初めて東中野で降りた日

映画『溺れるナイフ』の円盤化を記念して、山戸結希監督作品の凱旋上映がポレポレ東中野で開催されました。私のお目当ては、山戸監督のトークショー。私が山戸監督を知ったのはテレビ東京の佐久間P( @nobrock )のアカウントをフォローしていたからで、佐久間Pが絶賛するなんてどんな人なんだろう、と気になっていて。『溺れるナイフ』公開前にやっていた佐久間Pとのトークショーには予定が合わなくて行けなくて、後日見たネットニュースの記事や、先行上映で映画を観た人たちの感想がなんだかただごとじゃなかったから、映画は絶対観に行こう、と決めていました。
ファッション雑誌で見かけてから小松菜奈ちゃんの存在はずっと気になっていて、絶対に苦手な分野だとわかっていても小松菜奈ちゃん見たさに『渇き。』を観に行ったことがあって、小松菜奈ちゃんが出てるだけで『溺れるナイフ』を観に行く理由は十分にあった。普段から映画はひとりで観に行ける質だし、ひとりでも観に行こうと思ってたけど、友達がジャニーズWESTの重岡くんのファンだったから、約束して一緒に映画館に観に行ったら、なるほど、確かにただごとじゃなかった。すごくすごくすごかった。重岡くんよかったね、って言ってあげたいけど言えないくらい、自分の中の大切なものが打ち鳴らされていた。山戸監督のアカウント( @KURAYAMI_TOWN)をフォローしだしたのもその頃だった。山戸監督のツイートはいつだって詩的で戸惑った。でも、ポレポレ東中野で『おとぎ話みたい』を観た後に山戸監督がお話しする姿を見たら、なるほど、twitterそのまんまの人だった。

2017年4月18日。その日はたまたま仕事が早く終わって、帰り支度を整えながらいつものように手癖でtwitterを開いたら、ポレポレ東中野のツイートがリツイートされていた。どうやらまだ席が余っているらしく、今なら最後の回の上映に間に合うらしい。時間が合わないからどうせ行けないなあと諦めていたけど、今日に限って時間が出来た、こんな機会はもう二度とないかもしれない。そう思ってしまったら、答えはひとつしかなかった。東京に住んで20年以上経つけれど、私はその日初めて、東中野駅の改札を潜りました。


18日に観たのは『おとぎ話みたい』。翌日は昼に観劇の予定があったから今日だけにしておこう、って思ってたのに、二回目に東中野駅の改札を潜る頃には、明日舞台に行く前にもう一度ここに寄ろう、と決めていました。

19日は昼に青山で舞台を観劇し、夜に東中野で『あの娘が海辺で踊ってる』『溺れるナイフ』を続けて観ました。2日で4作品って、我ながらあほなスケジュールだと思うけど、観に行ってよかった。気付けばあの日から1週間が経とうとしているけど、私の中にはまだまだあの日に見た映画が流れ続けてる。



『おとぎ話みたい』

私は東中野に映画館があることも、“おとぎ話”が実在するバンドだということも知らずにこの映画を観ました。すごかった。衝撃だった。


パンフレットでも話されていたように、冒頭のしほちゃんの語りにまず「難しい映画なのかな」って背中がぎちっと固くなるような緊張に駆られて、でも、最後の最後にまたしほちゃんの口からその言葉たちがこぼれていったときに、その緊張は一瞬で解けた。ここに繋がるんだ!ってすごく感動した。

しほちゃんは綺麗。しほちゃんを演じる趣里ちゃんの持つ綺麗さはそのまんま映画の中に生きててくれていた。中高ブレザーだったから、私にとってセーラー服は憧れの存在だった。制服のスカートって折って履くと、プリーツが崩れて腰回りがちょっと浮いちゃうんだよね。本来のデザインより歪に膨らんでいるであろうスカートから伸びるしほちゃんの長い手足は、フィクション界の暗黙のルールに縛られることなく、目で見たその通りの価値があった。

当たり前のように地元に進学すると話す友達に対して、その理由を述べずに「東京に行く」と告げたしほちゃんの、彼女らへの諦めと期待を想像してみる。あなたたちのいけないところへ私は行くよ、という嘲りを孕む誇らしさと、私はこの輪の中には入れない、という孤独さを感じた。

私、音楽と物語が並列関係にある作品がすごく好きで、劇中に掛かる曲はすべてこの映画のために作られた音楽で、おとぎ話というバンドも、この映画のためのキャラクターなんだと思ってた。それくらい映画と音楽が混ざり合ってひとつになってた。そして、ダンス。しほちゃんが箒を投げ捨てて踊り出したとき、『ラ・ラ・ランド』だ!って思った。日常の中にある音楽とダンス。海外ではそれを“ミュージカル”と呼んでいるけど、私は日本の『ラ・ラ・ランド』をこの『おとぎ話みたい』の世界で見つけた、と思った。だから、この映画は私の中ではミュージカル映画でもある。日本のミュージカル。


新見先生。自分だけしか好きじゃないと思っていたものを知ってくれている人、そして自分よりも詳しい人、そんな人に出会ってしまったら、まるで神様に救済されたような気持ちになる。新見先生はしほちゃんにとっての初めて出会った神様なんだと思う。だから初恋をした。しほちゃんはその感動を「恋」だと信じた。新見先生はまだ上京していないしほちゃんにとっての東京だった。

私は地方で生まれて東京で育って東京に住んでいる人間だから、新見先生に恋は出来なかった。しほちゃんの恋が燃え上っていくほど私はなんだか映画に置いてけぼりにされている気がして、でもしほちゃんはその歪な温度差を「出戻り文化人」という強すぎるパワーワードでぶん殴った。自分より年下の女の子、生徒にあんなこと言われたら、男として大人として先生としてのプライドは木っ端微塵なんじゃあないかな。しほちゃんは賢い。自分が殴った先生の心は、もう二度と取り戻しのきかない存在であることを一回で学んだ。今ここにはないものを手を伸ばし渇望するしほちゃんと、かつては手の中にあったものが今はもうどこにも見当たらない新見先生。出戻りは決して悪いことじゃないから、なんて言えない。そんなこと微塵も思ってないもの。私は東京が好き。だから東京に住み続けている。この世に明確な善悪なんて存在しないけど、どちらかの視点に立つとどちらかの思考との距離感は確実に生まれる。田舎は東京から離れている。その距離感は間違いなく本物だ。

先生の中にしほちゃんの椅子はなかった。それは先生と生徒という立場でもあったし、しほちゃんの抱えるフラストレーションをひとりで請け負いきれる自信もなかっただろうし、やっぱりしほちゃんを縛るような存在ではいたくなかったんじゃあないかな。暗闇の中の告白。顔がよく見えない。しほちゃんは美人だけど、先生は決してイケメンじゃないところがすごくよかった。この映画が商業だったら、きっと先生は女性に人気の俳優さんだっただろうから。心からの本音なのかハッタリなのか、ハッタリがかたまりすぎていつの間にか真実になってしまったのか。「先生私のこと好きでしょう」という強すぎる主張は、会話のキャッチボールを完全に拒否していた。しほちゃんの恋の中にだって先生は生きていなかった。片想いってそうだよね。ボールを投げあう約束をすることが「お付き合い」ってことだから。しほちゃんは恋をしていたんだなあと思えた。


おとぎ話先輩たちは、本当にあの学校に存在していたのか、しほちゃんの中に住む東京の妖精だったのか、一度観ただけではわからなかった。どちらでもいいんだろうけどね。東京に繋がる空の下にいるおとぎ話先輩たちは地下の資料室には降りてこない。うん、やっぱり妖精みたい。私はおとぎ話の存在を知らなかったので、もちろんおとぎ話のライブも知らなくて、あと私、ライブハウスにも行ったことない。東京ドームとか代々木体育館とかZEPPとかしか行ったことない。だからやっぱり私にとって「おとぎ話」は全部まるごとファンタジーだった。

タイトルの『おとぎ話みたい』を私は「まるでよくできたフィクションのような」って意味で解釈していたけど、「おとぎ話(というバンド、メンバー音楽ライブひっくるめたそれらの存在)みたい」って意味でもあるんですかね。どちらにしてもとても面白い。


クライマックス。プールまでは追いかけてきてくれるけど、屋上には登ってこない新見先生。東京に繋がる空の下に、先生は来ない。しほちゃんを迎えになんてこない。しほちゃんの長い手足が、長い髪の毛が宙を舞う。屋上の金網にがしゃんとしがみついて、「キチガイだと思って欲しい」。すごい台詞だった。私の人生において一生口にする機会も頭の中に掠めることもない言葉だと思った。しほちゃんの中で暴れ狂う感情、それはきっと恋だけが占めているわけじゃない、失望とか哀れみとか羨望とか寂しさとか恋しさとか、いろんな感情が渦を巻いてしほちゃんの中で暴れて、それが外にあふれ出る、体一つだけじゃ収まらないフラストレーション。あのシーンが初日に行われた、と書いてあってびっくりした。一番最初にあんな感情を吐き出せることも、それが映画として見たときにラストシーンで流れてちゃんと繋がっていることにも感動した。


最後に『COSMOS』のMVが流れるのは、あれは本編がそうなの?ポレポレ東中野だけの特別版?あんなのずるい。しほちゃんがどこにいるのかすぐにわかった。銀座のApple Store。高級百貨店、高級ブランドの路面店が並ぶ銀座通りを踊りながら走り抜けていくしほちゃん。顔の真ん中に線が引いてあるメイクはおとぎ話のボーカルの人がライブ中にしてたやつ。私、長回しに弱くて。私が好きな子たちの十八番で、でもそれって古くからある手法で、でも実際目の当たりにするとものすごく新鮮で、今この瞬間生まれた映像だって思う。圧倒的なライブ感。ひとつに縛った長い髪がほどかれて、深く深くお辞儀をしたしほちゃんの髪が銀座のアスファルトに潔くへばりつく。しほちゃんは飛べたんだ、ってわかって、たまらなく感動して私は音の鳴らない拍手をした。拍手をすることでしかこの感動を表に出せないのが観客というちっぽけな存在だから。

この日はトークショーのあとに、「例の流れ星」が世界で初めて公開された。言っちゃいけないから言えないけど、言えないことがもどかしいくらいにすごくよかった。早く堂々とここがよかったって口に出したいから、一瞬の流れ星じゃなくって、何回も何回も降り注げる世の中になって、って祈ることしかできない。

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