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単に愛に触れていたい

自分に向けられる「かわいい」が信用できない自分が嫌いだ。

いつからか、私という存在自体がコンプレックスの塊だった。
顔も 身体も 声も 性格も 本当は全部が気に入らない。
何でも笑って受け止めてしまうタイプだから、気が付けばいじられキャラの立ち位置で すごく傷つくことを言われても、空気を乱したくないし、1人になるのが怖くていつも笑っていたような気がする。

中学生の時、初めて自分で「学校に行きたくない」と思った。

嫌なことだって沢山あったけれど、小学校では6年間無遅刻無欠席だった。
そんな私が、親を装い学校に公衆電話から欠席の電話をして、少し自宅から離れた図書館や 時には制服を着たままアニメイトやゲームセンターで時間を潰すようになった。

知らないところで「おっぱい爆弾」とあだ名を付けられていたのが嫌で 胸をできるだけ潰しながら歩くようになったあの日、容姿を散々バカにされて顔や身体を隠すようになったあの日、折角頑張ったメイクを貶されてコスメを全部捨てたあの日。 そう声をかける男子の後ろで笑っていた女の子たちの視線も 痛いくらい鮮明に覚えている。あれからずっと、同性の友達とすら温泉に行けなくなってしまったし 人前ですっぴんを見せるのが、実は 怖い。
思春期の子の言うことなんて と言われるかもしれないけれど、モラトリアムな水槽を泳いでいた一匹の魚にとって充分すぎる銛だったのだ 刺さりっぱなしのそれは、偶に些細な事で揺り動かされ 慣れた痛み 閉じかけの傷を開いて 忘れさせまいと記憶をフラッシュバックさせることがある。

過去に囚われたまま、今でも自分を肯定する言葉に懐疑的でいる。

誰にでも向ける口先だけの言葉なんじゃないか、こう言っておけば喜ぶからとただ吐いている言葉なんじゃないか。
「好き」とか「かわいい」とか言われるの、うれしいに決まっているけれど、素直に受け止められず 喜んでいるふりをする。
気付けば自分の良いところが見つけられなくなっていて、今自分の好きなところは月1で変え続けているネイルくらいかも でもこれも自爪じゃなかった…

それでも、自分を「好き」と言ってくれる人を大切にしたい。
疑っちゃう、とか言っておいてなんだかんだ私のこと好きでいてくれる人のことが大好きなのだ。私が本当に好きな人にしか「好き」と言わないからこそ、他の人にもそうであってほしいとどこかで願っているのかもしれない。エゴかもね 好きの判断基準なんて人それぞれなのに

それでも、私だけは私の「かわいい」を否定したくない。
一度だってかわいくあることを妥協したことはないし、いつだって昨日の自分よりかわいくありたいと思っている。
今は過去の経験が枷になって、それから抜け出したくて もがくかのように頑張っている気がする。でもいつかは、自分へ向けられる肯定的な言葉を原動力に頑張れる人になれるかな なりたい

最初は勢いで書き始めたけど、上手に書けなくて消して、考えに耽ってまた書いてを繰り返していたら鮮度落ちまくりの文章になってしまったかも(書き始めたの、13日…)。でも、すっきりした
基本悩みなさそうに見られがちだから、こうして誰も干渉せず吐き出せる場所があるって素敵。自分だけでは消化しきれない気持ちってあるからね
実は下書きぽつりぽつりと貯まっているから、また近々何か書きに来ます

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