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8月29日:Netflix「LIGHTHOUSE」を観た
今日も一日特に予定なし。
夕方に久々に짬뽕(韓国のちゃんぽん)を食べた。
スープはかなり辛さがあって海鮮のダシもしっかり出てる。具材が多くて十分お腹いっぱいになった。
スープ全部飲み干せるくらいちゃんぽんが好きだ。
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夜にはまた「LIGHTHOUSE」を観た。
今回はかなり2人の「嫌い」が聞けて、正直な姿をいっぱい見たので満足してしまった。
嫌いな人、当然いるよね。
私も高校のとき本当〜〜に嫌いで私に実質的な嫌がらせもしていた人、というか人たちが周囲には好かれていたり優しくしたりしていて、心が病んでしまいそうになったな...なんて思い出した。
今でもずっと憎い。誰がどんな情報をくれようと私は自分の価値観であの人たとのことを好くことができるわけがなかった。
高校1年生のあいだ、ほとんどその憎悪を抱えたまま高校に通い、心の中で睨みつけ罵りやっとバランスを保ち、帰り道にカフェや古着屋に一人で冒険しにいくことで忘れていた。
懐かしい。
大人になったって嫌いだな〜と思う人は減らない。もうそれは仕方ないのだ。
ただその憎悪をどこかに無責任に晒したり、誰かを巻き込んだり、嘘を流したりするのは絶対に許されない、ということを気をつければそれでいいと思うのだ。
そして私も源さんと若林さんがいたような「都会」「高価」を目の前にドカンと見せつけられるような空間には嫉妬とも恐怖とも言える感覚がある。一言で言えば苦手だ。
あういう空間でなんというか優越感に浸ったり、まるでそれが当たり前かのように過ごしてしまえるようになったら終わりだ...と思う自分がいる。
心の中でそうして「遊ぶ」ことが羨ましいんだろうか。
私は「遊ぶ」ことは大好きだけど、現実からあまりにも浮き足立ってしまうような遊びはちょっと警戒してしまう。
贅沢をするとか、時間を忘れて誰のことも考えず遊ぶとか、そういうことはするなとなんとなく示唆されながら育ってきたのかもしれない。
それか、自分がそうして本当〜に何も考えず遊ぶということができなかったからどこかで悔しくて、それをひっくり返して「自分はそうしたくないのだ」と言い張っているんだろうか。
今も他人の目を気にしないと生きられないけど、歳を重ねるにつれて「どうでもいいと思える人間」が増えた気がする。
嫌なことをされて覚え続けてるとか、苦手だなぁと思い続けるとか、そういうエネルギーを必要とする誰かのことをもうどうでもいいと無視するようになった。
心の中ではずっと怖いが、放っておくことにした。関わらないという方法を選択していいのだと知った。
良い人間には一向になっていない。むしろどんどんいろんなことを諦めて省エネしようとしている気がする。でもそれでいいんだと思った。
私は楽しいことや幸福なことに自分の余白を使いたい。嫌いな何かは私の中で欠かせないプライドや核をつくる材料になった。それで自分は何を大事にしたいかを逆転させて考えた。
仕方がないけどそうやって生きるしかなかった。今のところは。
だけど最近よく思うのは、「あういう人にはなりたくない」が増えるたびに、「こんな自分になってはいけない」という思い込みや呪縛に似たものもまた増しているのではということ。
他人を「ダサい」と思うこと、それと自分を「ダサい」と思うことは正直繋がってしまっていると思う。
他人の同じ行為は気にしないけど、自分じゃ絶対にやらない(できない)という主張があるが、あれは私の中では通せない。
自分に対して「こんな自分はダサい」と思うことをあまりにも増やすことは、結局他人に対しての評価もシビアになり視界を狭めてしまっているんじゃないかとよく悩んでいる。
だから、自分にマイナスな評価を下したり制限をかけたりする項目自体を減らしていこうかな〜と思い始めている...
LIGHTHOUSEの感想から外れてしまったけど、こんなことを考えながらベットでゴロゴロしていた、8月29日。
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