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麻雀とメンタル②

自分のことをメンタルが弱いと言う人は多い。前回書いたような「ネガティブな感情を持つことに罪悪感を感じてしまう人」や「評価される必要がない人の評価まで気にしてしまう」とても繊細な人だ。私が知る限り、こういう人はお気遣い屋で優しい人が多い。

今日はメンタルについて考えようとすればするほど、メンタルについて考えるのは馬鹿馬鹿しくなるような意見を。

■麻雀において

前回「メンタルが強い、とは便利だが曖昧な表現」と書いたが、麻雀界での「メンタル」という言葉の扱われ方は、さらに怪しいと思っている。

まず「麻雀はメンタルのゲーム」とはよく言われるが、精神面の健康はゲームにスポーツに仕事に芸術、どんなパフォーマンスにも影響すると思うし、麻雀とは別件で整えておきたい、独立した問題だと思う。「食べる前に飲む!」のソルマックは飲み会のドリンクには含まれない感じである。怪しい。

そして「自分の麻雀の弱点はメンタルなんだよなー」と言う人が多すぎる。言っちゃなんだが多分他にもある。これはどちらかというとポジティブで「いわゆるメンタルの強い人」の部類であるが、脳テンキというのは皆が目指す強いメンタルとはちょっと違う。「メンタルさえ鍛えれば…」と思っている人も同様である。実に怪しい。

さらには「自分はメンタルが強い」と豪語する打ち手ほど、なぜか超ナイーブな人に見えてしまうことが多々ある。「そうだ、自分は強いんだ、きっと大丈夫…」なんだかこんな声が聞こえてくる気がするのである。儚くも怪しい。

■本当に健やかでたくましい精神を持つ打ち手は

おそらく本当にメンタルが強い打ち手はメンタルの強弱について言及しないのではないだろうか。会話の流れや冗談で触れる事もあるだろうが、彼らはメンタルについて考える前に現状を打破するために行動していると思う。あるいは自分の感情と真正面から向き合うための行動をしていると思う。

ある有名プロが負けた後に海へと車を走らせる話を小耳に挟んだが、こういうことである(どういうことだ)。

私の場合は「負けた!」と大騒ぎをし、くよくよと麻雀を振り返る。リーグ戦の後によく昼寝をしているのはこの騒ぎのためかもしれない(勝っても寝ているが)。強いメンタルには程遠いが、メンタルの強弱について考えるよりは幾分いい。

■実像がなく抗えないものを敵とみなす

「メンタルさえ鍛えれば」「メンタルが弱いから」とは、何か。メンタル、精神、心というのは便宜上そう呼んでいるだけで実像のないものである。情報処理の現象であって、鍛えようとしてもできない。また、感情というのは自発的に沸き起こるもので、意思を持って変えようとしている時は既にその感情に支配されている時ではなかろうか。

メンタルというものに原因を求めるのは、そんな「実像がなく抗えない巨大な存在」を敵とみなすことで、麻雀で起こる数々の不満な出来事を諦める形で消化し、精神の安定を図ろうとする行動のようにも見えてくる。

■麻雀の便利ワード「理不尽」

私は苦手な言葉だが、麻雀打ちがよく使う「理不尽」という言葉もこれに似ている。理不尽とは通常は理屈に合わない、筋が通っていないことを言うが、麻雀打ちは「自分に都合の悪い偶然」を理不尽と言うことが多くある。

「3メンチャンなのにカンチャンリーチに負けた、理不尽だ」と、こんな用法である。麻雀のめくり合いで自分の方が分が良さそうな局面は確かにあるが、100対0の勝負であることが確定している局面はない。理不尽というのは、その3メンチャンをツモったのに立会人に牌を取り上げられ、なかったことにされるような場合に言う。

ただ、いい待ちが愚形に負けては残念だ。そんな時に「理不尽だ」と言い切ることも、精神安定剤になるのかもしれない。

私が苦手な理由は言葉の誤用の問題もそうだが、まだ麻雀を知らない人に勘違いをされて、少なくともあまり気持ちのよい言葉ではない「理不尽」の乱用が、子から孫へ…のように伝播していくのが個人的にイケ好かない、というだけである。

■逃れられない

メンタル云々にせよ理不尽と言い放つにせよ、抗えない敵を持つことはあまり得策じゃないように思う。愚痴を言って気持ちが休まるとしてもだ。なぜなら、抗えない敵を持つということはその敵からずっと逃れられないということでもあるからである。

またもだらだらと長くなったので、続きはまた今度。

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