38分①

いつもの左手の指先を刺すように冷やす感覚が、いつまでたっても僕のことを呼ばない。おかしいなと思って左手を突っ込んでいたポケットをひっくり返す。埃やら小さな砂やらが床に落ちた。きたねえ。まあ確かにいつ洗濯したかわかんないけど。ゴミは出てきたが、肝心のものが見当たらない。
「嘘だろ」
空気中に吐き出された声は少し掠れていて、なんだかより一層悲壮さが際立つようだった。鍵を忘れた。家の前、それも、ドアの前まできて、今更になって気づくとは。バイト先に忘れたのか元々持って出なかったのかはわからない。でもどちらにせよ家に入れないのは事実だった。バイト先はもう閉まってるし、ていうかバイト先の鍵を閉めて最後に出たの僕だし。今から戻って確認することはできたけど、生憎そんな体力は残ってなかった。開店から閉店まで二人で回した今日のバイト、こんな日に限って客が多いのはどちらかが雨男なことよりタチが悪い。まあ運という面で言えば僕のほうが悪いのは確かだ。常連の小言ばっかり言うおじさんに目をつけられるのは、いつももう片方のバイトじゃなくて僕。気が弱いとでも思われてるんだろうか。まあそう思われたところで特になんとも思わないけど。
そんなことより鍵だ。春が近づいているといってもまだ夜は寒い。というか、今日は出る時急いでいて上着もマフラーも忘れた。パーカーだけじゃそりゃ立春を過ぎたといえどもこの気温に立ち向かえない。とことん運がない。ゴミが出てきたほうの反対のポケットを探り、携帯を出す。暗闇で眩しく光る画面はもう日が変わっていたことを教えてくれていた。大家さんだって寝てるだろう、なんせ、年だし。どうしようかな、いろいろ考えを巡らせてみたものの、手っ取り早い方法は一つだった。バイト先に戻ろう。多分あるとすればロッカーの中だ。走れば往復で15分。このまま家に入れないまま夜を明かすよりはましだ。くるりとドアに背を向け、急ごうとしたその時だった。ガンと鈍い音がして中身がぱんぱんのショルダーバッグがドアを攻撃した。僕がドアだったら理不尽に怒っていたかもしれないけど、その想像上の怒りも消え失せることが起きた。ところどころかびているドアが、ゆっくりと軋んだ音を立てて少し開いた。え? 開いたのだ。部屋の中から外の暗さとはまた違う闇がこちらを見ていた。夜といっても外は街灯や月の光のおかげで電灯をつけなくても問題なかったけど、部屋の中は違った。全くの黒。電気をつけていないから当たり前だけど一切の光源をもたないそこは、どこかへの入口にも見えた。まあ、実際入口だった。ドアが開けば、そこに玄関があるのは当たり前だ。ゆっくりと中を覗くと、外からの光のおかげで少しだけ様子がわかった。僕のほうから見て右側の靴箱。その上に、小さく光る何か。まじまじと見なくてもわかった。鍵だ。急いでいたから、鍵も持たずにそのまま出たんだった。あほだなあ。少し安心したのか、小さな欠伸とともにいきなり眠気が襲ってきた。

手早く風呂に入ると、さっきまでの眠気はどこかに飛んでしまった。壁にかけてあった時計はちっちっと音を響かせてはいたけど、秒針が動いてない。それどころか、なぜか7時過ぎをさしていた。そういえば電池を変えようとしたまま放置してしまっていた。仕方なくこたつ布団を挟んだローテーブルの上の携帯に手をやると、1時半過ぎを僕に訴えていた。こんな時間か。バイトがラストまで入っている日はどうしてもこの時間になる。そのまま寝ればいい話だけど、残念ながらいつも風呂に入ると眠気が飛ぶ。体を冷やさないようにこたつにもぞもぞと入り、眠気がくるのを待った。出しっぱなしの布団はこたつの隣を陣取っている。布団に入れば眠気がきたときそのまま寝れるけど、人の体温でしか徐々に温められない布団は今は冷たい。そんなところで長くいるのはごめんだった。
薄く目を開けたまま携帯をいじる。アプリなんてほぼ入ってないその携帯を見ても、なにも面白いことはなかった。ツイッターもフェイスブックもやめてしまった。ゲームは元々しない。ラインと初期設定のアプリくらいしか入っていない僕の携帯は、まさしく携帯としての役目くらいしか担わせてもらえなかったらしい。何気なくラインを開くと、いつもみる画面が広がっているだけ。通知なんてほぼこない。グループは掛け持ちのバイト2つ。友達欄にはバイト先の人と母さんだけ。さすがにライン友達の数が10に満たないのは悲しくもあったが、だからといってどうしようもなかった。自分で消したから。ラインの友達欄から名前を消すと、なんとなく本当に友達じゃなくなるような気分になった。多分向こうは気づいてないだろうし、そもそも向こうから連絡なんて来たことがなかったからなんの問題もないだろう。小さく溜息を吐くと、部屋の隅に赤がところどころ剥がれたギターを見つけた。なんだか、どうにもならない気分になった。

僕は、高校を卒業するとともに上京した。親の反対を耳に入れず、適当に家賃だけで決めた小さなおんぼろアパートに引っ越した。東京の中心とも言える東京駅を含む山手線からは少し離れていて、都心に出るには少しかかるけど、それは別にどうでもよかった。急いでいた。そこから、早く離れたくて。実家の自分の部屋はめちゃくちゃ物が多くて、でも別に持って行くほど必要な物かと言われれば首をかしげるものばかりで、適当に着替えと、布団と、それから、別にいらなかったけど一応ギターも持ってきた。どうでもいい思い出しか詰まってなかったのに、メタリックな赤が光るそのギターを置いていくことはできなかった。僕の勝手な行動に親父はめちゃくちゃ怒っていたらしい。2度と帰ってくるな、とまで言っていたと母さんから聞いた。それはそれで都合がよかったけど、まさか電話をかけても繋がらなかった時はまじかよ、と思った。まあ、それはもういい。仕方ないし、それでも僕はそこにいることは耐えられなかった。逃げるように引っ越した先の東京で、僕はひとつだけ就職試験を受けた。なんでも母さんの知人の会社らしく、ツテなんてあったのかと適当に挑んだら落ちた。その時、髪はほとんど金に近く、最初はそれのせいかと思っていたけどのちに聞いた話によると違うところに原因があったらしい。教えてはくれなかったけど。それから適当に髪の色が明るくてもいけそうなところを選んでバイトを探した。働くのは面倒だったけど、今更家賃の補助なんて頼めないし、仕方なく。結局近くのネカフェとコンビニに行くことになったけど、コンビニは色々あって辞めた。そのあと年寄りしかこないような小さなスーパーのレジ募集の張り紙をみて応募したら受かったからそこでバイトをしている。2年。家を出てから2年。1年は365日だから、730日。なんとなく、目標も見つからずにだらだらと生きている。こんなはずではなかったはずだった。でも、家を出る時も、別に大した決意なんてしなかった気がする。所謂逃げのための行動。将来も貯金もないまま、2年が過ぎようとしていた。



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