褪せた花束は壁を伝い地に落ちる

手首の傷跡に、花を添えた。
それはまるで、魔法のようだったんだ。

壁一面に棲みついた褪せた色の花束が、わたしにはなしかける。

「おはよう」
「もうひるだよ」
「おきなくていいの?」

いまおきるよ。
目でモノを言うかのごとく、わたしはぱちりと目を3回瞑った。
それに反応するように窓から迷い込んできた風に、花弁がそよそよと揺れ動く。
きょうも、いちにちがはじまってしまった。
ベッドの枕元に置かれた時計が昼の1時を指している。
そより、そより。
部屋の中をかき乱す風がなんともきもちいい。
ゆっくりと起き上がり、ばさりとタオルケットをベッドの上に落とした。

きょうは、なんのひだったっけ。

んー、と伸びをすると意識が目を覚ますようにはっきりとしてくる。
きょろきょろと、部屋の中を一瞥する。
壁にはお花、床には赤い水滴がポタリ、ポタリと色を宿していた。
「お、は、よう」
空を仰いで口を開けると声が出た。
声なんて、出したのいつ以来だろう。
久しぶりの自分の声は、なんだかじぶんじゃないようで少し驚いてしまった。

どれだけその場で立ち尽くしていたのだろうか。
気づくと、窓の外に色の白いおとこのこが立っていた。
こちらをみて、目を細めて笑っている。
え、えぇ?
急いであけっぱなしの窓の近くにより、おそるおそる下を覗くとそこにはじわじわと熱を帯びた道路があるだけだった。
そうだ、ここは一階だったっけ。

「ねえ」
耳を通り抜けて脳に直接届くような感覚に、思わず頭を抱えた。
くらくら、する。
その声は、澄んだような、はたまた重くのしかかってくるような、なんとも言い難い声で、わたしはその声に酔ってしまったようだ。
思わず、ぺたり。
床に座り込むと、ひんやりと冷たいものが床とひっついたところから感じた。

じわじわ、じわじわ。
外ではなにかが愛をつたえるために一生懸命ないていた。
鳴いているのか、泣いているのか、わたしにはわからなかった。
それがなんとも切なくて、思わず瞳にまるい雫が溜まる。

「あ、あな、た、は」
だれ?
と聞く前に、そのおとこのこはわたしのもとへくるりと体を向け、2歩歩みよったかと思うと、すとんと座り込んだ。
目線があって、なんだか恥ずかしい。
たぶん、きっと、わたしのかおは真っ赤なのだろうなあ。
それがまた恥ずかしくなって、両手で顔を隠した。

「こんにちは」
おとこのこが、そうやってわたしに声をかける。
「こ、こんにちは」
同じように、わたしの口からおとこのこのほうに向かって声を出した。
にこりと微笑む彼に、わたしはよくわからなくなって首をかしげる。
いったい、だれなのだろう。
このおとこのこは。
なぜ、ここにいるのだろう。
わたしには、なにもわからなかった。

このおとこのこのことも、わたしのことも、いまの状況も。
わたしには、なにもわからなかったんだ。
だから、混乱した。
見たことが全てであるなら、たぶん、わたしはここに住んでいて、この部屋はわたしのもの。
お花を壁に棲ませたのも、たぶんわたし。
赤い水滴も、わたしのもの。
でも、このおとこのこは誰なのだろう。
明らかに異質すぎるその存在に、整理しようとすればするほど頭がこんがらがった。
おとこのこは、白い肌に白い髪、爪は何かをべたべたに塗りつけたような真っ赤な色をしていた。
ぱっちりとした青い瞳をしていて、時折しずかに微笑むその表情のせいで目の下にうっすらとしわができていた。
見覚えは、ない。
いまのわたしには記憶というものがなかった。

「誕生日、おめでとう」

見覚えのないおとこのこは、息を大きく吸ったかと思うと、そうやって、わたしに声を浴びせた。
誕生日?
だれの、誕生日なのだろう。
目をぱちくりとさせると、おとこのこはくすくすと笑い始めた。
「きみの、誕生日だよ」
きみというのは、わたしのことなのだろうか?
わたしの、誕生日?
今日は、わたしの誕生日?
思わず、首を回して部屋を一望したけど、今日の日付が確認できるものはなかった。
そもそも、じぶんの誕生日を覚えていない。
でもきっと、誕生日なんだ、わたしの。
このおとこのこがいうから、それは本当のことのような気がした。

「外に行かない?」
そ、と?
その言葉を聞いた瞬間、わたしのからだの全身に鳥肌がたったような感覚に襲われる。
そとはいやだ、そとはいやだ、そとはいやだ。
わたしの中の何かがそう告げているのがわかる。
ぶんぶんといきおいよく首を振る。
首が、ちぎれそうなくらい振ったら、体が、なにか温かいものに包まれた。
瞑った目をぱちりとあけると、おとこのこが、わたしの体を抱きしめていた。
「ごめん、外はやめよう」
「いいんだよ、いやならいってほしいし、無理強いはしない」
「ぼくは、ただきみがいてくれるだけでいいから」
息継ぎをしているのかわからないくらいに、おとこのこは次々に言葉を吐き出すとわたしの体に回した手にぎゅっと力を入れた。
安心する。
だれかもわからないのに、そのあたたかさにほっとしたわたしがいた。
「泣いてる?」
鼻と鼻がつくくらい、近くにおとこのこの顔があったかと思うと、ぺろりとわたしの目尻のあたりを舐めた。
それから、わたしの涙が止まるまで、おとこのこはわたしの頭を撫でていた。
次から次へと溢れる涙に、膝に水たまりができては床に落ちていった。
途中で男の子が何かを言っていたような気がしたけど、わたしには聞こえなかった。

わたしが泣き止むと、おとこのこはわたしの体を離し、褪せた花の棲みつく壁へと足を運び、その花束から一本抜き出した。
その衝撃で花弁が一枚床に落ちた。
おとこのこは窓のそばで丸まって座るわたしの左手を掴んだ。
そこには赤い線のような傷跡が残っていて、見ていて痛ましい気持ちになった。
なんだろう、これは。
おとこのこはそこに花を一本、添えた。

「今日まで生きてくれて、ありがとう」

その言葉は、魔法のようだった。


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