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やさしさ





駐輪場の奥、草むしりもおざなりの誰かの家の庭であろうそこはいつも目も開けずに挨拶をしてくる猫が根城にしている場所だった。日当たり悪く、夜になるとひとつだけ紐に吊るされた裸の電球が息絶え絶えに光を吐くような視界が悪い場所で、庭というより小さな小さな空き地のようで、それでも猫はその場所で、ここは自分の城ですとでもいうように毎日目も開けず足も体の中に隠したまま、駐輪場に向かう私に挨拶をしてくるのだった。

猫はいつもひとり。同じ時間に降りてくる私のことを知っているかのように駐輪場の入口あたりで声をかけられる。目も開けずに。甘えた声でこちらに寄ってきたりせず、足すら見せてもらえない。なんだいねこちゃん。お腹は空いていないかい。口元をすこしにまりとさせたまま、二言目は発さない。いつもぎりぎりの私は最初の挨拶の続きがないことを知っていて、二言目を待たずに自分の自転車をすこし後ろに下げ、ガシャと派手な音をたてそのまま走り出す。そのあとで二言目があったとしても、私にはそれを知る由もない。
猫はいつもひとり。夏とはいえ21時にもなれば外も暗くなる。ほそくて低いぐねぐねの一本の木を目印に、大きく膨らみながら曲がって私はまた駐輪場のいつもの場所に戻ってくる。朝、私が出ていった分空いた穴みたいな場所にあったように自転車を停める。額に張り付いた前髪を左右によけていると声をかけられた。古い電球がぴかぴかするせいで目が開いているか確認できないけれど、おそらく私の方などみていない。でも多分、私に声をかけている。足も体から出ていない、と思う。なんだいねこちゃん。さすがにお腹が空いたかな。うんともすんともいわない猫がそこにいることだけわかった。夏の暑さか、疲労か、早足に部屋に戻ろうとする私をよびとめることなく、おそらく猫はその後もずっとそこにいる。
次の日も猫はひとりで、同じ時間に降りてくる私をおそらく知っているけれど待ってはおらず、そして声をかけてくる。目も開けずに。近寄ることはせず。

猫はいつもひとり。しかし、夜も1時を過ぎるころ、似たような声が、似たような声と、挨拶をしているのが聞こえてくる。窓の外、部屋の中で聞いているから声の主を断定することはできないけれど。私にかけるような声が、ひとつでなくいつくかあって、私に返事をすることはなくても、いくつかの声が掛け合いのようで、挨拶のようで、甘えあっているようで、喧嘩でもしているようで、それを聞いて、私はいつもすこし悲しくなるのです。

私が目にするとき、猫はいつもひとりで、それで目も開けずに声をかけてくる。なんだいねこちゃん。お腹は空いていないかい。二言目を発することはなく、口元はすこしにまりとさせたまま。