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バレエリュス・チクルスvol.1

2023/02/25長野市竹風堂大門ホール

ピアノ・久保力輝



バレエ・リュスとは


バレエ・リュスはフランス語で「ロシアのバレエ団」という意味ですが、ロシアで公演したことは一度もありませんでした。彼らはパリを中心にヨーロッパの各大都市で公演するスタイルを選びました。当時ロシアの芸術は西ヨーロッパではまだまだ知られていませんでした。そこでロシアの芸術を西欧に発信しようとしたんです。(日露戦争やロシア革命の混乱でロシア国内での公演が難しい状況にあったとゆー国内事情も、もちろんあったでしょうが….)今でこそロシアのバレエの素晴らしさは全世界で知られていますが、西ヨーロッパではロシアのオペラやバレエはそんなに知られていなかったんです。それどころか、西ヨーロッパのバレエはこの時期ほぼ死んでいる状態で、バレエの公演自体が激減していました。
チャイコフスキーとプティパが築き上げたロシアバレエの黄金期をバレエリュスのリーダーであるディアギレフは経験していて、ロシアバレエの凄さをよく知っていました。だからディアギレフはそれを西ヨーロッパでやってやろうと思ったわけです。バレエだけじゃなくロシアの芸術全体(美術もオペラも文学も…)を西ヨーロッパに知らしめようとしました。たまたまバレエが中心になりましたが、ディアギレフは元々バレエよりもオペラに興味があったので、まずオペラをやりました。ムソルグスキーの傑作オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」を西ヨーロッパで初めて上演(1908)したのもディアギレフです。バレエリュスの前年のことです。その時の主演はシャリアピンでした。
ボロディンのオペラ「イーゴリ公」の一部分もシャリアピンで演奏しています(1907)。こういったロシアオペラの公演がバレエ・リュス旗揚げの前哨戦になったんです。


ところでバレエリュスは本拠地を持たないカンパニーでした。例えばボリショイバレエならボリショイ劇場だし、パリオペラ座バレエならパリオペラ座とゆー風にだいたい本拠地があって、多くは劇場付属の格好ですよね。バレエリュスは本拠地を持たない旅公演メインのプロジェクト・カンパニーで、メンバーも固定されていませんでした。プロジェクトごとにダンサーを集めて公演して解散ってことを繰り返してゆくわけです。オーケストラだとサイトウキネンなんかもプロジェクトオケの代表的なスタイルです。当初は正式な団体名もありませんでした。ミュージカルだと宝塚や劇団四季以外のほとんどはプロジェクトカンパニーです。バレエリュスもロシアの劇場のシーズンオフを狙って個々のダンサーと契約しました。もちろん常連のメンバー(指揮者とか、中心的なスターダンサーとか)、中核になる人はいるわけですが….。最初は完全にプロジェクトカンパニーのスタイルでした。バレエリュスは大成功したので徐々に常設のバレエ団に近いスタイルに向かっていくことになります。

バレエ・リュスの親玉のセルゲイ・ディアギレフは興行師として、プロデューサーとして信じられないほどの天才でした。

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ディアギレフ

彼のプロデュース能力は芸術全体の方向性と言いますか、もっと言えば時代そのものを一晩で一気に変えてしまうほど凄いものでした。プロデュースというのは、ざっくり言うと「どーゆー演目をどーゆー方向性で誰の出演でやるのか」とゆーことを考えて仕掛けてゆく仕事のことです。一番大事なのは出演者とスタッフ集めってことになろうかと思います。ディアギレフって人はそこが凄かった。ディアギレフは音楽家でもなかったしダンサーでもなかったけれど、そのプロデュースの能力で時代を変えたんです。音楽もバレエの世界も...何もかも一気に変わりました。誰が何をやったらおもしろいか、誰と誰が一緒に組んだら化学反応が起こりそうだとか、まあそんなことを考えることが仕事です。プロデュースってのはそーゆーことなんです。基本的にダンサーやプレーヤーは踊ることで手一杯、画家も描くことで手一杯。演奏家も演奏で手一杯です。だから大きい企画ほどプロデューサーってのが必要になってくる。ディアギレフはただダンサーや作曲家を選ぶ能力だけじゃなくて、あっと驚くような人を抜擢するのも上手かった。組み合わせを考える天才でもありました。ストラヴィンスキーとピカソを組ませたりなどなど新鮮で斬新な組み合わせを実現したり、ファッション業界からシャネルを引っ張ってきて舞台衣装や美術を担当させたり、ダンサーのニジンスキーやレオニード・マシーンに振り付けのデビューをさせたりとか、新しい才能を見抜く目も確かでした。天才を見つける天才です。失敗やスキャンダルを恐れない肝の座った大人物でもあった。スキャンダルすらも作品のPRに利用していくような強かさがありました。たしかに山師的で困ったところも大いにあったんですけれども、プロデュースや興行ってのは「博打」みたいなものですからね。ディアギレフが声をかけた多くの芸術家、文学者、ダンサーたちがディアギレフの圧倒的な人間力に魅入られたように集まってコラボレーションし、刺激し合い高め合って化学反応を起こし、凄い公演が連続するようになって、時代を一気に変えたんです。


シャトレ座

今日は1909年パリシャトレ座でのバレエリュスの旗揚げ公演の音楽の中からフォーキンが振り付けた『だったん人の踊り』や『レ・シルフィード』を中心に聴いていただきます。このときの演目は他に『クレオパトラ』『アルミードの館』、『饗宴』、でした。この公演は大成功で、パリの人々を完全に魅了しました。これでバレエ・リュスは一気に世界的なカンパニーになったんです。最初の公演のタイトルは、単にセゾン・リュス、つまり「ロシアの季節、オペラとバレエ」とゆーだけのものでした。
ポスターも極めてシンプルです↓

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1909年のバレエリュスのポスター(レ・シルフィードのパヴロワ)

1909年のバレエリュスの公演をディアギレフはどのように組み立てたか。
まず名門・マリインスキー劇場で踊っていたアンナ・パヴロワとニジンスキーを看板ダンサーとして連れてきました。

アンナ・パヴロワ
ニジンスキー
フォーキン

それとマリインスキーのダンサー兼振付師フォーキンの3人を柱にしたんです。この当時のディアギレフは、まだバレエのことをよく知りませんでした。そもそも1909年の公演も当初はオペラがメインの公演を考えていたんです。しかしオペラの計画がうまくいかなくなって添え物的に考えていたバレエを急遽メインにすることにしたんです(そして逆にオペラの方が添え物的な扱いになりました)。急な変更でしたから時間もありませんし、フォーキンたちに相談して、フォーキンがパヴロワやニジンスキーと一緒にマリインスキーでやったことのある演目(ニコライ・チェレプニン作曲の「アルミードの館」や「クレオパトラ」、ショパンの音楽による「レ・シルフィード」)を練り直して上演することにしたんです。「饗宴」はロシアバレエの名場面集=ディヴェルティスマンですから特に新味はありません。
オペラの方は全幕公演はなしで、バレエがメインになりました。

アルミードの館のパヴロワとニジンスキー
レ・シルフィードのパヴロワ

👇の動画は1909年シャトレ座のバレエ・リュスの「アルミードの館」のニジンスキー。

古いので状態は悪いけれど、バレエ・リュスは映像がいろいろ残ってるのが凄い。さすが20世紀。そして今はこーゆー貴重な映像にいつでも気軽にアクセスできる。いい時代になったものだ。

「クレオパトラ」は、曲の大幅な入れ替え(曲が変わ
れば振り付けももちろん新しくなります)やエンディングの変更もあって結局ほとんど新作みたいになりました。

クレオパトラ衣装デザイン
クレオパトラ衣装デザイン

「レ・シルフィード」も音楽が大幅に変わっています。
いちばん目新しい演目と言えるのは「だったん人の踊り」でした。1909年の人気の演目は「だったん人」と「クレオパトラ」でした。新作が当たったんですね。「饗宴」はロシアバレエの名場面集(ディヴェルティスマン)です。フォーキンより前の世代のプティパの振り付けも含まれていたりして新味には欠けます。

だったん人の踊り

今日はまず「だったん人の踊り」から聴いていただきましょう。

だったん人の踊り。アドルフ・ボルム


「だったん人の踊り」はボロディンのオペラ「イーゴリ公」の第二幕の一場面です(ディアギレフは「イーゴリ公」をバレエリュスに先駆けて1907年にパリでその一部分をロシア音楽の演奏会で紹介していました。)
フォーキンは有名な振付師プティパの引退で登場した新しいタイプの振付師でした。当時としてはものすごく革新的な振り付けです。フォーキンという人は勉強家だったので、自分は「だったん人」について何も知らないから、調べるための時間が欲しかったそうです。しかしこの1回目の公演はバタバタと決まったので時間がありません。資料はほとんど無しで、フォーキンはただボロディンの音楽とイーゴリ公の物語のイメージからあの素晴らしい振り付けを考えたのです。
衣装のレーリヒ(彼は「春の祭典」で重要な役割を担うことになります)は古代ロシアの民族衣装を研究しました。このときの赤や黄色、緑のロシア的で非常に独特な色使いはバレエリュスの「シェエラザード」や「火の鳥」などの原色を思い切って使うカラフルで大胆なイメージを確立させてゆくことになるわけです。エレガントでロマンティックで夢見るような舞台装置を見慣れていたパリの観客は、まず荒涼たる平原のだったん人の殺風景な露営地・無骨なテントが並んでいるようなセットは驚きでした。これはもうロシアのイメージを通り越して、カザフスタンとかモンゴルとか中央アジア的な雰囲気だったんです。これまで西ヨーロッパのバレエは女性のダンサー中心のものでしたが、だったん人の踊りは男性の踊り手による群舞です。ものすごい迫力の男性の群舞にパリはすっかりやられてしまった。強烈なインパクトだったんです。こーゆー野蛮で荒々しいバレエの表現に触れるのはパリはほとんど初めてだったと言えるでしょう(「クレオパトラ」にも男性のダンサーたちによるバッカナーレがあって、これまた大受けでした。)
パリは衝撃を受けました。


男性中心だったバレエ
バレエ・リュスは男性中心のバレエでした。そもそもバレエは太陽王ルイ14世の庇護のもとで基礎が築かれた芸術であり、王自身がダンサーとして踊ったのです(太陽神アポロンを演じたりしました)。だから太陽王の時代は圧倒的に男中心でした(政治とバレエが強く結びついていました)。音楽で言えばリュリやラモーの時代。宮廷で踊られるバロックの舞曲を基本としたものでした。

踊るルイ14世

👇こんな感じだったでしょう(ジェラール・コルビオ監督の「王は踊る」)。宮廷の絢爛豪華なショウです。
いや、これよりもっと派手だったかもしれません…太陽王の威光を見せつけるためにそれは最高に豪華でなければなりませんから…

ささ👇も参考になる


ロマン派以降にバレエは徹底的に女性中心に変化したのです。フランス革命以後のことです。バレリーナがロマンティックチュチュを着てトウで踊る(ポワント)の技術が確立、



男のダンサーが一歩引いてバレリーナをエスコートしていくような格好が定着してきたのです。やっぱり今もどちらかというとバレエは女性中心のイメージだと思うんですが、ロマン主義時代の芸術は女性賛美が中心で、詩人たちの霊感の源は当たり前のように女性でした。ステージで花束に埋もれるのももちろん女性。それを大きく変えたのがバレエ・リュスだったんです。「男性の美しさ」が理解されるようになった。特に大きかったのがニジンスキーの存在と男性の群舞でしょうね。アンナ・パヴロワやカルサヴィナのような女性スターもバレエ・リュスでは踊ってたんですが、やっぱりニジンスキーは圧倒的でした。バレエ・リュスの男性中心のバレエってのはニジンスキーの存在がもちろん大きかったんですが、やっぱりディアギレフがゲイだったということも重要な要素として挙げられると思います。ディアギレフは日陰でひっそりと受け継がれてきたゲイカルチャーを「エロ」と一緒に、一気に華やかなステージに乗せてしまったとも言えますね。旗上げの翌1910年には既にディアギレフはニジンスキーを愛人にしていました。むむー、手が早いですねえ。この時期にディアギレフは自分の秘書♂を愛人にしてたんですが、即・ニジンスキーも自分のものにしてしまったんです。いやあエネルギッシュですねえ!

ロシアにはもともとコサックダンスみたいな男性群舞の伝統があったことも大きな要素でしょう。

この男性中心の流れがのちのモーリス・ベジャールやジョルジュドンヌレエフに受け継がれていくわけですね。男性中心という点だけじゃなく、ゲイカルチャーという面も色濃く受け継がれ…
(ベジャールはバレエリュスのセルジュ・リファールの強い影響下にありましたから、バレエ・リュス直系と言えます)

では「だったん人の踊り」を聴いてみましょう。久保くんお願いします


1909年のバレエリュスの初公演は大成功のうちに幕を下ろしました。パリは熱狂しました。バレエ・リュスは長く忘れられていたバレエが、実は非常に立派な芸術であることをパリの聴衆に思い知らせたのです。バレエ・リュスがあったからこそパリのバレエは復活し、西ヨーロッパのバレエも(いや、「世界のバレエ」と言ってしまっても大袈裟ではないでしょう)大きく変わっていくことになります。体の動きで音そのものを表現しようする芸術….
それに伴って音楽も変わりました。音楽だけでなく、芸術全般にも強い影響を与えたのです。ロシアの芸術の素晴らしさを圧倒的な熱量で西欧に知らしめたのです。

それはプルーストが言ったようにほとんど「侵略」でした。
『これは魅惑的な侵略だ。 その魅力に抗議するのは最も低俗な批評家だけだ。 周知の通り、それはパリに好奇心の熱をもたらした。ドレフュス事件ほど鋭くないが、より純粋に美的で、おそらく同じほど強烈な熱である」』(マルセル・プルースト)

パリはパヴロワやフォーキン、ニジンスキーへの賞賛で溢れかえりましたが、やっぱり話題の中心はニジンスキーでした。ある新聞は一面すべて使った大きなニジンスキーの写真を載せました。えらいこっちゃ!ニジンスキーとフォーキンとディアギレフは男性のダンサーをバレリーナと同等、またはそれ以上の位置に一気に引き上げたのです。それは「革命」でした。

ニジンスキーは男性的な力強さも持っていましたが、彼は両性具有的な男性でもなく女性でもない独特の魅力がありました。そこに観客は惹かれていったんです。パリはニジンスキーにすっかり夢中になりました。



ウェーバー:舞踏への勧誘(薔薇の精)

ニジンスキーが人気だったので、すぐにニジンスキーの魅力を十分に引き出す演目も考えられました。それが1911年に上演された「薔薇の精」です。音楽はウェーバーの「舞踏への勧誘」をベルリオーズがオーケストラに編曲したものです。登場人物は女の子とニジンスキーが演じた薔薇の精の二人。

女の子は生まれてはじめての舞踏会から帰ってきて、その余韻の中でまどろんでいます。舞踏会の高揚感と心地よい疲れ…。するとその夢うつつの中に薔薇の精が現れるのです。
女の子が舞踏会で一緒に踊った男性からもらった薔薇についていた薔薇の精。これをニジンスキーが演じたのです。

薔薇の精は妖精ですから男性でも女性でもありません。

薔薇の精のニジンスキー

これはニジンスキーの中性的な特徴そのものの役柄でした。薔薇の精は女の子の部屋の窓から飛び込んできて(ものすごい跳躍でした)、眠っている女の子を誘って一緒に踊ります。そして再び窓から飛び出て夜の闇の中に消えてしまうのです。

舞踏会のあとの女の子のちょっとした夢想🌹

ニジンスキーはピンク色がかった紫のレオタードに色とりどりの薔薇の花を縫い付けた衣装で踊りました。パリはニジンスキーに夢中でした。(当時はレオタードのような身体の線がはっきり出る衣装は不謹慎だと言われていました)衣装係がレオタードを着たニジンスキーに直接薔薇を縫い付けたときに時々失敗して針が体に刺さって、ニジンスキーが痛がってかわいそうだったそうですよ。


ニジンスキーが着用した薔薇の精の衣装

ニジンスキーは跳躍(エレヴァシオン)が素晴らしくて、アンナ・パヴロワもマリインスキー劇場で凄い跳躍力のダンサーをを見て、ニジンスキーを見出したと言われてます。「薔薇の精」はニジンスキーの跳躍をうまく活かして振り付けされていて、観客はニジンスキーの凄い跳躍にすっかりやられてしまったんです。

観客には軽々と飛んでいるように見えても、跳躍はやっぱり大変です。ジャン・コクトーは「薔薇の精」を踊った後の舞台袖のニジンスキーのスケッチを残しています。椅子にぐったり倒れ込むニジンスキーをスタッフが介抱している様子が描かれています↓。

これはバレエリュスの名作レパートリーになりました。現在もフォーキン振り付けの「薔薇の精」は多くのスターダンサーの重要なレパートリーになって踊られ続けてます。

誰かがニジンスキーに 跳躍してあんな風に空中に留まっているのは難しいでしょうね と尋ねたことがありました。ニジンスキーは丁寧な口調で次のように答えたそうです「 いえいえ、とんでもない!難しくなんてありません。 飛び上がって、そのままちょっとそこにいればいいだけですよ」(゚ω゚)

ハーバート・ロス監督の映画「ニジンスキー」の「薔薇の精」の場面が本当に素晴らしいのでぜひ!ニジンスキーの跳躍の美しさがとてもうまく表現されていますから。

ウェーバーのワルツ「舞踏への勧誘」はベルリオーズがオーケストラに編曲したヴァージョンが圧倒的に有名ですが、オリジナルはピアノ独奏曲です。

ウィンナワルツの雛形・原型として捉えられている作品ですウィンナワルツといえばやっぱり1867年にヨハン・シュトラウスが作った美しく青きドナウでしょう。ウェーバーの舞踏への勧誘は1819年の作品ですから、ウェーバーは既にドナウの約50年前にウィンナワルツの原型を書いていたということになりますね。
では聴いてみましょう。薔薇の精、舞踏への勧誘です。
お願いします。


休憩

「レ・シルフィード」

後半は1909年の旗揚げ公演で上演された「レ・シルフィード」の音楽を聴いていただきます。


全編ショパンの音楽を使った幻想的なバレエです。詩人と風の妖精たちが森の中で踊るとゆー幻想を描いた作品です。この詩人のモデルはもちろんショパンです。ぱっと見は伝統的な白いチュチュのダンサーが踊る古風なロマンティックバレエ(ジゼルとかコッペリアみたいな優雅なバレエ)みたいですが、この作品にはストーリーがなく、非常に前衛的で抽象的なバレエでした。振り付けも、とてもモダンなものです。ゆっくりで優雅な動きなので一見普通に見えますが、やっぱり従来のバレエとは全然違います。ものすごくゆっくり流れるように動き続けるので、バレリーナにとってはめちゃくちゃきつい演目なのだそうです。
フォーキンは1904年にイサドラ・ダンカンのダンスを観て強い衝撃を受けています。イサドラはモダンダンスの先駆者です。彼女はトウ・シューズを履かず裸足で踊りました。衣装もチュチュではなくてギリシャ風のフワッとしたチュニックを着たそうです(彼女のギリシャ趣味はフォーキンとバレエリュスに引き継がれました。ダフニスとクロエなど)。そしてショパンの音楽なんかをバックに即興的に自由に踊りました。👇こんな感じだったのでしょう

だから当然、その影響下にあったフォーキンの振り付けもまた、とても前衛的なものになりました。フォーキンは従来のバレエの伝統から抜け出すことを唱え、無意味な技の誇示を嫌い、華麗なステップやテクニックを抑えて音楽の解釈に力点を置くことを主張していました。
「レ・シルフィード」は元は「ショピ二アーナ」というタイトルで1907年にマリインスキーで上演された作品です。これもまたフォーキンの振り付けでした。当初の音楽はグラズノフがショパンのピアノ曲4曲をオーケストラ用の組曲に編曲したものでした。これにフォーキンのリクエストでワルツ嬰ハ短調が加わって5曲構成になったんです。今日はそのいちばん初期の形態の5曲を原曲のピアノ独奏で聴いていただこうというわけです。今でも「ショピニアーナ」は上演されているようです。


軍隊ポロネーズOp40-1
夜想曲ヘ長調Op15-1
マズルカOp50-3
ワルツ嬰ハ短調Op64-2
タランテラOp43

バレエ・リュスではタイトルを「レ・シルフィード」と改めて、曲目もほとんど変えました。ディアギレフはグラズノフのオーケストレーションが「鈍重」だとして、チェレプニン、タネーエフ、リャードフ、ストラヴィンスキーに新しくアレンジを依頼したのです。グラズノフのアレンジはワルツだけを残して他は大幅に一新しました。
「レ・シルフィード」は大成功で、その後ずっとバレエ・リュスの定番のレパートリーとして残ることになります。その後、世界中のバレエ団が「レ・シルフィード」を取り上げ、今も踊られ続けているのです。古典になったんですね。

ではお願いします。久保くん登場、演奏。

アンコール、フォーレ・パヴァーヌ

余談:バレエリュスのレ・シルフィード


以下がバレエ・リュスの「レ・シルフィード」の曲目

軍隊ポロネーズ イ長調 Op.40の1
夜想曲Op32-2(ストラヴィンスキー編)
ワルツ変ト長調 Op.70-1(遺作)
マズルカ ニ長調 Op.33-2
マズルカ ハ長調 Op.67-3
前奏曲 イ長調 Op28-7
ワルツ嬰ハ短調 作品64の2
華麗なる大円舞曲Op18(ストラヴィンスキー編)

このショパンのピアノ曲のオーケストラ編曲の依頼のためにディアギレフはストラヴィンスキーに直接会いに行った。ディアギレフは既にストラヴィンスキーの作品を知っていて(おそらく「花火」Op.4と「幻想的スケルツォ」Op.3)彼の音楽にすっかり夢中でした。二人はすぐに意気投合した。このショパンのノクターンとワルツのアレンジがストラヴィンスキーとバレエ・リュスとの初仕事だ。そして、翌年から「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」という具合にバレエリュスの舞台のための傑作が次々に生み出されていくことになる。


「レ・シルフィード」の楽譜の問題
バレエ・リュス版の「レ・シルフィード」は他の団体に上演させないためにディアギレフが権利を握っていて、ディアギレフの死後も相続者がそのまま楽譜を握っているのが現状。バレエ・リュス版の楽譜では上演できないので、今は旧来の「ショピニアーナ」をやるか、ロイ・ダグラス編曲の楽譜を使うようになっている。
やっぱりストラヴィンスキーやリャードフ、タネーエフがアレンジに関わったバレエ・リュス版の楽譜を使って上演してほしいと思うが、現在は権利の問題で難しいようだ。


余談・ボロディンのイーゴリ公


ディアギレフはバレエがメインになった1909年にもロシアのオペラを部分的に上演している。全幕上演が不可能なら部分的にでもオペラをやりたい、とゆーディアギレフの凄まじい執念。1909年にパリで上演したのはグリンカの「ルスランとリュドミラ」の第一幕、リムスキーコルサコフの「プスコフの娘(イワン雷帝)」の第一幕、ボロディンの「イーゴリ公」の第二幕。これらはバレエと交互に上演された。「だったん人の踊り」はオペラの第二幕の一場面として上演されると独唱とコーラスが入るので、オーケストラのヴァージョンとは比較にならないほどの異常な迫力で盛り上がる。
この時は、大スター・シャリアピンがイーゴリ公を歌った。

だったん人の後、客席は異様な興奮で修羅場となった。歯止めの効かなくなった人々は舞台と客席を隔てていた柵を突き破ってステージに押し寄せ、扉に貼られた立ち入り禁止の張り紙を無視して突入してきた。舞台上は身動きできないほどの客であふれ、次の演目の準備のために舞台袖でウォーミングアップしようとしていたニジンスキーとカルサヴィナも群衆に巻き込まれてしまう…。
このように1909年パリの劇場を興奮の坩堝にしたオペラ「イーゴリ公」はボロディンの未完成のオペラだった。1887年にボロディンは急死した。。ロシア5人組の盟友リムスキー=コルサコフは、グラズノフと共に残された「イーゴリ公」の楽譜を集めて上演可能な形にまとめ上げる作業に着手した。草稿が残っているものについてはリムスキーコルサコフがオーケストレーションを行い、楽譜のない部分は生前のボロディンが折に触れてピアノで弾いて聴かせてくれた記憶を頼りにグラズノフが書き起こしたと言われている。初演はマリインスキー劇場で1890年に行われた。その当時ディギレフは大学生で、リムスキーコルサコフのもとで作曲の勉強を始めていた。だからディアギレフは「イーゴリ公」の初演のことは知っていただろうし、もしかしたらこの初演を聴いているかもしれない….

余談:パリのバレエの衰退


この時期バレエは衰退し、ジャンルそのものが「卑俗なもの」として低く見られていた(ドガの絵画に表現されている通り)。パリのオペラ座はバレエリュスの最初の公演の話を持ち込んだディアギレフに「オペラ座はフランス国立劇場の特別な地位にあるので、バレエだけの公演など許されない。バレエはオペラ座の舞台にのせられる代物ではない」と言ったそうだ。それでディアギレフは憤慨し、シャトレ座と契約することになった。


パリオペラ座



しかし後に、なんとバレエ・リュスの大成功を無視できなくなったオペラ座の方からディアギレフに話を持ちかけてきて、オペラ座でバレエの公演ができることになった。ディアギレフとバレエ・リュスはあんなにも頑迷だったオペラ座を実力で屈服させたのだ。すごい!


余談:ディアギレフという男


ディアギレフは自分についてこう書いている。
「私は第一に陽気ないかさま師、第二に偉大な魔術師、第三に厚顔無恥な人間、第四にへりくつ屋、そして第五に何の才能にも恵まれなかった男」


🩰「その生い立ち」
彼はウラル山脈のペルミという街の貴族の家に生まれた。ディアギレフ家はウォッカの製造を行なっていた。ディアギレフの母親は出産の数日後に死亡した。ディアギレフの父親は悲嘆にくれた。死の原因はディアギレフが頭が大きすぎたためだと言われている。写真を見るとディアギレフは巨漢で、頭もでかい。
赤ちゃんのときからそうだったのだろうか…

母親の乳母だったドゥーニヤがディアギレフの乳母になって彼女は死ぬまでディアギレフの面倒をみた。当時の貴族の家の乳母は派手なパレードの衣装みたいな服を着ていた
夏になると乳母たちは金やガラスの小さなボタンがたくさんついたついた色鮮やかなサラファンを着るのだ。煌びやかなディアギレフの乳母の姿は「ペトルーシュカ」の舞台衣装に呼応している….

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