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1850年代生まれ 建築家 22名

1.岡田時太郎(1859年 - 1926年)唐津藩

旧三笠ホテル
唐津藩下に辰野金吾生家のすぐ近くで生まれ育つ

1872年 唐津藩の英語学校である耐恒寮に入学
1875年 大阪の英学校へ進学
1876年 造幣寮附属日進学校に入学
1876年 造幣寮に入官、文書課詰となる
1877年 造幣局貯蔵掛に移る
1879年 造幣局を依頼免職
     官設鉄道の試験に合格、神戸鉄道局機械工場詰となる
     汽車掛のイギリス人ヘンリー・フォスターに付く汽車火焚運転技術見習いとなる
1880年 大阪梅田停車場建築課所属
     近畿地方の官設鉄道土木工事に携わる
1882年 長谷川謹介が率いる柳ヶ瀬トンネル建設に従事
1884年 敦賀金ヶ崎駅建築課所属
1885年 官設鉄道を依願退職
     山口半六のもとで理科大学化学実験場の新築工事に従事
1886年 辰野金吾建築事務所に開設と同時に入所
     岡田は事務所で唯一の所員
1888年 文部省を依願退職後、日本銀行本店の建築調査に渡欧する辰野金吾に同行して日本を出発
     ロンドン大学造家学科に聴講生として入学
     土木建築請負会社ウィルヤム・キュービットの研修を受ける
1889年 ロンドン大学造家学科を終了し帰国
1890年 日本銀行本店の建築技師となる
     日銀本店建築技師を離れた後は、個人の建築技師として岡山市共立絹糸紡績工場、小名木川綿布会社の建設に関わる
1898年 文部省の嘱託として帝国図書館、東京帝国大学医科大学医院内科外科教室及び病室の改築に携わる
1899年 自身の事務所である岡田工務所を東京で開設1900年 文部省総務局建築課付として高等師範学校の改築に関わる
1903年 シャトーカミヤ
1904年 河村組の建築部長も兼任
1905年 軽井沢の三笠ホテルを手がける
     満洲軍倉庫嘱託を務める
     岡田工務所を閉鎖
1906年 満洲軍嘱託を辞する
     関東州大連市に改めて岡田工務所を設立
1908年 辰野金吾、曽禰達蔵の推薦により建築学会正会員へ入会
1914年 東京市芝区へ拠点を戻す
1916年 大連へ移す
大連においては大連牛乳株式会社取締役、東洋石材株式会社取締役、大連土木建築株式会社社長、関東木材株式会社社長、大連澱粉株式会社取締役、庶民銀行の理事を務める
1926年 大連で死去

2.片山東熊(1853年 - 1917年)山口県

工部大学校の建築学科第1期生
宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に関わる
職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わる
公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行う
ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人

1854年 萩で長州藩下級藩士の父片山文左、母伊丹ハルの四男として生まれる
1865年 奇兵隊に入隊、戊辰戦争に参戦
1879年 工部大学校卒業、工学士となる
     辰野金吾、曽禰達蔵、佐立七次郎と同期
     工部省営繕課に勤務
1882年 有栖川邸建設のため有栖川宮熾仁親王とともに欧州視察
1886年 宮内省勤務となる
     皇居御造営局で明治宮殿建設に関わる
     宮殿装飾調査のためドイツ出張
1887年 帝国大学の渡辺洪基、辰野金吾、藤本寿吉らと工手学校を設立
1889年 宮内省内匠寮の匠師に昇進
1897年 東宮御所建設のため欧米を視察
1899年 東宮御所着工
1904年 宮内省内匠頭に任ぜられる
     東宮御所御造営局技監を兼任
1909年 東宮御所竣工
1912年 明治天皇葬祭場などの建設に関わる
1915年 従三位勲一等旭日大綬章を授けられる
1917年 同日薨去、享年65
同月28日 - 青山霊園に葬られ、勅使が弔った

3.河合浩蔵(1856年 - 1934年)武州東葛飾郡(埼玉県)

江戸・本所で幕臣の子として育つ
工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに建築を学ぶ

1882年 卒業、工部省営繕局に入る
     皇居造営事務局御用掛を務める
1886年 臨時建築局に移る
     造家学会創立発起人の傍ら官庁集中計画に関わる
     議院建築の研究のため妻木頼黄、渡辺譲らとドイツに留学する、エンデ・ベックマン事務所に勤務
1888年 帰国後、司法省技師となる
     司法省庁舎(エンデ・ベックマン事務所設計)の建設に従事する
1890年 内務省に移籍
1894年 外務省震災営繕事務嘱託
1896年 大阪控訴院および大阪地方裁判所庁舎設計事務嘱託
1897年 退官、神戸地方裁判所の設計委嘱を機に神戸市に移住
1899年 議院建築調査委員
1905年 河合建築事務所を開設
     関西建築界では長老的の存在
1908年 奈良ホテル、造幣局常繕工事監督嘱託
1920年 都市計画神戸地方委員会委員を務めた

4.河面徳三郎(1857年 - 没年不明)

1881年 宮内省内匠課に入る
1882年 皇居造営事務局雇となる
1887年 内匠寮雇となる
1890年 内匠寮技手となる
1901年 沼津御用邸本邸洋館などを手がける
1908年 内匠寮技師となる
1913年 休職

沼津御用邸は西付属邸、洋館の工事は、宮内省の建築技術者の中から、 片山東熊と河面徳三郎の二人が担当したとされる

5.小島憲之(1857年 - 1918年) 下野国河内郡雀宮(栃木県宇都宮市)

アメリカのコーネル大学建築学部を卒業
日本人で初めて建築の学士号を取得した
旧制第一高等学校などで図学、英語を教え、多くの後進を育てる
東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)は小島の作品
父は幕臣であった。
明治維新後、横浜で外国人に英語を学び大学南校に入学

1873年 アメリカ人教師ハリスに認められ学校を中退しハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡る
1875年 コーネル大学建築学部に入学
1879年 卒業し学士号を取得
1881年 建築事務所で働いた後ヨーロッパ、東南アジアを経て帰国

ロンドン滞在時に留学中の辰野金吾と会った
帰国後は東京大学理学部、工部大学校、大学予備門・第一高等学校、東京美術学校で用器画、英語を教える
英語に堪能で、神田乃武、浅田栄次とともに英語教育界の三羽烏と呼ばれる
夏目漱石も小島の教え子の一人
第一高等学校で長年用器画を担当していたため伊東忠太、塚本靖など小島に学んだ建築家は数多い
1885年 湯島聖堂にあった東京図書館を上野への移転計画に関わる
1886年 書籍庫竣工
1918年日本アルプス登山の途中で急逝、享年62
子息の小島新吾は建設省営繕局長を務める
建築家西村好時の義父

6.坂本復経(1855年 - 1888年)長崎県

官費生として工部大学校造家学科に進学

1881年 卒業
     工部省に七等技手として奉職
     営繕局に勤務
     四等技手待遇で白川宮邸に従事
1885年 工部省廃止に伴い内務技師
1886年 辰野金吾の勧めで建築請負師清水満之助商店(現・清水建設)製図場の初代技師長として招聘
     欧米の建設事情視察のため歴訪
     辰野金吾、松ヶ崎万長、河合浩蔵らと造家学会を設立

7.佐立七次郎(1856年 - 1922年)讃岐国高松(現・香川県高松市)

1857年 讃岐藩士の子として高松城下に生まれる
1873年 工学寮に入学
1879年 工部大学校造家学科を卒業
     同期に辰野金吾、曾禰達蔵、片山東熊がいる
     工部省技手となる
     営繕局勤務上野博物館建築掛を命じられる
1880年 鉱山局勤務となる
     秋田県院内鉱山建築掛を命じられる
1882年 会計検査院建築掛を命じらる
     設計・監督を担当する
1883年 海軍省に転任
     横須賀鎮守府造船所在勤建築課員営繕掛
     学舎教授掛兼務を命じられる
1884年 依願免官となる
     藤田組(現フジタ)に入る
1887年 逓信省に入る
     逓信技師に任じられる
     工学士の称号を認可される
1888年 郵便及び電信局舎建築法研究で欧米へ出張
1891年 逓信省を辞する
     建築設計事務所を開設する
1897年 日本郵船株式会社の建築顧問となる
1912年 退社
     自宅で静養する
1922年 死去(享年67)

子の佐立忠雄(1886年 - 1952年)も建築家
作家・詩人の金子光晴は義祖父

8.柴田勝治(1859年 - 没年不明)

1887年 臨時建築局雇となる
     同局技手見習
     内務省技手見習として海軍省庁舎、海軍大臣官舎、仮議院の工事に参加
     宮内省内匠寮技手となる
1885年 皇居御造営事務局雇となる
1892年 宮内省内匠寮技手となる
     監査課勤務となる
1895年 竣工の京都帝室博物館の工事を担当する

9.曽禰達蔵(1852年 - 1937年)

同郷の辰野金吾と共にジョサイア・コンドルの第1期生
一丁ロンドンと呼ばれた丸の内の三菱系貸事務所建築群の設計に関わる
後輩の中條精一郎(1868年 - 1936年)とともに設計事務所を開設
慶応義塾図書館、鹿児島県庁舎本館、明治屋京橋ビルなどを設計
日本造家学会(現日本建築学会)創立委員・会長

1852年 肥前国唐津藩士(祐筆)曽禰寸斉の子として江戸に生まれる
1873年 工部省工学寮工学校入学
1879年 工部大学校造家学科卒業
     工部省に入る
1881年 工部大学校助教授
1886年 海軍に入る
     呉鎮守府の建築委員になる
1890年 恩師コンドルの紹介で三菱社に入社
1892年 三菱一・二号館の建設が始まる
     以後丸の内に煉瓦造のオフィス街が生まれる
1906年 三菱を定年退社
     建築事務所を開設
1908年 中條精一郎と曽禰中條建築事務所開設
1936年 共同経営者の中條が逝去
1937年 逝去

妻は高橋是清の義妹
後妻に久保田政周の実姉しん(1867年生)
長女ミサは、貴族院議員、法制局長官の山川端夫の妻
長男曾禰武は物理学博士、開成高校校長
次女は株式会社東洋電機元社長の上遠野氏の妻
次男の妻は岩倉具視の孫
三男曾禰益は外交官、旧民社党書記長
三男妻・春子は東急創始者 五島慶太の一人娘
三女は理学博士・阪大教授で文化勲章受章者の仁田勇の妻

10.辰野金吾(1854年 - 1919年)肥前国唐津(現・佐賀県唐津市)

肥前国唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門とオマシの間に次男として生まれる
姫松家は足軽よりも低い家格であった

1868年 叔父の辰野宗安の養子となる。
1873年 工部省工学寮に第一回生として入学
1875年 造船から造家(建築)に転じる
1877年 ロンドン出身の建築家ジョサイア・コンドルが工部大学校造家学教師に就任
1879年 造家学科を首席で卒業
     同期生に曽禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎
1880年 英国留学に出発
     コンドルの前職場と出身校であるバージェス建築事務所、ロンドン大学で学ぶ
1883年 日本に帰国
1884年 コンドルの退官後、工部大学校教授に就任
1886年 帝国大学工科大学教授
     造家学会(のちの日本建築学会)を設立
     辰野金吾建築事務所を設立
1887年 工手学校の設立に参加
1898年 帝国大学工科大学学長
1902年 工科大学を辞職
1903年 葛西萬司と辰野葛西事務所を開設
1905年 片岡安と辰野片岡事務所を開設
1907年 明治専門学校協議員となる
1910年 国会議事堂の建設をめぐり建築設計競技の開催を主張
     日蓮主義天晴会に参加
1912年 早稲田大学建築学科顧問に就任
1919年 国会議事堂の設計競技で審査員を務める
     スペインかぜ疾患で3月25日死去、享年64歳

実父・姫松倉右衞門:唐津藩士、足軽以下の下級武士
養父・辰野宗安:父の弟、江戸の唐津藩屋敷詰
妻:秀子:唐津藩士・鳥羽乾三郎の妹、秀子の従妹に山川健次郎の妻りう
長女:須磨子(鈴木梅太郎の妻)
長男:隆(フランス文学者)
次男:保(陸上競技選手、日本体育協会理事)
孫(隆の次男):高司(薬学者)
曽孫:智子(建築家、有限会社辰野武山建築設計事務所取締役

11.妻木頼黄(1859年 - 1916年)江戸赤坂

1876年 家屋敷を売却し渡米
     日本で学ぶよう諭され帰国
1878年 工部大学校造家学科に入学
     ジョサイア・コンドルに学ぶ
     辰野金吾の後輩に当たる
1882年 卒業1年前に中途退学
     アメリカ留学
     コーネル大学建築学科3年に編入
     学士号を取得
     卒業後ニューヨークのロバートソン事務所で修行
1885年 帰国
     東京府に勤務
1886年 議院(国会議事堂)建設の臨時建築局に勤める
     議院の研究のため渡辺譲や河合浩蔵、職人らとともにドイツに留学
1888年 帰国
1894年 日清戦争の際、臨時議院(広島臨時仮議事堂)を短期日で完成させ叙勲を受ける
     奈良の東大寺大仏殿修復に関わる
1901年 欧米を視察
     同年工学博士号を取得
1916年 死去

12.中村岩人(1854年 - 没年不詳)福井県

1885年 内匠課勤務となる
1889年 内匠寮技手を拝命
1895年 沼津御用邸の御座所と女官棟の増築を手がける
1897年(明治30年)に退官した

13.新家孝正(1857年 - 1920年) 江戸

1882年 工部大学校造家学科卒業
     卒業後工部省技手として宮内省へ奉職
     皇居御造営事務局技手として宮内省関連の庁舎の設計に従事
1886年 逓信省に移籍
1887年 日本土木会社(現・大成建設)へ入社
1893年 日本土木会社解散後は自営
1893年 日本で開催する博覧会の準備のために設置された臨時博覧会事務局付
     調査のため北米と欧州視察
     画家富本憲吉が助手として同行
1906年 東京府より東京勧業博覧会建築工事顧問を委嘱
1910年 インドとヨーロッパ視察
1914年 工学博士

14.久留正道(1855年 - 1914年)

ジョサイア・コンドルの元で学ぶ
工部大学校造家学科第3期生でジョサイア・コンドルの元で学ぶ

1881年 工部大学校卒業
     工部省に奉職し技手
1886年 文部属
1887年 文部省技師
     各地の高等中学校の建築に従事
1891年 東京工業学校及び東京美術学校専修科で嘱託
1892年 文部省に復帰
     会計課建築掛長を勤める
     初等・中等教育施設の行政指導、国直轄学校の創立工事に関わる

15.藤本寿吉(1855年 - 1895年)

慶應義塾を経て第2期生として工部大学校造家学科入学
1880年 同校卒業
1881年 文部省に入省
     旧文部省庁舎を手掛ける
1884年 宮内省御用掛
1885年 内匠寮に入る
1886年 箱根離宮を担当する
     三菱に入る
     ジョサイア・コンドル設計の深川別邸の建設をサポートする
1887年 帝国大学
     初代総長渡辺洪基や辰野金吾、片山東熊、らとともに工手学校を設立する
1889年 英吉利法律學校、東京英語學校教塲及事務所を手掛ける坂本復經、辰野金吾、中村達太郎らの設計陣に加わる
1894年 病をえて三菱を退社
     兵庫県の須磨で療養生活に入る
1895年 夭逝

16.八田巳之助(1857年 - 没年不詳)京都府

1893年 二條離宮に桂宮邸を移築する際に場所付雇として採用される
1898年 内匠寮の技手
1914年 大正天皇即位のための大礼使を拝命する

17.山口直昭(1856年 - 没年不明)

1882年 工部美術学校彫刻学科卒業
1887年 臨時建築局雇となる
     内務省土本局雇として裁判町新築工事の製図を担当
     台湾総督府民政局技手、兵庫県工手、秋田県工師をつとめる
1905年 東宮御所御造営局御用掛、設計関係業務に従事
1906年 辞任

18.山口半六(1858年 - 1900年)出雲国(現、島根県)松江

1858年 出雲国松江に松江藩士山口軍兵衛礼行の次男として生まれる
兄は日本銀行理事を務めた山口宗義
弟は物理学者で京都帝国大学教授、学習院院長を務めた山口鋭之助
甥(兄の山口宗義の子息)は海軍中将を務めた山口多聞半六は藤井斉の養父でもあった

1871年 大学南校に入学
1876年 文部省貸費留学生としてフランスへ留学
     国立パリ中央工芸学校に入学
1879年 国立パリ中央工芸学校を卒業。
1881年 帰国
     郵便汽船三菱会社(現・日本郵船)に入社
1884年 文部省に移る
     文部省管轄学校の建設工事を担当する
1891年 建築家として2人目の工学博士号を授与される
1892年 肺結核により文部省を休職
1894年 桑原工業事務所(大阪)の建築部に移籍
     部下に設楽貞雄
1899年 山口建築事務所を設立
1900年 死去。享年42歳

19.渡辺譲(1855年 - 1930年)四谷

父は幕臣の渡辺升
議院建築設計コンペに当選した渡辺福三は弟

1880年 工部大学校造家学科を卒業(第2回生)
     工部省技手
     内務省営繕課技手となる
1886年 内閣臨時建築局技師となる
     官庁集中計画で妻木頼黄らとドイツへ留学する
     シャルロッテンブルグ工学大学で学ぶ
1887年 欧州各国を視察
1888年 帰国
     裁判所建築主任
     工事部勤務
     海軍省(コンドル設計)や業余で帝国ホテルの建設に携わる
1891年 清水組技師長を務める
1894年 海軍の建築技師になる
     海軍省海軍技師呉鎮守府経理部建築科長として呉のドック建設に当たる
     技師最高位の海軍工務監に昇進する
1899年 工学博士号を取得
1900年 欧米出張
1901年 舞鶴鎮守府経理部建築科長任
1904年 辰野金吾に代わり1年間建築学会会長に就任
1905年 横須賀海軍経理部建築科長兼任
1908年 海軍経理学校教官
1911年 海軍を辞する
     宮内省より錦鶏間祗候を拝命する
     浅野総一郎に請われ浅野造船および浅野関連の建築顧問を務める

20.吉井茂則(1857年 -1930年) 高知県

岡林茂基の二男として生まれる
大阪府権大参事吉井正澄の養子となる工学博士
1871年 大蔵省に出仕
     英国留学を命じられる
1874年 帰国
     工部大学校造家学科に入学
1883年 第5回卒業生として卒業
     印刷局、陸軍省に入る
1887年 臨時建設局へ移る
     議院の建設に従事する
1890年 ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーと仮議事堂を設計
1891年 仮議事堂が焼失するが60日で再建
1892年 逓信技師
     三橋四郎と中京郵便局の設計に当たる
1901年 欧米各国を視察
     鉄道技師を兼任
     駅舎建設にも関わる
1914年 退官

妻は幕末期の海軍人で箱館戦争で投降し東京で獄死した松岡磐吉の娘、松岡臺(ダイ)

21.山本治兵衛(1854年 - 1919年)江戸(現・東京都千代田区)

山本家は代々、大名屋敷の設計や営繕に携わっていた
工部省の建築技術者・立川知方に師事し日本建築の設計・製図を修める

1878年 東京府庁土木課に入る
     病院建築・河川開鑿工事などを手がける1884年 小笠原出張所庁舎建築工事のため出張
1885年 工部省鉄道局に転じる
     鉄道局属となる
     上田・直江津間の信越本線工事に携わる
1887年 文部省の雇員となる
     会計局に勤務
     京都の第三高等中学校創設工事の後半を担当
     第三高等中学校医学部(岡山市)や岡山県病院の建設にあたった
     東京美術学校技手を経て文部属専任となる
     久留正道営繕掛長の下で高等中学校など教育施設の監理・設計にあたる
1898年 京都帝国大学に出張を命じらる
     同大学の創立工事を担当する
     文部省技師となる
1900年 文部省京都出張所長となる
     第六高等学校(岡山)
     第四高等学校(金沢)
     第七高等学校造士館(鹿児島)
     西日本の文部省直轄学校工事の指導・監督も担当する
1905年 福岡に出張する
     京都帝国大学福岡医科大学創設工事の指導・監督にあたる
1906年 京都出張所長に戻る
1907年 京都帝国大学技師となる
     京都帝大に新設の建築部初代部長となる
     文部省京都出張所長心得を兼任
     関西地域における学校工事の指導を行う
1919年 京都帝国大学建築部長在職のまま没した

22.松崎万長(1858年 - 1921年)京都二階町

堂上公家・堤哲長の次男として京都・二階町に生まれる
甘露寺勝長の養子となる
幼名は延麿(別名・高丸)
弟に亀井茲明がいる
1867年 孝明天皇の御児だったためその遺詔により堂上に列せらる松崎家を創設した
1869年 三十石三人扶持を賜った
1871年 岩倉使節団に加わりドイツ(当時のプロイセン)に渡る
1883年 ヘルマン・エンデのもとベルリン工科大学で建築学を学んだ
1884年 男爵を賜り、同年12月帰国
1885年 皇居造営事務局御用掛
1886年 内閣臨時建築局工事部長として官庁集中計画に携わる
    ドイツから建築家のエンデとヴィルヘルム・ベックマンを招聘する
    職人たちのドイツ留学を手助けする
1886年 辰野金吾、河合浩蔵、妻木頼黄とともに造家学会(のちの日本建築学会)の創立委員の設立に貢献する
1893年 裁判所から家資分散の宣告を受ける
1896年 爵位を返上
1901年 仙台に転居
     仙台の七十七銀行本店の設計にあたる
1907年 台湾総督府鉄道局に勤務する
     日本を離れ基隆駅や新竹駅の建築にあたる
1921年 東京府で死去
父:堤哲長
養父:甘露寺勝長

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