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いびつな並列のために

 私は、現行の法整備では意中の人と制度的な婚姻関係を結ぶことが叶わない。今後の人生において、事実上の配偶者と遺産を分配することも、病院で相手の死に目に立ち会うことも、養子を迎えることも叶わない。異性婚ならすんなり手に入れられる自由や権利を、私たちはなぜか戦いとらねばならない。愛する人と二人でいるための理由に大層な肩書きは要らないが、性急な用事を目前にして社会的なハシゴを外されるようなことがあってはならない。不遇な差別を受けるなんてことも、もってのほかだ。

 今後、社会的な不遇にぶつかるかもしれない未来の私のために、先回りして社会にプロテストの意を示すための時間として、私はこの卒業制作に取り組むことを決めた。より自分が生き易い世界のために、自分のために、その過程で、自分と少しでも似た人を善い方向へと導くために。



 二〇一四年十二月、名古屋市に住むゲイ男性が自宅で何者かに殺害された。男性と恋愛関係にあり、二十年間家族として共に暮らしていた男性は、二〇一六年十二月、内縁関係でも支給される犯罪被害者遺族給付金の支給を申請したが、愛知県公安委員会により不支給の裁定が下された。名古屋地裁の角谷昌毅裁判長は、給付金支給に関する法律について、「保護の範囲は『社会通念』によって決定している」としたうえで、「二〇一七年当時、同性パートナーとの共生関係を婚姻関係と同じだとみなす社会通念の形成はされていなかった。」として、男性を配偶者とは認めなかった。彼らの生活は行政的に不可視とされた。

 また、札幌・東京・名古屋・大阪・福岡の五つの地方裁判所では今、婚姻の平等を求めて複数の同性カップルが国を相手取り、各地で一斉に訴訟を起こしている。『マリッジ・フォー・オール (結婚の自由を全ての人へ訴訟)』と題されたこの活動においても、一貫して「憲法は同性婚を想定していない」という国の主張をどう切り崩すかが争点となっている。


 私たちは、この社会においてしばしば、見えないものとして扱われる。


 そこにある存在を見ようとしない国や地方自治体の姿勢に加え、「伝統的な家族観が崩壊する」「少子化が進む」といった的を得ない政治家の論理は折に触れ取り沙汰され後を絶たない。しかし、同性婚についての賛否を問うたアンケートでは、有効回答数一四九五のうち七割を超える数が賛成を示した。二十代、三十代だけを取り上げるとその割合は八割を超える。マリッジ・フォー・オール代表の上原さんは、同性婚をめぐる現状についてこう語る。「自身のセクシュアリティに悩まなくても済んでいる、いわゆるセクシュアルマジョリティとされる人々が関心や賛同を示し、アクションを起こすことは、同性婚合法化の有力な一手になり得る。」(「同性婚のそこんとこ、だいじょぶ総会? Vol.1」)。


 現在「不可視」とされている私たちの声量には限界があり、仮に同性婚が実現された後もその風当たりにはいくつもの難がある。声なき者たちの権利は、儚く脆い。しかし、この問題は総体の声として考えることで大きく前進する可能性を孕んでいる。大事なのは、一人一人が当たり前に享受している社会的な許容に自覚的であること。国や社会から知らずのうちに与えられている特権性に気が付くことで初めて、そのカードを持ち得ない存在に気付くことができる。認め合いたい二人が、認め合いたいように認め合えない現状に、そもそも「国が認める」という姿勢のおこがましさに、皆で中指を立てること。



「うるせー、おれらが認め合ってるだけだよ」(パンチ!)



 総体としての小さなパンチは、やがて大きなボディブローとなる。法律を変える働きかけに参加できなくとも、彼ら彼女らの熱量を知り、続くことはできる。すぐ隣にある世界を気にかけ続けることができる。見えない向こう側を想像することができる。今を生きる全ての人たちが、「誰かと共に在る」ということを再考するための手立てを、今、考える必要がある。



 結婚している人たちの/事実婚の人たちの/異性・同性カップルたちの…恋愛関係にあるいろんな「ふたり」の間でだけ象徴的な意味を持つモチーフや行為の収集を行い、そのふたりの間でだけ機能するオブジェクトに変換する。ふたりの接続の現場にあるささやかでかけがえのないエピソードには、ふたりがふたりでいるための「しるし」としての力がある。その「しるし」が、ふたりのバウンダリーオブジェクトとして手触りとともに立ち上がる時、ふたりは他の誰でもないふたりであることを強く認識できる。形式的な書類の交換や、誰かが考えた儀式に頼るのではない、愛する人と共にいるための、ふたりだけの約束事が、そこにはある。


 一九九八年、「近づいてみれば誰一人まともな人はいない」を合言葉に、イタリアで次々に精神病院が閉鎖されるムーブメントが起こった。均質に見える人々も、分け入ってみると、誰しもが何らかのマイノリティやアブノーマルな側面をもっている。正常・異常がハッキリ分けられるのではなく、そこには多様性があること、その多様性をベースに仕事をすることが、イタリア精神保健業の基本路線だというメッセージが含まれている。このプロジェクトで収集するエピソードやモチーフにも、当事者たちにしか理解できないある種の少数性が存在する。あるふたりは、鼻をかんだティッシュを見せ合うことで愛を確かめ合い、あるふたりは、毎週ビデオ越しにストリップショーを行うことでその物理的な距離を埋める。その奇妙さを理解できなくとも、すぐ隣に存在する世界にそれらの営みがあることを、私たちはあっけらかんと受けとめることができる。ただそこにあるだけのわからなさを、否定や肯定のもう一つ外側のレイヤーから捉え、時に交わることが、今、私たちがこの社会で共生していくための手立てだ。


 私たちが生きる社会の現状は既に、多数派/少数派という分断のもと、一方的な許容/被許容の関係にあるべきではない。それぞれがどこかにいびつさを抱えながら相互的に作用し合うことで、成熟した社会は育まれていく。二十二歳時点の私が下した決断や、おこなったこれらの小さな社会学の集積にはきっと、そのためのヒントが隠されている。誰かと共に在るための方法が、ふたりがふたりでいることの愛おしさが、上下でも、横一列でもなく、いびつに並列する未来を手繰り寄せながら。


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