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「だが、何故……何故すべてが誰かのものであり、おれのものではないのだろうか?」

諦めたくないのに
諦めるしかなくて
結果諦める事実が此処には在る。
だが、真実は恐らく此処には無い。


それは
自分の殻を破ることに対してもなのか?
諦めないことは殻を破ることだったとしても
(仮定の段階では事実も真実も無いが)
諦めなかったねと自分を赦せるのか?
自分を赦してあげたいけれど
上手に"甘えること"ができたら、赦せるのか?
それが、赦してあげたいことのはずなのに。


楽だったはず。選んできたはず。


自分でしか自分を赦せないのでは無い。
ほんとうは、
ほんとうは他人に赦されたいのだと思う。
巻き込まれて、気付いて欲しいはず。
連れていって欲しいはず。


値段がついているものは
赦されて、諦めなくていい。
理系では無い為詳しくは無いが
ひとは多分"数字"になる。
理系で無くとも、産まれる前から
数字がついている。
それは、値段では無いが。


昔から自分の周りには、
"家庭環境が複雑"なひとが多かった。
選べない、与えられた環境で
無意識に底にあって関わるひとが増えて
環境も変わっていって周りと比べた時に
自分自身を可哀想だと思い切ってもいいことが
羨ましかった。
自分は所謂"恵まれた環境"で育った。
家族内でそんな風潮は無かったが
周りからの期待度や妬みは小さい頃からあった。


立派なご両親
やっぱりいい子だね
あそこのおうちのお嬢さんなんだから
おねえちゃんなんだから
将来はご両親に継いだお仕事でしょう?


前の記事にも書いたが、
学校や仕事、"成績"を残せなかった為
(最近だと冠婚葬祭が増えるときで)
親族と介することが多く
自分の仕事は伏せなければならず
弟や妹の名前、出た大学名、就職先は
話題にあがり盛り上がる。
私は、名前も覚えられて居ない。
弟と妹が褒められて居るのは好きだ。
私は、笑うしかなくて
そこに追い打ちをかけるかの様に
一番上のお姉ちゃんはいくつになったの?と聞かれ年齢を答えると


あら、そんな歳までひとりなの?
付き合ってるひとは居るの?結婚は?
年功序列で早くご両親に孫の顔見せてあげないと


近い年齢の従姉妹は結婚し
子どもが居るから更にだと思う。
従姉妹も子どもたちも大好きだ。
可愛いし会ったら一緒に遊ぶ。
従姉妹にも子どもたちにも罪は無いのに
"材料"に使わないで欲しい。


ぜったいに、そんなこと言う大人にはならない。
ってずっと思ってきた。


母は、そんな状況にある自分にも
罪悪感と同情を覚えて居るんだと思う。
優しく、自分のいいところを言ってくる。


でも、それもみえてるから
いいよ。言わなくて。
そんな顔して欲しいわけじゃないから。


赦す、諦めるの話は
根本的に"コンプレックス"からきていることが
今の自分にはわかる。
まだ、わかりきっては居ないと思うが。


自分の首の前に、
目立つところに敢えて彫ってもらった
蛾のタトゥーは
よく蝶々だ綺麗。と間違われる。
蛾のタトゥーにはそもそもそんな意味がある。
蝶よ花よと見た目やレッテルだけで判断し容易く近付くひとへのアンチテーゼとしていれた。


その"コンプレックス"のひとつから、
勉強ができなくても、成績を残せなくても
ひととして、経験を積んで、重ねて
深く厚みをもった
頭のいいひとになる。


好きな番組『ル・ポールのドラァグレース』では
決まって最後にこんなことを言う。


"If you don't love yourself,how in the hell you gonna love somebody else?
(ーCan I get an amen up in here?)"


あなたが自分自身を愛さないで、
一体どうやって他の誰かを愛するの?
(ーここでアーメンと賛同してくれる?)


例えば、愛の部分を赦すに替えても通用するのではと思う。
寧ろ自分には赦すの方がしっくりくる。
もしかしたら同一の意味かもしれないが
自分自身に対してだったら
愛することは赦すことか?
赦すことは愛することか?
勿論ひとそれぞれでいいと思う。が、
自分はどうだろう。


手間をかけ面倒をみることでは無いのか。
手間と面倒を、与えることでは無いのか。


いつか、迄。と思って居る自分がずっと居る。


10年来お世話になって居る10歳上程の先輩に
20代の頃に
「30代は楽しいよ。赦せることが増える。20代より楽しいと思うよ。」
と言ってくれた。
その言葉を聞いた時、前回の記事の彼女のことも頭に過ぎった。
それを20代の悶々として居た頃に早めに聞けたことで
安心したより覚悟になったというか
(語弊があるが)20代は自分自身を痛めつけようと思った。何かを課し続けよう、負荷をかけ続けようと。
30歳になったら休めるから、
いいものもわるいものもとりあえず詰め込もうとしてきた。
きっと、もっとあったけれど。


数字は既存のものだからこそ
数字に左右されること、偏見をもつことはしたくないが。


"大人"になり、
赦すこと容れることは
決してサボったり、鈍くなったり
止めたりすることであってはいけないと思って居る。


使い分けること、
手放しに楽しむことはまだ難しい。
"行きは良い良い帰りは怖い"
かえってこなければいけないから、
かえってくることがこわい。


ほんとうは、
かえるためにいかなければならない。


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日が暮れかかる。
人はねぐらに急ぐときだが、
おれには帰る家がない。
おれは家と家との間の狭い割目を
ゆっくり歩きつづける。
街中こんなに沢山の家が並んでいるのに、
おれの家が一軒もないのは何故だろう?
……と、何万遍かの疑問を、また繰返しながら。


電柱にもたれて小便をすると、
そこには時折縄の切端なんかが落ちていて、
おれは首をくくりたくなった。
縄は横目でおれの首をにらみながら、
兄弟、休もうよ。まったくおれも休みたい。
だが休めないんだ。
おれは縄の兄弟じゃなし、
それにまだ何故おれの家がないのか
納得のゆく理由がつかめないんだ。


…ーそして、ついにおれは消滅した。


後に大きな空っぽの繭が残った。
ああ、これでやっと休めるのだ。
夕陽が赤々と繭を染めていた。
これだけは確実に
誰からも妨げられないおれの家だ。
だが、家が出来ても、
今度は帰ってゆくおれがいない。


ー…


赤い繭/安部公房


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またね。

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