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麻雀とメンタル③

前回書いたのは「メンタルに原因を求めることは、メンタルの弱さを抗えない敵と置くことで麻雀中の不満を解消する行動なのではないだろうか」ということ、そして「それで気が休まるとしても、一生逃れられない敵を持つことになるので得策ではないのではないだろうか」ということである。

得策ではないというのは、精神的な健康と麻雀の上達のために、である。これについて紹介したいある本の一文がある。

■敵を作る考え方

 自分の不調を、何らかの原因の介在によって「あるべき、標準的な、理想的な私」から逸脱した状態として理解する構えそのものが敵を作り出すのである。

麻雀の敵と言えば対戦相手だが、この本によれば、敵とは広義には自分のパフォーマンスを低下させる要因すべてであり、対戦相手だけでなく老化や病気、もちろんメンタルの問題…つまり敵と捉える限り、例の「抗えない巨大な敵、一生逃れられない敵」だらけになることが分かる。もちろん対・人においても言える言葉であろう。

■あいつが鳴かなければ

麻雀でこんな人がいる。「あいつが鳴かなければツモられなかったのに…」「あいつがアガらなければ俺がアガれたのに…」これはどういう状態かお分かりだろうか。この人は「対戦相手は本人が勝つために卓についている、ということを敵とみなしてしまっている」状態である。

つまり、この人は麻雀を打つ限り敵を殲滅させることはない。自分以外の者も勝利を目指している、そんな当たり前のことを敵と捉えるのをやめるか、日本接待麻雀協会を作るしかない。おすすめは僅差で前者だ。

■敵を作らない考え方

敵と捉えることをやめる、と言われても難しい。この人は自分を他人のプレーによって迷惑を被った被害者であると思い込んでいるからである。またも引用すると…

「敵を作らない」とは、自分がどのような状態にあろうとも、それを「敵による否定的な干渉の結果」としてはとらえないということである。自分の現状を因果の語法では語らないということである。

つまり、他家のアガリや、広義の敵である自分のパフォーマンスを低下させる諸々の要因を、当たり前に存在するもの、と考えるということだと思う。この本では、久しく私を構成してきた要素の一つと考える、という風に書いている。

老化や病気、いつか来る死別など、確かに我々には共に生き続ける敵がたくさんある。①で書いたやべぇやつですら、自分自身をやばくないと思う限り相対的には存在し続けるのである。

■因果の語法で語らない癖付け

この本は日頃自分がぼんやりと考えていたことが明確な言葉で書かれているので感銘を受け、自分も、冗談でも因果の語法で語らない癖を付けようとしてみているが、難しい。「麻雀とメンタル①」でも書いたように常日頃から避けようとしている言葉は多いが、会話の中でついつい因果の語法に同調してしまったりもする。実はこの言い訳も既に「因果の語法で自分の失言について語って」いるのである。修行の道は厳しい。

難しいが、因果の語法で語らなくなった状態は、皆が言う「メンタルが強い」状態にもかなり近いのではないだろうか。

■やっと回答

noteの記事の題材に「メンタルが低下した時にすること」を書いて下さい、というリクエストを頂いたことから始まった長話だったが、やっと回答編。

①ネガティブな感情に罪悪感を感じないこと。

②なぜ低下したのかフラットに考えること。

③メンタルの強弱にこだわらない。語らない。

④そして因果関係の中に身を置かないよう努めること。

「麻雀とメンタル」は一旦おしまいです。読んで頂きありがとうございます。次は「流れ」について書いてくれと言われているけど、脳ミソが散らかっていて、少々時間を掛けます。

※引用は内田樹さん「修行論」より


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