡くなってからの半年くらい、わたしは記憶がごそっと無いのです。

受け入れてしまったら日常もままならない程に立ち上がれなくなりそうで、ずっと現実から逃げて夢の中に居たような気がします。

わたしはよく笑っていました。心配かけたくないから笑い、聞かれたくないし泣きたくない時にも笑い、そして受け止めたくないから、楽な方楽な方へと逃げていたんだろうと思うのです。

いよいよちゃんと向き合わないといけないと思いnoteに記し始めると、今度は毎晩心が千切れそうになります。


親孝行、したいときには親は無し

母がよく言っていた言葉を、思い出します。


わたしが一人暮らしをしていたとき、母はよく手紙を書いて送ってくれました。

ある日、「情けは人のためならず、とは、どういう意味でしょう?」と問題が書かれていました。

ちょうど鬼滅に出てきたその言葉を見ながら、母を思い出すのです。


オーストラリアに行った時、ホテルのエレベーターに乗ると、金髪のイケメンスタッフの方が「Good Morning」と声をかけてくれました。

英語が出来ないわたしでもさすがにわかったのでたどたどしく挨拶を返してから横を見ると、何故か母が真っ赤になり慌てています。

どうしたの?と聞くと「今、可愛いねってこっち向いて言ってたよね?」と、年甲斐もなく本気で照れているのです。

可愛いとかは言ってなかったけど、勘違いして浮かれてる母は確かに可愛かったと微笑ましく思ったのです。




数日前に父が倒れました。


父はここ数年は介護が必要で施設に入っていました。母が亡くなったことを伝えると、「嗚呼、俺は1人になっちまう」と泣きました。

そんな事ないよと、わたし達兄弟が励ましましたが、それからしばらくしてコロナが流行し、面会はずっとガラス越しになってしまいました。

ここ半年くらいは施設の方の人手不足のため土日は面会が出来ず、かと言って平日は仕事があり、なかなか父に会えずもどかしく感じていました。

実際、寂しかっただろうと思います。

やっと直接会い、やっと父に触れる事が叶ったのは、父が倒れてからでした。


父の手をこんな風にギュッと握ったのは何年ぶりだろう。

こんな風に何度も何度も呼びかけたのはいつ以来だろう。

そんな事を考えながら、ここ数日父の手をずっと握っていました。


痩せ細った父の掌は、今は浮腫んでいるので、昔の元気な頃のようです。意識がある時には素直になれず言えなかった言葉を、父の手を撫でては話しかけます。


ありがとね、楽しかったよ。


ありがとう。

お父さん、お母さん。




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