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鴻池朋子さんの展示で剥製と言葉を愛でる行為に想いを馳せた

10月23日。この日は、初めて好きな現代アーティストができた日となった。モノクロの洒落た紙袋を濡れないように片手で抱き抱えながら、雨の降りしきる京橋を歩いたときの、あのほくほくぼんやりした感覚を忘れない。紙袋の中には、鴻池朋子「ちゅうがえり」の展示図録と、2枚のポストカード(ウジェーヌ・ブーダン《トルーヴィル近郊の浜》、エヴァ・ゴンザレス《眠り》)が入っていた。美術館でお土産を買ったのは二度目だ。

アーティゾン美術館を訪れようと思ったきっかけは、印象派の女性画家のコレクションが新しく追加されたという知らせがあったからであって、決して「ちゅうがえり」のためではなかった。それでも、大規模な作品が多かったし、細かく舐めるように見なくても楽しめそうだったから、1時間ほどでさくっと回ろうと考えて展示室に入った。まさか、2時間経っても抜け出せないとは思わなかった――そんな風にして、私を蜘蛛の巣のように捉えて離さなかった鴻池朋子「ちゅうがえり」について、それをきっかけに思いついたことをいくつか、書いてみることにする。

ちょっと美術館行き慣れているっぽい感じを出してしまって罪悪感があるのだが、実は、3ヶ月前に夏休みに訪れたロンドン・ナショナル・ギャラリー展で美術館の楽しみ方を知ったばかりだ。そのため、趣味はアートですというには時期尚早過ぎる、まったくのビギナーであることをここで告白しておく。ただ、この数ヶ月で美術熱が大きく煽られ、いくつかの展示に足を運んだので、少しずつでも記録に残せたらと思う。

毛皮の向こうにある景色を想像し、愛でること


最も衝撃的だったのは、狼だった頃の形を残したままの毛皮が十数本(本と呼んでしまうほど、まっすぐに)天井から吊り下げられたインスタレーションだ。《後の部屋》と名付けられたその空間で、私はしばらく動けなくなってしまっていた。

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毛皮を掻き分けながら、通路を歩いて、鑑賞する作品だった。最初は、毛皮がぶら下がっている、という光景に、ただ圧倒された。少し見上げると、その毛皮が頭の部分まで残していることがわかり、彼らが生を宿していたことが思い知らされる。剥製のようだな、と思う。一歩踏み出すと、肉球が頬に触れた。私は普段愛犬と生活を共にしているので、肉球は物理的に身近にある。目の前にぶら下げられている毛皮たちの肉球が、うちの愛犬の肉球と違うところはどこにもないように感じた。ただその奥に命が通っているかいないかの違いでしかない。

生き物が人間のために「道具」として日常に取り入れられる間の姿を、私たちは見慣れていない。現代に生きる人間は、命を奪っていることにひどく無自覚だ。頭でわかっていたとしても、見ないとわからないことがあり、そういう生臭さに対してどれだけ不慣れなのかただただ視覚でわからせられている感じが、このときした。これが、「見ることの暴力」性、「つくることの暴力」性なのか、と単純に腑に落ちてしまう。

毛皮の簾を抜けると、壁に赤塗りされたねずみ(?)の顔の絵が貼られていた。直感的に怒りを表しているように思ってしまったけれど、多分、そういう道徳的な捉え方を求めているわけではないのだな、と考え直す。

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(iPhone11で撮影。暗めの場所でシャッターを押すと自然と露光時間が長くなり、なんかいい感じのエフェクトかかったみたいになった)

生きていたときの形をした毛皮と、衣料品になった毛皮とが、グラデーションをつくるように重ねて吊り下げられていたところを見るに、少なからず生を奪うことの無自覚性を示していたのだとは思うけど、それだけが趣旨ではなかったように思う。

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白いテープのような簾を通り抜けた先には、「毛皮」と題された鴻池さんの文章が掲示されていた。一部を以下に引用する。

「撫でる」という行為によって私は毛皮を知覚する。 撫でると愛おしい。愛おしいとは性的に揺さぶられている時で、 撫でることで視覚とは全く違う世界への扉が開かれる。
ーー「毛皮」鴻池朋子『ハンターギャザラー』(羽鳥書店、2018年11月)より

触れているもの、目の前にあるものを通して、それが生きていたころの情景にリンクする感覚は、まさしく剥製を見ているときの感覚と同じだ。幼いときから剥製を見ることが好きで、剥製の毛皮が過去に大地の風を受け、川や雨の水に濡れ、草や土の匂いでいっぱいだったときの情景に想いを馳せる楽しさの虜になっていた。けれど、その一方で、人間のエゴによって死してなお身体を引き裂かれる動物のことを思うと複雑な気持ちになった。動物を愛す者であるのに、剥製を愛でたいと思うのは矛盾ではないか。それなのに、剥製を見て快感を抱かざるを得ない自分がいて、まるで偽善者のように感じることもある。

そうした矛盾を抱えた自分への嫌悪や、それでも鑑賞したいと思う欲求、そうした感情に対する疑念。作品を前にしてそれらがすべて湧き上がり、まぜこぜになった結果、その名状し難さに動けなくなってしまった。しかしこの作品は、私のすべてを見透かし、肯定してくれたのだった。

生臭さ、死臭を全て削ぎ落とした状態で、死んだものを日常に持ち込む。こうした人間の慣習は、「見えないものや、瞬間的な、やがて消えゆくものを永続化したい」という人間の欲求をあらわす営みのひとつであり、毛皮をなめし、愛でることはその最たるものなのだと、鴻池さんは言いたかったのだろう。

繰り返しになるが、この作品は、こうした慣習を道徳的に戒めるためのものではない。そうではなくて、毛皮の向こうの景色に想いを馳せることで生まれる感情を肯定するための作品であり、その感情を見るものに想起させ、共有し、同じように揺さぶりをかけるための作品なのだ。その感情を「官能」と表現したことにも、運命的なものを感じていた。私は、幼い頃からどこか抱いていたこの感覚を、作品にしている人がいることにすっかり感動してしまったのである。

お気に入りの作家の見つけ方

美術館巡りビギナーとしていくつか展示を訪れてみてわかったことは、お気に入りの作家を見つけるのは、とても難しいということだ。「好きな絵とかないし、知らないから」美術館にいくのはなかなかハードルが高いものだと感じていた。けれど、「好きな絵」なんてなくて良いのだ。「好きな絵」を見つけるために美術館に行けばいいのである。アイドルで言えば、曲やグループをとっかかりにとにかくたくさん見てみないと推しは見つけられないのと同じだ。数に触れ、回数を重ねるうちに、自分のアンテナがどこにむくのか次第に自覚できるようになる。だから最初は、美術館という場所が何となく心地良いだとか、目の前の作品に没頭することが楽しいだとか、そういう感覚が大切なのだと思う。

美術館に行けば、美術館鑑賞体験そのものに充実感を覚えることもあるだろうし、忘れられない作品に出会うかもしれない。しかし、お気に入りの作家を見つけたときの喜びは、なんとも計り知れないものがある。なんとなく好きかもしれない、とか、印象に残った、というものとは全く違うときめきと衝撃。恋に落ちるなんて大層なものではないかもしれないけれど、身体の奥で、知らぬ間に惹かれ始めていたことに気づいた瞬間、小躍りしたいような気持ちになる。

鴻池朋子さんの作品になぜこれほどまで惹かれたかといえば、自分が潜在的に思考してきたことを、もっと先で追いかけ、考えもつかないようなアプローチで形にしているのだと気づいたからである。

もっと考える余地はあるし、これからも模索していく必要はあるけれども、お気に入りの作家を見つけるヒントとして、自分の潜在的に抱いてきた疑問について向き合い、解き明かそうとしている人を探してみるのがいい、というのはひとつ言えることかもしれない。

余談

そういえばちょっと印象的な出来事があったので書いておく。

私が色々な感情でないまぜになって立ち尽くしていた最中、側にいたカップルの女の子の方が、片腕をめいいっぱい伸ばして、写真をパシャパシャ撮っていた。「なんでそんなに上から撮るんだよー」「えーだってその方が綺麗かなって」男の子の方は、女の子の行為を笑って見つめながらも、その表情は少し強張っていた。女の子は写真を撮り終えて、男の子を振り返り「こわいのー?」と聞きながら、腰に手を回す。「ちょっとね」男の子が答える。

こうしたいちゃいちゃも「ぱったり作品に出会い、ただ見て、暴力的に侵犯していく」「見る人」が生み出すもののうちに入るのだろうか。鑑賞者が空間に入り込み、アクションを起こして初めて作品が出来上がるのだという考え方はよく聞く。作品を通じて発現する言動も作品と呼ぶ。前に大学の授業で聞いた話だが、参加型のインスタレーション作品においては、作品の一部を持ち帰ったり、壊したり変形したりする行為でさえ、作家が許容することがあるという。私を含め、お行儀の良い鑑賞マナーが当たり前だと思っている人々にとっては、到底考えられない話だが。

どんなに拙くとも知識がなくとも、作家の卑怯を見つけだし、あっけらかんと指摘できるのは、つくる人ではなく見る人なのである。つくり手の意図など軽々と超え、出会うべきものと出会い、見る人は、作家でさえも気づかなかった水脈を探り当てる。
(中略)
「見る」とは発見することであり「つくる」ことだ。

ーー「見る人よ何を見ている」前掲『ハンターギャザラー』より

これに従うとすれば、それがなんであれ、鑑賞者が作品の前で生み出したものを他者が犯す権利はない。もしかしたら、こういういちゃいちゃでさえも、作品を作品足らしめるひとつの要素になり得るのかも知れない、と思い、わずかに感じた鬱陶しさを飲み込んだ。

言葉にする不毛さと、それでも言葉にしたい気持ち

展示には、これまで鴻池さんが雑誌の連載等で綴ってきた文章を印刷した紙がそこかしこに貼ってあり、その驚くべき感性の高さを「文字」という違う角度からも知ることができた。作品に没入する幸福と、作家の思考の軌跡を辿れる幸福の両方がそこにはあった。

中でもお気に入りだった「呪文」という文章について話したい。鴻池さんは、「呪文」で、作品になぜわざわざタイトルをつけねばならないのか、という疑問から、名状しがたい熱や想いを言葉に閉じ込める行為とはなにかということについて考えている。家にある本をひっくり返してなんとかタイトルに嵌まる言葉を探索しているとき、鴻池さんは次のように思う。

文字は、ものづくりという不安定な渦中にではなく完成したものを対岸から眺める安定した意識の場所にあって、私とはその居場所がまるっきり違った。文字になるとケリがついたような錯覚もあった。人間の感覚の「違い」を大まかに 「同じ」箱に入れるという抑圧的な暴力的な快感もある。文字や言葉にすると同時に、多くの感覚を喪失するので、悦惚に酔うのはその疑似的な寂しさのせいかもしれない。しかしその言葉を持った現生人類が何をつくりだしたかというとこれが役に立たないもの、有用性のある道具とは違う、後に「芸術」と名付けられるものだった。

ーー「呪文」前掲『ハンターギャザラー』より

何か、言葉にしづらいものに向き合い、整理をつけ、言語化したときの達成感は、人間ならば誰しも味わったことがあるはずだ。その感覚の所以を、鴻池さんは「寂しさ」と表現している。

言語化とは、一度自分の中である疑問やもやもやとしたものにひとつの「答え」を提出する行為だと思う。「答え」を出す過程に確かに存在した余分な感情だとか、細かな、いっときの寄り道などは、言語化しきった果てにはすっかり忘れてしまうことも多い。私は何かを言葉にするのが好きだけれど、わかりやすいところだけ、需要のあるところだけをかいつまんで、誰かに話すことが苦手だ。誰かに「なるべく正しく伝える」ためには余分かとも思えるような、たどり着いた文字の背後にあるいくつものこんがらがりも含めてこそ自分自身の感情なのではないか。それが削ぎ落とされてしまうのはどうにも虚しいな、と思ってしまう節がある。そういうこんがらがりや寄り道を切って捨ててしまうのは、「寂しい」と思う。人の話や文章を聞いたり読んだりするときには、自分のことを棚に上げて「もっとこうすればわかりやすいのに」などと思うくせに、私自身はわかりにくい話をするのを止められずにいる。もちろん、人と円滑にコミュニケーションを取る上で、善処しているつもりではあるが…。

そうした文字の文化による「寂しさ」をどうにかするために、人は芸術を生み出した。それならなぜ、文字の芸術があるのだろう、と私は考える。自分の名状し難さを誰かが言葉にしてくれていると感謝したいような気持ちになるのは、文字の芸術の醍醐味だと思う。私達は、その言葉の背後にあるなにかをーーたとえその言葉の意図とは違ってもーー自分ごととして無理やり自我に紐づけて感じ取り、感動するのだ。言葉で表すことの「寂しさ」は他者の言葉に触れることでしか解消できないからこそ、文字の芸術は存在しているのかもしれない。

美術の話に戻るけれど、こうした言葉の性質を知っているからこそ、言葉として既に「答え」が出ているとおりに作品を理解する行為は、ちょっと虚しいのではないかと思う。

鴻池さんのアーティストとしての態度は、先程引用したとおりだ。鴻池さんにとっては、作品に対する反応、つまり、作品を見ること、そして何かを感じることも「つくる」ことの一部であり、受け手の自由な創造を許容している。その宣言めいた言葉を真に受けたとき、展示室を彩る鴻池さん自身の言葉に、「惑わされてはならない」という対抗心が燃え上がった。作家が自分の作品に対して述べた言葉は、そもそも必ずしも解説とは限らないし、「自由に見てよい」のであれば、作家の言葉をそのまま解説として咀嚼してはならないからだ。作家の言葉を味わいながらも、流されずに、ただ目の前の作品に耳を傾けられることができるかどうか。こう考えると、吊り下げられた、もしくは、貼り付けられた活字の切れ端が、果たし状のように見えてくるのだった。

美術を見たとき言葉に惑わされすぎずにどれだけ自由にそれが見れるか、ということは、私の大きな人生の課題なんだろうな。素晴らしい作品に出会う度にいつも思う。

鴻池さんは文章家として大変筆が優れていることがわかったので、今度タイミングを図ってエッセイ集を手に入れたいと思っている。物販で購入したかったのだがちょっと余裕がなかったので断念した。アマゾンの欲しい本リストにぶっこんである。







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