整理



育った環境を言い訳にするな、はあまりにも酷だと感じる。ましてや“育つはずだったもの”が上手く育たなかった人間に対し浴びせられるそれは、投げつける者の心へはきっと届かない。

私は思う。「他人のせいにすること」と、「状況を整理して他人に原因があると自分の中で認めること」は圧倒的に違う何かかある。幼少期の虐待、社会での言動制圧、性被害...きっと今を生きている人間の中には抱えるものが大きすぎて他人に原因があると自分の中で認めることが出来なくて苦しんでいる人間もいる。

他人のせいにするな。
誰かのせいにして自分では何も変わろうとしない。
言い訳ばかりして...

そんな言葉が自分を責め立てる。他人に原因があると自分の中で受け止めることがどれだけ難解なことか。知らない人ほど、経験していない人ほど「他人に原因があると自分の中で受け止めること」を「他人のせいにする」ことだと見間違えている気がしてならない。事情を知らないのなら仕方ない、のではあるが...他人に言えないものを背負っている人だっている。やれメンヘラだ、甘えだとか、何も知らない人はこういうのであろうか。

認めていたはずでもふとした瞬間に圧倒的なそれを感じることだってある。常に他者とのかかわりは自分を刺激し続けている。生きていく上では仕方のないことだ。ただ、人とかかわらないと生きていけないと私は思う。誰かに依存するつもりではない。人とかかわることに幸福感をおぼえるのだから、仕方のないことだ。

誰かのために生きることが幸せだと思っていたが、最近それを否定するようなことが起こる。25にしてやはり自主性を求められることが多い。
自分がなくなっていく感覚に襲われ、自我を取り戻すのに時間を要した。数週間、なるべく有り難くも自分を認めてくれる他者とかかわることを減らしてみた。自分とは何者なのか、もう一度見つめ直そうと思った。
答えは出なかった。
自我は取り戻せたのだろうか。

人の欲は尽きることがない。「もっとこういう人間になれたら」、完璧主義にも近いようだがこの考えを捨てることも大事だと気付かされる。100%じゃなくていい。「こういう人間にならなくちゃ」、になる前に気付き、そして自分を認める。自分を認めることが自我を取り戻すのに少し必要だとも感じる。

今悩んでいる訳でもないし、むしろ1年前より、2年前よりはもっと、自分を少しだけ認めて好きになれた。他者とのかかわりがそうさせた。自分では分からずとも成長しているのかも。誰かに読んでほしいわけではなく自分を整理するために今この文章を書いている。同じ想いがある人に届いたらちょっと読んでほしいかもしれない。

自分を救うものをひとつおまもりにして、自分を認めて今日も明日も生きよう。ネガティブでもポジティブでも完璧主義でもなんだっていいよ。

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