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芸術と社会の視線

 多くの人が芸術を肯定していると思う。いいものを見ると、素敵、と思う心のある人はたくさんいると思う。でも、芸術がなにか他のものと天秤にかけられた時、芸術の方が否定されることがあって、思ったことがある。

 私にとって、ただ芸術だけが救いだった。芸術に触れているときだけは必ず心が癒された。そして何かを犠牲にしてまで芸術に従事できる能力と心を持った芸術家たちを心から尊敬していた。そういう生き方、そういう、自分の心に従って、自分のなかの大義に向かって一心に生きるような生き方こそほんとうにあるべき正しい生き方だと思っていた。でもそれが、世間一般からは否定的に見られることも多いんだと最近初めて知った。

 いろいろあり、学校に行けない、行きたくない時期があった。その時期は特に作品たちが心の支えだった。言葉は、音楽は、私の心を拒絶せず寄り添ってくれる。どんなに人間が信じられなくなっても、芸術だけは信じられる。だってそれらの作品のなかには、ほんとうの心が表れている。なにも偽らない、切実で尊い心。でもそういう私の姿を見て軽蔑する人たちがいた。彼らは、私が芸術にばかりのめり込んでいるから、不健全な思想に塗れて、そんなにだめになっているのだと吐いた。芸術が実生活を無下にしていると。それがすごくショックだった。芸術は実用・実生活と比べられたとき蔑まれ得るものなのだということが。


 文理選択というものがある。学問を文系科目とか理系科目に分けて説明されて、よく言われることには、「文系科目では人間を探求し、理系科目では自然を探求する」とか。そして「文系科目は直接人類の役に立つ実用的なものではない。理系科目は実生活の利便に直結する実用的なものだ」という考えも度々聞く。それで時々理系科目の方が上だとかいう優劣思想みたいなものも見かける。私はそれに賛同しかねる。それと似た話なんじゃないかと思う。

 芸術は人間の実生活に役立たない、だから価値が低い、本当にそうなのか。そもそも実生活ってなんですか。目指すべき実生活、日々の生活、発達した技術に囲まれていて、肉体的に健康で、物質的に豊かで、お金を生むことができて、食べるのに困らない、それだけですか。そこに心は必要ないのか。心の豊かさなくしてあなたたちは生きていけるのか。私は、少なくとも私という一人の人間は心の安寧がなければ生きていけない。心がついてこなければ実生活を続けられない。実生活上の技術的に弱い部分はこぞって修繕し発展させようとするのに、心の方は「根性」とか「忍耐」とかしか切り札がなくて、自分で耐えていろ、強い心を持て、それしか対応策がないのか。そんなに心を無下にしていいのか。

芸術家たちがしばしば、社会からドロップアウトしているとか、社会に貢献できない堕落者だとかいう目で見られて、彼らが社会に負い目を感じながら、それに反感を覚えながらその創作人生を歩まなければならないことが許せないと思う。もっとも彼らが社会的に優遇されて余裕のある心でその人生を歩むというのも違うとは思うけれど。

彼らはいつも社会に苦しんでいる。しかし彼らは創作を諦めず、投げ出さず、そのままの人生を続けているのだ。社会的評価よりも情熱を、自分の信じる大義を最優先にして、一心にそれを貫いているのだ。そういう心を持ち続けることのどれほど偉大なことか。そういう姿勢でい続けることが芸術家の人生というものなのでしょう。私にはできない。それだけの勇気がなかった。情熱が足りなかったのだとは絶対に言いたくないけれど、社会的評価に負けて社会に役立つだけの人生を歩まんとしている私の人生を傍から見たら、そう言われても当然かもしれない。

常に自分の意思を表明しながら生きるということ。信念を曲げないということ。社会生活を営む上で立ちはだかってくる様々な他者の評価や視線に負けずに自分の生きたい人生を選択し続けるということ。それが、こんなにも難しくて怖いのだということを、今まで知らなかった。自分がこんなにも社会的承認を求めていたのだということを、いや、社会的屈辱を被ることに恐怖していたのだということを、今まで知らなかった。そういう見えない社会の視線に気づいたいま、改めてこれまでを生き、またいまを生きている芸術家をみつめる時、これ以上になく敬意をいだくのだ。彼らは私が弱いせいでできなかったことをやり遂げている。家庭環境などもあるのかも知れないが、いちばんに彼らの人生を芸術に捧げさせたのは間違いなく彼ら自身の心だろう。彼らは社会から逃げたのではなく社会に打ち勝ったのだ。私が勝てない社会に。


情熱を否定されても、人生は続く。一つ一つ選択をするたび少しずつ社会に負けて、社会の型にはまった現実的で詰まらない人間が形成されていく。それが大人になるってことですか。凡人が大人になるってことですか。他人に評価され続け、気づいたら自分自身が他人を評価するようになっていた。他人の努力が、それに比べて努力していない自分が、怖くなっていた。自分で自分を縛り、あるべき人生の姿の範囲を極度に狭めていた。それらはすべて私が社会に負け続けている証拠だ。私は、自分の幸せのために生きたい。過去の時代を生きた数々の人たちは人生の多くの時間、その身を苦しみのうちに置いた。いまよりもっと不便で苦しい人生を生きていた。でも心はいつだって幸せを求めていたはずだ。幸せを求める権利は誰にもあるはずだ。最低限の生活は担保されているくせに、心の根の意思ごと枯らされるような、こんな現代に生きている。私は許さないでいつづけたい。妥協しないでいつづけたい。心の底のたましいを潰されたくない。闘い続ける必要があるのだ、芸術家の生き様を否定するような社会とも、他人からの評価の視線とも、社会的地位の担保された人生を生きようと信念を曲げてしまうような弱い自分の心とも。

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