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エッセイ:旧Twitterのフォロー中タイムラインにしかない暖かさ

旧Twitterを使っている。Xと呼ばないのは未だに慣れないから。続けると老害と言われそうだが、もう1年ぐらい粘りたい。

そんな旧Twitterだが、最近使い方を変えた。と言ってもシンプルな話で、フォロー中タイムラインを見るようになっただけ。

旧Twitterには、「こんな感じのおすすめツイートあるよ」を流してくれるおすすめタイムラインと、自分がフォローしたユーザのタイムラインが見られるおすすめタイムラインがあり、ずっと前者を見がちだったのだが、最近後者を見始めた。これだけだが、本当に心が穏やかになっている。

おすすめタイムラインは確かに見てて良いツイートがたくさん流れてくる。綺麗なイラスト、面白いツイート、楽しい告知、それに付随する反応、今のインターネットが凝縮され簡単に摂取可能でこれはこれで良い。だから実際ずっと使っていたところがある。

だが、先日自分のフォローしている人を整理して、改めてフォロー中ユーザのタイムラインを見ていると、おすすめタイムラインには無い心地よさを感じている。

思うに、フォロー中タイムラインは個人が存在しているからなのだと思う。

自分の見ている四角い画面の先にしっかりと人間がいて、その人がラーメンすすったりチケット当たって喜んだり仕事をうんこと呼んだりエロい絵で騒いだりしているのが感じられるだけで、とても心地が良い。

仕事で嫌なことがあっても、自分の知らない社会が存在していて、そこで誰かがいろんな気分になっているという事実が、それだけでどこか愛おしく感じる。別にやりとりをしているわけでは無いけど、孤独感も薄れていくし、誰かがそこにいると言うだけでこんなにも気が楽になる。本当はコミュニケーションを取るところまで行ってようやく孤独感が紛れるのだろうが、私のようなコミュ障はこれぐらいでちょうど良いのかもしれない。

なんなら逆に言うと、おすすめタイムラインにはこれらが無いのかもしれない。インプレッションを効率良く稼ぐために作られている場所からは、娯楽は感じられても生気は感じられない。比べてみるまで考えたことも無かった。

また、フォロー中タイムラインを見てから、自分がつぶやくことも増えたように思う。どうでも良いことが流れてくるからこそ、どうでも良いことをつぶやいても良いのだ、と思うようになった。雑で無駄だとしても、それがあることでしか出来ないこともある。そう思うだけでしょうもないことをつぶやけるようになる。せっかくだからこれ書いている時にうんことかつぶやいてみようと思う(自分のエッセイ用では無い本アカウントです)

ということでつぶやいてみたのだが、なんかとんでもなく悪いことが起きているように見える。そんなことは無いのだが。日本語って難しい。頑張って日本語を使えるようになりたいです。

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