行き止まり

幼馴染の春臣くんは、僕にとって憧れの存在だった。

勉強は僕の方ができた。だから僕は国立の大学に行って、春臣くんは私立の少し偏差値の低い大学に行った。

スポーツに関しては僕はからきし駄目で、春臣くんはサッカー部のキャプテンだった。いつも窓から見ているだけの僕と、すいすいボールを操ってゴールに運ぶ春臣くん。春臣くんのまわりにはたくさんの友達がいた。

僕に友達がいなかったわけじゃない。休み時間になんでもない話をする友達はいたし、授業があるのにペンケースを忘れたときは誰かしらがシャーペンと消しゴムを貸してくれた。

それでも春臣くんは特別で、いつも気がつけば僕の隣にいて、僕に笑いかけてくれた。

でも大学生になって一緒にいる時間がめっきり減った。帰りに僕の家に寄ることはほぼなくなったし、朝一緒に学校に行くこともなくなった。夏休みが過ぎて久しぶりに春臣くんに会ったときは、髪が赤くなっていてびっくりした。それでも似合っていたけどね。

そのあとだ。僕が学校に行けなくなったのは。

「海里ー、来たぞー」

ドアの向こうから声がしたかと思えばガチャリとドアが開く。赤い髪をふわふわとさせて春臣くんが顔を覗かせた。いつもと同じようにへらりとした人のいい笑顔を貼り付けて。

「春臣くん」

布団の上で携帯を触っていた手を止め、右手で布団を押して上半身を起こす。

倒れた日から、春臣くんは毎日学校の帰りに僕の部屋による。時間が毎日違うから忙しいのはわかっていたけど、それでも僕の部屋に来ることは止めなかった。僕の部屋をノックして少し話して家に帰る。たまに母さんが晩ご飯を一緒に食べないかと誘うとありがとうございます、と笑顔を見せた。

「春臣くん、僕もう大丈夫だから毎日来なくていいよ」

「そんなこと言うなよな、俺お前のこと心配なんだよ」

そう言いながら春臣くんは重そうな荷物を床に置いて、リュックを下ろした。まだサッカーはやっているらしく、リュックには高校生の頃からつけている、誰かが作った手作りのサッカーボールのキーホルダーがちらちらと見えた。

「明日さ、俺と一緒に信号のとこ行かない?」

それは春臣くんからの突然の提案だった。

「え?」

「だからさ、海里がいつも倒れる信号。俺も付いてってやるから一緒に行ってみねえ?」

「でも……」

「無理にとは言わないけどよ、これからも学校行けないのお前も困るだろ?」

「確かに……」

そうだけど、と口の中で言葉を並べた。

春臣くんは真剣な表情で僕の方をじっと見つめる。あんまりにも見つめてくるもんだから、僕は自分から視線を逸らしてしまった。頰が緩む。これはなんて名前の感情だっけ。

「倒れそうになったら俺支えてやるし、な?」

その言葉に、はっと目が覚めるような感覚が襲った。嬉しいような、虚しいような、自分でもよくわからない。

「……そうだね、わかった」

春臣くんの顔がぱあっと明るくなった。

「行ってみる。頑張ってみるよ」

よし、決定。と春臣くんは目を細めて笑う。僕もつられてへらりと笑った。

その日の夜は、なぜかそわそわしてなかなか眠れなかった。

次の日、目が覚めると枕元の時計は7時前を指していた。時計のアラームは7時に設定していたから、まだ少し早い。僕は長い前髪を避けながら目をこする。そのまま体を起こして、ドアのある方へ向かった。

「おはよう」

「あら海里、おはよう。早いわね」

キッチンへ顔を出すと母さんはいつものようにフライパンへ向かっていた。昨日の夜、明日は大学に行くよ、というと少し泣きそうな顔をしていたが、今はいつもの顔に戻っていた。

椅子に座りテーブルに並べられた食パンをかじる。今日はイチゴのジャムが塗ってあった。口の中でほんのり甘い味がした。

自分の部屋に戻りパジャマから外行きの服に着替える。今日は少し寒いから厚手のパーカーにした。着替え終わったと同時くらいに、家のインターホンがピンポン、と短く鳴った。学校の用意をして母さんに行ってくるよと言い残して家のドアを開けると、春臣くんがいた。やっぱり今日は寒いようだ。春臣くんはマフラーを巻いていた。赤い髪に緑のマフラーでまるでクリスマスみたいだった。

「よっす」

「おはよう」

控えめに挨拶すると、春臣くんはもっと元気出せよ、と僕の背中を軽く叩いた。それから信号のあるところまで、僕と春臣くんは並んで歩いた。春臣くんは大学であったこととか僕の知らない友達の話なんかをしてた気がする。よく覚えていない。なぜか視界が少し狭く感じた。

「あそこか? 例の信号は」

「う、うん」

春臣くんが信号を指差す。僕の心臓はいつもより早く鳴っていた。視界がぼやける。そんな僕に気づいたのか春臣くんが大丈夫か、と心配そうに問いかけるのが遠くで聞こえた。

やばい、と思った。前と同じ感覚。赤い信号が眩しくて、頭がクラクラして、前がしっかり見えない。押しボタンの場所もわからない、隣にいるはずの春臣くんでさえ認知できない。あれ、僕はどうしてこうなんだっけ。なんだかだんだんよくわからなくなって、目尻に一滴の涙が滲んだ。

「海里、おい、海里」

春臣くんが僕を呼ぶ声が聞こえる。でももう僕に返事をするほどの気力は残ってなかった。足がガクガクする。呼吸が荒くなる。僕の記憶はそこで途絶えた。

起き上がると、布団の上だった。隣をふと見ると、春臣くんがいた。なぜか申し訳なさそうな顔をしていた。

「海里、起きた?」

いつも明るい春臣くんの顔は少ししょんぼりしていて、細い眉はへの字に曲がっていた。

「なんか、ごめんな。結局なんもわかんなかったし、俺いても意味なかったな」

へへ、と苦笑い。……え?何を言ってるんだろう、春臣くんは。

「……そうだよ」

僕の口から出た言葉は、思ってたのと違うものだった。

「迷惑だったんだよ、最初から。関係ないじゃん、春臣くんには。もう、放っておいて」

そこまでいって口をつぐむ。何を思って言ったかもわからない。でも、しまった、と思った。春臣くんの顔が見れなくて、布団の上でそっぽを向いた。

「……そうかよ」

おそるおそる春臣くんの方をちらりと見ると、ギシ、と床が鳴り、春臣くんが立ち上がる。その顔は、無表情にも怒っているようにも見えた。

「もう来ねえよ、じゃあな」

ドアがバタンと閉まる。上半身を起こしてみても、そこには僕以外には誰もいなかった。最後に見た春臣くんの赤い髪が目に焼き付いて離れなかった。

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