電車徒然自己啓発

僕は自己啓発本が嫌いである。というより、成功を機械的に捉える、さらに言えば人間が機械的に動くことが嫌いである。自己啓発本を読んだ人は、効率化と結果の最大化のための方法をとるようになる。そのような人間はロボットと何が違うのか。こういえば、なぜ嫌いなのか理解してもらえると思う。
ぼくの両親は、趣味があり(そうで)、子はそこそこの高校・大学へ進み、親孝行も行い、そんな人生に見える。おそらく、幸せであろう。
しかし、僕自身のしあわせはおそらくそのようではない。アイデンティティ。他の誰とも違うものになりたい。その時点で大衆の1人に過ぎないのでは無いか。それでも、アイデンティティが欲しい。そこに幸せがあるのか。わからない。しかし、そうならないと幸せかどうかは分からない。何者でも無い自分。機械かのようでは無い自分。だから僕は機械と自己啓発が嫌いである。
嫌いとはなにか。それは、新たな発見や機会を奪うものである。そう、自己啓発本が嫌いというのは非常に私的なものである。公的なものが良いというわけでは無いが、嫌いなものは公的に良く無いと知ってもらいたい。批判とは、そのようなものである。一方で、批判するときに必要なのは、対象をよく知ることである。嫌いで批判したいからぼくは自己啓発本を読む。
なるほど、目的からの逆算、最優先事項の認識、主体性が重要。なるほど。僕もそう思う。この本は悪魔的である。僕の発見は新たな発見じゃなかったわけだ。それが無意味でないことは分かる。でも、もう知られていたのか。その悲しい事実を自覚させるとは、悪魔的である。アイデンティティが溶ける音がする。でも、なぜこのような成功に必要なことを公にするのか。アイデンティティとは自己顕示欲の現れに過ぎないのか。公にすることのデメリットを考えている時点で利己的かもしれない。アイデンティティは、達するものではなくて、乗り越えるものな感じがしてきた。
ああ、なんと影響されやすいことか。
でも、発見があった。やっぱり嫌いで終わらすべきじゃ無い。批判するために知らないと。
この発見は聴いてもらえるだろうか。広めたい。
ちなみに、効率化と結果の最大化をする人間と、ロボットで何が違うのかも分かった。主体性だ。

ああ、
電車で悟りそう。
悟るなら山奥がいいなあ。雰囲気あるし。長野の奥地とか。

揺れながらそんなことを考えたバイト帰り、陽は既に沈んで街は明るくなり始めた。

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