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1910年代生まれ 建築家 46名

1910年

1.高山英華

生年月日: 1910年4月20日
没年月日: 1999年7月23日

略歴
1910年: 東京市芝区高輪に出生。
1928年: 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1931年: 成蹊高等学校卒業。
1934年: 東京帝国大学工学部建築学科卒業。辰野金吾賞受賞。東京帝国大学工学部建築学科助手。
1935年: 野戦重砲兵第一連隊に入隊。
1936年: 財団法人同潤会の設立10周年記念研究「外国に於ける住宅敷地割類例集」を共同執筆。
1938年: 東京帝国大学工学部建築学科助教授。満州国大同都市計画に参画。
1941年: 大学に復帰し、都市計画関連の研究を継続。
1942年: 満州野線砲兵第7連隊に召集されるも、同年3月に除隊。
1943年: 東京帝国大学第二工学部へ移籍。戦時物資動員計画に関与。
1945年: 日本建築学会常議員(編修)。
1949年: 工学博士(「都市における密度に関する研究」)。東京大学第2工学部建築学科教授。
1951年: 日本都市計画学会理事。
1952年: 結婚。
1953年: 東京大学工学部建築学科教授。
1956年: 日本建築学会学術理事。
1958年: 日本建築学会副会長。
1961年: 東京工業大学教授併任。
1962年: 東京大学工学部都市工学科教授に就任し、都市計画の教育と研究に貢献。
1964年: 東京オリンピックにおいてオリンピック施設特別委員会副委員長を務め、日本建築学会賞特別賞受賞。
1965年: 日本建築学会会長。
1966年: 江東防災総合委員会委員長に就任。
1967年: 中央公害対策審議会委員(総理大臣)。
1969年: 「高蔵寺ニュータウン計画」で日本都市計画学会石川賞受賞。
1971年: 東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授に就任。
1972年: 沖縄国際海岸博覧会・会場計画委員会委員長。
1974年: 都市計画中央審議会会長。
1975年: 臨海都心部開発プロジェクトを手掛ける。
1978年: 日本建築学会大賞受賞。日本地域開発センター理事長。
1980年: 日本都市計画学会名誉会員。
1981年: 学校法人工学院大学理事長、日本建築学会創立100周年記念事業委員長。
1985年: 再開発コーディネーター協会会長。
1993年: 森記念財団会長。
1999年: 逝去(享年89)。

2.武 基雄


来歴
1910年: 長崎市に生まれる。
1937年: 早稲田大学理工学部建築学科卒業。石本喜久治の石本建築事務所に勤務(1937年〜1940年)。立原道造、海老原一郎、西山卯三、丹下健三らと知己を得る。
1940年: 早稲田大学で教鞭をとり始める(〜1979年)。
1950年: 建築設計事務所「武建築設計研究所」を開設。
1979年: 早稲田大学を退職。
2005年: 逝去。

主要作品
長崎水族館
長崎市公会堂
古川市民会館(宮城県、DOCOMOMO JAPAN選定、日本におけるモダン・ムーブメントの建築)
島原文化会館
諫早市民センター
島原図書館
鎌倉商工会議所会館
2020年: 旧自邸「三角の箱」が鎌倉市景観重要建築物等に指定される。

著書
1978年: 『都市は「ふるさと」か』(F.レンツ=ローマイス著 伊藤哲夫と共訳)
1983年: 『市民としての建築家』(相模書房)
不明: 『現代木造住宅のディテール 基本と応用』(監修)

3.清田 文永

来歴
1910年: 大分県佐伯市に生まれる。
1935年: 早稲田大学理工学部建築学科を卒業。逓信省、大日本航空株式会社に勤務。
1946年: 株式会社梓設計を創設。
1973年: 建設大臣表彰を受ける。
1977年: 黄綬褒章受章。
1982年: 逝去。

主要作品
文化放送会館(聖パウロ会館)
NHK放送センター
イタリア軒ホテル

受賞
日本建築学会賞
建築業協会賞(NHK放送センター・NHKホールで受賞)

1911年

1.今泉 善一


来歴
1911年: 愛知県新城市に生まれる。
1928年: 工手学校(現・工学院大学)を卒業。
1929年: 大蔵省営繕管財局に入局し、工務部第四製図室に配属。同年、夜学の早稲田高等工学校に入学し、今井兼次に学ぶ。
1930年: 日本共産党七・一五事件に遭遇し、左翼運動に関わる。
1931年: 日本共産党に入党。大蔵省内で地下活動を展開し、工場新聞を発行。
1932年: 赤色ギャング事件に関与し、逮捕される。
1932年: 小菅刑務所に収監され、3年間独房で過ごす。
1944年: 満期出所。前川国男の建築設計事務所に参加し、戦時中は地下工場建設に従事。
1945年: 第二次世界大戦終戦後、前川事務所で工場生産建築の開発に携わる。
1946年: 日本民主建築会を結成。さらに全日本建築民主協議会を母体に、新日本建築家集団(NAU)を結成。
1947年: NAUと協力し、東京建築設計事務所を設立。労働組合関連の建築設計に携わる。
1957年: 日本不燃建築研究所を設立し、防火帯建築の設計に従事。

主要作品
1949年: 全日本造船労働組合会館
1952年: 八幡製鉄労働組合会館(1982年に取り壊される)
1953年: 沼津市アーケード街西側(静岡県)
1954年: 沼津市アーケード街東側(静岡県)
1954年: 大館市片町防火帯(秋田県)
1955年: 柏駅前通り防火帯(千葉県柏市)
1955年: 宇都宮市馬場町通り防火帯(宇都宮市)
1957年: 高岡駅南ビル防火建築帯
1957年: 蒲田第1期防火帯(東京都大田区)
1958年: 魚津火災復興防火建築帯(富山県)
1961年: 高岡駅前ビル街区型防火帯建築

著作
1952年: 八幡製鉄労働組合会館の設計と施工に就いて
1955年: 沼津市本通防火帯建設について
1957年: 神田邸
1958年: 商店街の不燃共同化の諸問題

2.坂本 鹿名夫

1911年7月21日 東京で生まれる。
    父は政治家の阪本釤之助(鹿児島県知事や名古屋市長を歴任)。
    従兄に作家の永井荷風、異母兄に詩人の高見順がいる。
1937年 東京工業大学建築学科 卒業
    卒業研究では円形の飛行場を設計。
    大倉土木(現・大成建設)に就職
    大成建設でのキャリアをスタートさせる。
    第二次世界大戦中海軍に入隊
    技術将校として従事。戦後、大成建設に復職。
1954年 大成建設を退職
    「建築綜合計画研究所」を設立し社長に就任。
    国立国会図書館建築競技設計で入選
初めての大きな建築コンペで成功を収める。
1962年 坂本 鹿名夫建築研究所 設立
    独自の建築設計事務所を設立
    円形建築の設計に本格的に取り組むようになる。
1987年5月29日 逝去。享年75歳。

坂本 鹿名夫は、その経済性と合理性を強く主張し、全国に100以上の円形建築を設計した建築家です。代表作として、円形劇場「くらよしフィギュアミュージアム」や立正佼成会大聖堂などがあり、特に円形校舎や病院の設計に力を入れました。

3.竹中錬一

1911年(明治44年)竹中錬一は3月1日、兵庫県神戸市に生まれる。
1933年(昭和8年)早稲田大学理工学部建築学科を卒業、さらに早稲田大学大学院を修了。
1934年(昭和9年)竹中工務店に入社。
1937年(昭和12年)竹中工務店の取締役に就任。
1944年(昭和19年)竹中工務店の副社長に就任。
1945年(昭和20年)竹中工務店の社長に就任。
1948年(昭和23年)竹中工務店及び清水組に対する融資問題で、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
1958年(昭和33年)関西経済同友会の代表幹事に就任。
1968年(昭和43年)藍綬褒章を受章し、勲二等旭日重光章を受ける。
1975年(昭和50年)無公害・省エネルギー空調システムの開発で毎日工業技術奨励賞を受賞。
1977年(昭和52年)竹中工務店の社長を実弟の宏平に譲るが、その年8月に宏平が死去したため、再び社長に就任。
1980年(昭和55年)竹中工務店の会長に就任。
1988年(昭和63年)デミング賞本賞を受賞。
1996年(平成8年)竹中工務店の相談役に退き、同年12月31日に死去。

4.西山夘三

日本の建築学者、建築家、都市計画家として広く知られています。以下に、西山夘三の主な活動と業績を西暦順に詳しくまとめます。

1942年: 『住宅問題』を出版。大河内一男に推薦され、文部省推薦図書となる。同年、日本建築学会住宅委員会専門委員に就任。
1943年: 「庶民住宅の研究」で日本建築学会賞学術賞を受賞。戦争中の「大東亜聖地祝祭都市」計画を発表。
1944年: 京都大学講師に任命される。その後、同大学の営繕課長となり、防空壕の設計などを行う。
1946年: 同大学助教授に就任。戦後の復興住宅建築基準などについて提言した『新日本の住宅建築』を発表。
1947年: 『これからのすまい』を出版。工学博士となり、新日本建築家集団(NAU)の結成に参加。
1948年: 京都大学教職員組合中央執行委員長に就任し、総長カンヅメ事件に遭遇。
1950年: 京都での原爆展パネル製作に参加。
1951年: 岐阜県高鷲村蛙ヶ野開拓村、和歌山県南白浜開拓村の調査を実施。
1952年: 日本建築学会で建築用調査連合委員会や都市計画委員会住宅小委員会専門委員、および近畿支部評議員を務める。
1953年: 新制京都大学西山研究室を発足。
1954年: 鳥取県農山村漁村調査を実施。
1955年: 鳥取県酒津村調査を行う。
1956年: 香里住宅団地計画を日本住宅公団から受託。
1957年: 農村建築研究会で北海道を旅行。
1958年: 北大阪丘陵開発千里ニュータウン計画を日本住宅公団から受託。
1960年: 日本学術会議会員に就任し、以後6期務める。同年、日本工業標準調査会委員に就任。
1961年: 京都大学教授に昇進し、地域生活空間計画講座を担当。
1962年: 日本建築学会メートル法と建築モジュール委員に就任。チェコやフランスを訪問。
1963年: 日本学術会議第六期会員に就任し、キューバを訪問。京都タワー計画反対の論陣を張る。
1964年: 日本建築学会都市計画委員会および建築歴史・意匠委員会委員に就任。京都計画を発表。
1965年: 日本万国博覧会会場計画委員に就任し、翌年に会場計画委員会責任者となる。野尻湖山荘が完成。
1966年: 学術会議第七期委員・安全工学研究連絡委員会委員長就任。また、建設省歴史的風土審議会専門委員を務める。同年、『住み方の記』で日本エッセイストクラブ賞を受賞。
1967年: 京都府建築審査会会長に就任。カナダとアメリカを訪問。
1968年: 二十一世紀の設計チームを結成し、3年間活動する。同年、総理府観光政策審議会専門委員、京都府建築士審査委員に就任。
1969年: 学術会議第八期委員、観光資源保護財団専門委員、滋賀県観光開発審議会委員に就任。
1970年: 新建築家技術者集団を結成し、代表幹事に就任。また「京都の市電を守る会」に参加。
1971年: 京都府総合開発審議会会長に就任。
1972年: 日本学術会議第九期会員に就任し、都市・地域・国土問題特別委員会委員長となる。
1974年: 京都大学を定年退官し名誉教授となる。記念論集『現代の生活空間論』が出版される。
1975年: 学術会議第十期会員に就任し、都市・地域計画研究連絡会委員長および京都府国土利用計画審議会初代会長に就任。
1976年: スリランカを訪問。日本建築学会学術委員会委員、京都自治体問題研究所理事長に就任。
1977年: 大阪府文化財保護議会委員、滋賀県総合開発計画審議会委員、京都府総合計画審議会南山城地域整備部会長に就任。
1978年: 日本建築学会農村計画委員会住宅部会委員に就任。この年から学会名誉会員となる。
1979年: 京都自治体問題研究所に学術研究都市構想を考える会を設置し、代表に就任。
1982年: 日本住宅会議を結成し、代表委員に就任。
1983年: 勲二等瑞宝章を受章。
1986年: 日本建築学会大賞を受賞。建築計画学、地域計画学の発展に対する貢献が評価される。
1987年: 京都自治体問題研究所理事長を退任し、顧問に就任。
1988年: 京都ホテルおよび京都駅ビルの高層化に反対する意見広告実行委員会代表を務める。
1990年: 「ストップザ・京都破壊、まちづくり市民連絡会議」代表に就任。奈良、京都、鎌倉の古都・歴史都市の歴史的遺産と景観を守る三都市共同フォーラム実行委員長を務める。
1992年: 「ストップザ・京都破壊まちづくり市民連絡会議」代表としてデモ行進を行う。住宅会議サマーセミナー講演会。
1993年: 京都駅駅ビル改築(原広司案)見直しアピールを行い、住民訴訟で証言。
1994年: 京都駅駅ビル訴訟で原告側証人として証言。くも膜下出血で倒れ、京都大学病院で亡くなる。83歳没。西山研究会が発足。
記念館・資料
1995年: 西山記念すまい・まちづくり文庫が仮オープン。
1997年11月8日: 「西山夘三記念すまい・まちづくり文庫」が正式に設立。所在地は京都府木津川市の積水ハウス総合住宅研究所内。1999年に特定非営利活動法人(NPO法人)として認証を受ける。

主な業績と計画
1943年: 大東亜聖地祝祭都市。
1945年: 大阪復興計画。
1958年: 香里団地計画、名古屋都市計画。
1960年: 高密度居住装置・イエポリス。
1964年: 京都計画。

5.安田臣

日本の建築家で、主に戦後の公共建築や地方都市の計画に携わりました。以下は彼の生涯と業績を西暦順にまとめたものです。

略歴
1911年: 島根県邑智郡に生まれる。
1937年: 早稲田大学理工学部建築学科を卒業。
1937年 - 1940年: 同潤会技師として勤務。
1940年 - 1945年: 住宅営団技師として活動。戦後は広島県の戦災復興都市計画に参加。
1949年 - 1962年: 建設省に勤務。営繕局建築課建設専門官、九州地方建設局営繕部長を経て、1962年に営繕局監督課長に就任。
1963年: 建設省を退官し、東京都港区赤坂に安田臣建設設計事務所を開設し、代表取締役となる。
1963年 - 1977年: 独立後、一級建築士審査会委員、中央建築工審査会委員、早稲田大学理工学部講師などを歴任。
1977年2月9日: 胃がんのため、東京大学医学部附属病院にて死去。

主な作品
大分県庁舎 (1950年代): 大分県の行政の中心となる建物。
島根県庁舎及びその周辺整備計画 (1950年代): 島根県の行政機関を中心とする整備計画。
島根県民会館 (1960年代): 島根県民のための文化施設。
白鳥会館 (1960年代): 地域の会館として利用される建物。
プラザ佐治 (1960年代): 佐治地域の公共施設。
加茂町山村開発センター (1960年代): 山村の開発を目的とした施設。
中小企業研修所本館 (1960年代): 中小企業向けの研修施設。
匹見タウンホール (1960年代): 匹見町の公共ホール。
島根会館 (1970年代): 東京都渋谷区に位置する文化・会議施設。
安田臣の業績は、特に山陰地方での公共建築や地方都市計画に多く見られ、日本建築学会賞を受賞するなど、その影響力が評価されています。

1912年

1.生田勉

日本の建築家・建築学者で、木造住宅や山荘のデザインに独自のアプローチを持ち、東京大学名誉教授としても知られています。以下は彼の生涯と業績を西暦順にまとめたものです。

略歴
1912年2月20日: 北海道小樽市に生まれる。
1939年: 東京帝国大学工学部建築学科卒業。同期に立原道造、一期上に丹下健三・浜口隆一がいる。
1944年: 旧制一高の教授に就任。
1944年: 逓信省営繕課に勤務。
1951年: ノースカロライナ大学客員教授、オレゴン大学建築科で講義。
1955年: 東京大学内に生田建築研究室を開設し、設計活動を開始。
1961年: 東京大学教養学部助教授から教授に昇進。
1967年: 塊建築研究所を設立(1972年に生田勉都市建築研究室と改称)。
1972年: 東京大学を定年退官。
1980年8月4日: 死去。

主な作品
栗の木のある家 (1956): 木造の温かみを生かした住宅。
方形の家 (1957): シンプルな形状の住宅。
亀甲の家 (1958): 独特な形状の住宅。
かねおりの家 (1959): 木造住宅。
山荘デルタ (1960): 木造の山荘。
牟礼の家 (1961): 木造住宅。
ぼっこ山荘 (1962): 木造山荘。
五千尺ロッジ (1960年代): 山中のロッジ。
佐々木さんの家 (1960年代): 木造住宅。
アトリエの二つある家 (1960年代): アトリエを持つ住宅。
つる屋・ローマ (1960年代): 木造の商業施設。
青木繁「海の幸」記念碑 (1960年代): 記念碑。
T音楽大学計画 (1960年代): 音楽大学の設計計画。
新渡戸記念館 (1964): 青森県十和田市にある記念館。
近江八幡国民休暇村レクリエーションセンター (1966): 休暇村のレクリエーションセンター。
日本近代文学館 (1965): 近代文学をテーマにした館。
勤労青少年ホーム サンピア (1967): 青森県青森市にある青少年のための施設。
EXPO70生活産業部 (1969): 大阪万博の生活産業部門の設計。
横浜市緑化センター温室 (1960年代): 緑化センターの温室。

著書
『栗の木のある家』 (1982年7月、風信社): 自身の設計理念を紹介する著書。
『杳かなる日の 生田勉青春日記 1931~1940』 (1983年7月、麦書房): 青春期の日記を元にした著書。
生田勉は、木造建築における温かみや自然との調和を重視したデザインで評価され、またルイス・マンフォードの著作を紹介したことでも知られています。

2.川島宙次

1932年 大阪市立都島工業学校建築科卒業
    大林組入社
    住宅部長、大林ハウジング取締役を歴任
1990年 第1回竹内芳太郎賞受賞
1998年 逝去

所属学会・団体
日本民族建築学会評議員
東京民芸協会会員
日本美術家連盟会員

3.小坂秀雄

1930年 東京府立第一中学校卒業
1935年 東京帝国大学工学部建築学科卒業
1952年 外務省庁舎設計競技で実施案が入選
1953年 愛知県文化会館の設計競技で一等入選
1960年 皇居造営建設委員会の委員となる
1962年 旧ホテルオークラ完成(設計担当)
1963年 丸ノ内建築事務所を設立
1970年 外務省庁舎完成(設計担当)
2000年 脳梗塞のため死去

4.佐藤重夫

1931年 東京帝国大学工学部建築科に進学
1934年 東京帝国大学工学部建築科卒業
    渡辺仁建築事務所に勤務
1940年 逓信省航空局に勤務
1947年~1950年 建築設計事務所を自営し、岡山市の復興に携わる
1950年 広島大学工学部助教授就任(建築計画設計を担当)
1956年 広島大学工学部教授就任
1975年 広島大学定年退官
1975年 国立呉工業高等専門学校校長就任
1983年 国立呉工業高等専門学校退任
1988年 日本民俗建築学会会長就任
1999年 日本建築学会賞大賞受賞
2003年 逝去

主な業績・貢献
1965年 広島市から原爆ドーム保存調査工事の指揮指導を受け、
    エポキシ樹脂接着剤注入による保存工法を提案
1967年 原爆ドーム保存工事実施
1982年 勲二等瑞宝章受章
1989年~1990年 第二回目の原爆ドーム保存工事実施

主要作品
広島大学原爆慰霊塔死没者追悼之碑
岡山県貨物ビル

著作
『1970年 滄浪園の建築物と庭園の構造』
『民家についての最近の調査研究別刷集(広島県の部)』
『巻雲 思杏・佐藤重夫の光跡』

5.野生司義章

1940年 東京帝国大学工学部建築科卒業
    大成建設勤務
    野生司建築設計事務所を設立(ピーク時の所員数は約150名)
1950年 雑誌『国際建築』編集に関与
    著作「イサム・ノグチ 人と作品」
1962年 「ワルター・グロピウス,リチャード・ノイトラ,スキッドモア・オウイングス・メリルの業績の研究 (建築史・意匠) (学位論文要旨)」
1964年 「建築の工業化について」
1967年 「4020 Study on Community Centers(Design and Planning)」
1969年 「騒音からみた高速道路際の住宅団地の計画に関する研究 : 建築計画 大会学術講演梗概集. 計画系 44(計画系), 409-410,(1969年7月23日号)」
昭和30年代後半 東京・青山通り拡幅と整備、市街地再開発事業を指導
昭和40年6月 吉祥寺駅北口再開発計画に協力

主な業績・貢献
ラインヒルゴルフクラブ
北砂五丁目団地(日本住宅公団発足初期の団地設計)
旧日本電信電話公社(現NTT)関連の建築物
都市開発・法定再開発などの都市計画

学術的な貢献
千葉工業大学建築学科の創設に携わり、同大学教授として人材の育成

子息
野生司義光(建築家)

その他
工学博士
戦後行われた世界平和記念聖堂の建築設計競技では佳作に入選

1913年

1.岩本博行

1932年 大阪市立都島工業学校建築科卒業
    竹中工務店に入社
1959年 竹中工務店九州支店設計部長
1960年 天神ビル(設計・建設)
1962年 竹中工務店大阪本店設計部長
1963年 国立劇場の建築競技で1等入選
1964年 神戸関電ビル(設計・建設)
    神戸オリエンタルホテル(設計・建設)
1965年 御堂ビル(設計・建設)
1968年 竹中工務店取締役技師長
1972年 竹中工務店常務取締役
1984年 竹中工務店創立80周年記念事業「竹中大工道具館」創設に関与
1991年 逝去

主な業績・貢献
竹中工務店での多くの設計・建設プロジェクト
伝統的建築素材の色彩を用いた統一感の創出
職人(大工・棟梁)の伝統を受け継ぐ

代表作
国立劇場(1963年、建築競技1等入選)
天神ビル(1960年)
神戸関電ビル(1964年)
神戸オリエンタルホテル(1964年)
御堂ビル(1965年)

著作・寄稿文
「私の伝統論」 『国際建築』1964年11月号
「建築一般構造」 『森北建築学全書〈11〉』1970年(吉木寿と連名)

2.内田祥文

1913年10月 東京都麻布区(現・東京都港区)に生まれる
1932年 旧制開成中学卒業
1933年 日本大学予科入学
1938年 日本大学工学部(現・日本大学理工学部・大学院理工学研究科)建築学科卒業
東京帝国大学大学院進学
「戦時体制における東京」という都市のあり方に注目
「建築計画とくに防火に関する研究」に取り組む
建築学会主催建築展覧会競技設計「青年道場設計図案」で佳作
満州国大同都市計画(大同都邑計画)立案に参加
1939年 建築学会主催建築展覧会競技設計「労務者向集団住宅地計画案」で一等
1940年 建築学会主催建築展覧会競技設計「家族向アパートメント・ハウス計画案」で佳作
1941年 紀伊国屋で東京都市改造計画「新しき都市」展覧会を市川清志らと開催
建築学会主催建築展覧会競技設計「国民住宅図案」で一等
住宅営団研究部嘱託
1942年1月 東京帝国大学工学部講師
同年4月、第二工学部講師
1943年 東京帝国大学第一工学部大学院を満期退学し、日本大学講師
1944年 日本建築学会賞学術賞を受賞
内閣の任命により戦時研究員となる
1945年 木造家屋の防災に関する論文「木造家屋外周の防火に関する実験的研究」で学位を取得
1946年 日本大学工学部教授に就任
東京都商工会主催復興計画図案懸賞募集で「深川中小工業地区」、「新宿歓興地区」の計画案でいずれも一等に当選し、前者は特賞を授与
東京帝国大学助教授に就任
東京帝国大学文教地区計画委員会幹事に就任
同年、クモ膜下出血で急逝

主な業績・貢献
木造建築の防災研究
戦後の戦災都市復興計画

著書
『建築と火災』 相模書房、1942年
『建築と火災・改訂版』 相模書房、1953年

3.大江宏

1913年(大正2年)6月14日 秋田市に生まれる。父は大江新太郎。
1916年(大正5年)日光山内安養院に転居
1918年(大正7年)東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)付属幼稚園に入園
1920年(大正9年)成蹊小学校入学
1925年(大正14年)成蹊小学校卒業。成蹊高等学校尋常科へ進学
1930年(昭和5年)成蹊高等学校高等科へ進学
1934年(昭和9年)成蹊高等学校卒業。東京帝国大学を受験するも不合格
1935年(昭和10年)東京帝国大学工学部建築学科入学。同級生に丹下健三、浜口隆一、一級上に薬師寺厚、立原道造、入江雄太郎がいた
6月、父・新太郎死去
1938年(昭和13年)東京帝国大学卒業。卒業論文「建築平面」、卒業設計「工作文化研究所」。丹下健三、浜口隆一とともに辰野賞銅賞を受賞
文部省宗教局保存課に勤務。内閣紀元二六〇〇年祝典事務局嘱託技官として歴史博物館計画を担当、神武天皇聖跡調査を命じられる
1941年(昭和16年)文部省を辞し、三菱地所建築部入所。工場、寮のほか、朝鮮平壌市「三菱製鋼迎賓館」を設計
10月6日、山羽まりと結婚
1942年(昭和17年)東京・世田谷の自邸をコロニアル風に設計(戦時下の十五坪制限住宅)
1946年(昭和21年)三菱地所退社。弟の透・修とともに大江建築事務所設立
1948年(昭和23年)法政工業専門学校建設科教授に就任。大学時の師・平山嵩の口添えで建設科(建築+土木)の創設メンバーに加わる
大江建築事務所を大江宏研究室と改称
1950年(昭和25年)法政大学工学部発足。建設工学科が誕生し、助教授に就任
1952年(昭和27年)法政大学市ヶ谷キャンパス計画着手
1953年(昭和28年)教授に昇格
1954年(昭和29年)サンパウロ市400年記念日本館(設計:堀口捨己)の監理とヴェネツィア・ビエンナーレ日本館敷地選定のため海外出張。北南米、ヨーロッパ14ヵ国を約半年間にわたって旅行
丹下健三・吉阪隆正らと共に「例の会」を発足
1958年(昭和33年)日本建築学会理事、『建築雑誌』編集委員長(1957年3月号~59年2月号)
1959年(昭和34年)日本建築家協会理事、企画委員長。日本建築学会賞選考委員。「法政大学校舎」において、文部大臣芸術選奨および日本建築学会賞作品賞受賞
1960年(昭和35年)メキシコ建築家協会名誉会員。「法政大学校舎」により建築業協会賞受賞
1962年(昭和37年)博士論文「大学の成立と発展 大学の計画を導く理念の探究」により東京大学より工学博士学位を受く
大江宏研究室を大江宏建築事務所に改称。目白に事務所を置く(1968年原宿に移転、1969年有楽町に移転)
1965年(昭和40年)法政大学海外留学制度により、地中海圏諸地域および中近東諸国を旅行
1970年(昭和45年)法政大学工学部長
1973年(昭和48年)日本建築家協会会長就任(1976年まで)
1974年(昭和49年)「丸亀武道館」により毎日芸術賞受賞
1981年(昭和56年)「丸亀武道館他一連の作品」により日本芸術院賞受賞
母・規矩児死去
1984年(昭和59年)法政大学を定年退職。名誉教授となる
1985年(昭和60年)日本芸術院会員。勲三等旭日中綬章叙勲
国立能楽堂により建築業協会賞受賞
1988年(昭和63年)「建築設計・建築論・建築教育における一連の業績」により日本建築学会賞大賞を受賞
1989年(平成元年)3月3日 聖路加国際病院にて逝去。享年75
「追悼 大江宏展」がギャラリー・間で開催
2013年(平成25年)11月 生誕百年記念事業「大江宏・考」特別講演会(講師:磯崎新・中川武)およびアーカイヴ展が法政大学にて開催

主な作品
香川県立丸亀高等学校武道館
角館樺細工伝承館
法政大学55年館
法政大学58年館
国立能楽堂

著書
「建築作法―混在併存の思想から」 思潮社、1989年8月 ISBN 478371519X
「建築と気配―大江宏対談集」 思潮社

研究
「世界建築設計図集7 大江宏 国立能楽堂」 同朋舎出版
石井翔大「恣意と必然の建築 大江宏の作品と思想」 鹿島出版会

4.大旗正二

1968年(昭和43年)宮島町庁舎コンペで一等当選し、完成は1969年(昭和44年)
1969年(昭和44年)宮島町庁舎 般舟寺光庭 社会保険中京病院
1971年(昭和46年)酔心ビル本店 宮島町立宮島中学校体育館 岡山済生総合病院
1974年(昭和49年)タシュケント・オペラ劇場 壁面装飾デザインを担当
1980年(昭和55年)広島市中央公園噴水の台座 モニュメント共作(北村西望と大旗正二)
1967年(昭和42年)10月28日 平和の時計塔 広島鯉城ライオンズクラブにより建立

5.河内義就

1932年(昭和7年)
横浜国立大学(当時は横浜高等工業学校)建築科 中村順平の弟子として学ぶ
1935年(昭和10年)
卒業後逓信省経理局営繕課に就職 山田守の元で実務経験を積む
1939年(昭和14年)7月
満州国 郵政総局経理科営繕技手仕官、技佐仕官として建築活動を開始
1945年(昭和20年)以降
広島 被爆都市としての広島の復興に従事
暁設計事務所に所属
1951年(昭和26年)
河内義就設計事務所
独立して設立し、広島を拠点に建築設計を行う

主要作品
1950年代
広島毎日会館
矢野公民館
府中町中央公民館
1960年代
宮島競艇場
広島建設会館
広島労働会館(現「ワークピア広島」)
1970年代
長寿園団地分譲住宅
広島県県民の森センター棟・宿泊棟
せとうち苑
1980年代
広島工業大学付属図書館
太田川ゴルフ倶楽部
広島佐伯カントリー倶楽部
市医師会原爆殉職碑

栄典
1985年(昭和60年)勲五等瑞宝章

6.國方秀男

1940年(昭和15年)東京帝国大学工学部建築学科卒業 卒業後、逓信省に入省
1949年(昭和24年)電気通信省施設局建築部設計課長 逓信省から電気通信省に転任
1952年(昭和27年)日本電信電話公社施設局建築部(現・NTTファシリティーズ)総監督
1963年(昭和38年)日本総合建築事務所(現・日総建)設立 代表取締役として設立に関与
1980年(昭和55年)日本総合建築事務所社長に就任
1993年(平成5年)没

主な建築作品
1956年(昭和31年)関東逓信病院
1961年(昭和36年)日比谷電電ビル 第13回日本建築学会賞作品賞受賞
1981年(昭和56年)富山県立近代美術館

7.近藤芳美

1913年(大正2年)5月5日朝鮮・慶尚南道馬山で出生
1925年(大正14年)父の赴任先から広島市に帰国し、広島市で育つ
1931年(昭和6年)広島県立広島第二中学校(現・広島観音高)入学
1934年(昭和9年)旧制広島高校(現・広島大学)在学中に中村憲吉を訪ね、「アララギ」に入会
1937年(昭和12年)東京工業大学建築科卒業
1937年(昭和12年)清水建設に入社、設計技師として勤務
1942年(昭和17年)戦時中、中国戦線に召集される
1947年(昭和22年)加藤克巳、宮柊二らと「新歌人集団」を結成し、評論『新しき短歌の規定』を発表
1948年(昭和23年)妻・とし子(本名=年子)への愛情を綴った処女歌集『早春歌』を出版
歌集『埃吹く街』が戦後派歌人として注目される
1951年(昭和26年)アララギ系短歌結社「未来短歌会」を結成し、歌誌『未来』を創刊、主宰
1961年(昭和36年)工学博士号を取得
1973年(昭和48年)神奈川大学工学部建築学科教授に就任(1984年まで)
1977年(昭和52年)現代歌人協会の設立に尽力し、理事長に就任(約15年間)
2000年(平成12年)〜2001年(平成13年)
歌集や評論をまとめた『近藤芳美集』(全10巻)が岩波書店から刊行
2006年(平成18年)6月21日 東京都世田谷区の至誠会第二病院で心不全(前立腺癌の可能性も)により死去。享年93歳
2006年(平成18年)9月1日 未来短歌会主催による「近藤芳美をしのぶ会」が開催

死後
正四位に叙され、旭日重光章を授けられる
近藤芳美は、戦後の短歌界を牽引し、朝日新聞の「朝日歌壇」で長年選者を務めた他、建築家としても業績を持つ人物です。

8.丹下健三

20世紀の日本を代表する建築家・都市計画家であり、多くの重要なプロジェクトに携わりました。彼の業績は、戦後の日本の建築と都市計画の発展に大きく貢献しました。

年譜
1913年 - 大阪府堺市に生まれる。父の転勤により中国の漢口、さらに上海に移住。
1921年 - 上海・日本尋常小学校に入学。
1926年 - 旧制今治中学に入学。
1930年 - 旧制広島高校に進学。ル・コルビュジエの記事に触発され、建築家を志す。
1935年 - 東京帝国大学工学部建築科に入学。
1938年 - 東京帝国大学工学部建築科卒業、辰野賞を受賞。
1941年 - 東京帝国大学大学院に入学。
1942年 - 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選。
1946年 - 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任。
1951年 - CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、広島計画を発表。
1954年 - 日本建築学会作品賞を受賞(愛媛県民館)。
1958年 - アメリカ合衆国建築家協会(AIA)第1回汎太平洋賞受賞。
1959年 - 東京大学より工学博士の学位を受ける。博士論文は「大都市の地域構造と建築形態」。
1963年 - 東京大学工学部都市工学科教授に就任。
1965年 - 日本建築学会特別賞(国立屋内総合競技場)。イギリスRIBAゴールドメダル受賞。
1966年 - アメリカ合衆国AIAゴールドメダル受賞。
1970年 - ローマ教皇庁大聖グレゴリウス勲章受章。
1973年 - フランス建築アカデミー ゴールドメダル受賞。
1974年 - 東京大学を定年退官、名誉教授となる。
1976年 - 西ドイツ政府プール・ル・メリット勲章受章。
1979年 - 文化功労者に選出。イタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ章受章。
1980年 - 文化勲章受章。
1984年 - フランス芸術文化勲章コマンドール章受章。
1986年 - 日本建築学会大賞(日本における現代建築の確立と国際的発展への貢献)。
1987年 - アメリカ合衆国プリツカー賞受賞。
1993年 - 高松宮殿下記念世界文化賞建築部門受賞。
1994年 - 勲一等瑞宝章受章。
1996年 - フランスレジオンドヌール勲章受章。
2005年 - 死去(91歳)。東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下に埋葬。

主な業績
広島平和記念資料館(1955年)
東京カテドラル聖マリア大聖堂(1964年)
山梨文化会館(1966年)
東京都庁舎第一本庁舎(1991年)
大阪万博お祭り広場の大屋根(1970年)
丹下健三は、戦後の日本建築におけるモダニズムの先駆者であり、彼のデザインは国際的にも高く評価されました。特に広島平和記念資料館と東京カテドラル聖マリア大聖堂は、彼の代表作として広く知られています。

9.本城和彦

1913年1月9日:本城和彦、出生。
1938年:東京帝国大学工学部建築科卒業。卒業後、逓信省工務局営繕課に入省。
1946年:戦災復興院業務局住宅建設課技師に就任。
1947年:総理府経済安定本部建設局計画課勤務、経済復興計画(1948年)と国土総合開発法(1950年)の作業に参加。
1952年:建設省営繕局技官に就任。
1955年:日本住宅公団本所建築部設計課長に就任。2DK型住宅の設計計画に大きな成果をあげる。
1958年:国連ECAFEおよび国連本部社会局住宅・建築・計画センターのセミナーに参加。
1960年:イラン建設銀行へ住宅専門アドバイザーとして出向。
1963年:国連住宅建設計画委員会日本政府代表(〜1971年)。
1965年:東京大学工学部都市工学科教授(〜1971年)。
1972年:日本建築学会建築経済委員会委員長(〜1973年)。
1974年:国連地域開発センター(UNCRO)所長に就任(〜1981年)。
1978年:EAROPH(東方地域都市計画住宅機構)会長に就任。
1981年:国連地域開発センターを退職し、国際開発センター(IDC)の理事に就任。
1982年:EAROPH名誉会長に就任。
1988年:勲二等瑞宝章を受章。
1994年:日本建築学会賞大賞を受賞。
1998年:日本建築学会名誉会員に就任。
2000年:日本都市計画学会国際交流賞を受賞。
2002年8月29日:逝去。
この経歴は本城和彦の日本の建築と都市計画に対する貢献、および彼の国際的な活動を反映しています。

10.松村正恒

1913年1月12日:松村正恒、愛媛県大洲市に生まれる。
1935年:武蔵高等工科学校(現・東京都市大学)を卒業。
1935年:土浦亀城建築設計事務所に就職。日泰文化会館の実施設計を巡り、土浦亀城と対立し退職。
1941年:農地開発営団に勤務。
1945年以降:終戦後、八幡浜市役所に就職。
1953年:江戸岡小学校(八幡浜市)竣工。
1955年:新谷中学校(大洲市)竣工。
1956年:八幡浜市立日土小学校の中校舎が竣工。
1958年:日土小学校の東校舎が竣工。
1960年:文藝春秋5月号に「建築家十傑」として掲載。同年、松山市に「松村正恒建築設計事務所」を開設。
1967年:持田幼稚園(松山市)竣工。
1990年:新日本建築家協会第1号終身会員に選ばれる。
1993年2月28日:松村正恒、逝去。
1993年:著書「素描・松村正恒」出版。
1994年:著書「無休建築士自筆年譜」出版。
1995年:著書「老建築稼の歩んだ道」出版。
2011年:花田佳明著「建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム」出版。
2012年12月28日:松村が設計した八幡浜市立日土小学校の中校舎と東校舎が、木造モダニズム建築の代表例として文部科学大臣により重要文化財に指定される。

1914年

1.伊藤 喜三郎

1914年:伊藤喜三郎、誕生。
1938年:日本大学旧工学部建築学科を卒業。
1938年以降:東京大学営繕課研究室嘱託、日立研究所、大成建設、厚生省嘱託などを経歴に持つ。
1952年:建築設計事務所「伊藤喜三郎建築研究所」を設立。
1950年代以降:病院建築の分野で活躍し、主な作品に「産業医科大学」、「慶應義塾大学病院」、「三楽病院」、「国立身体障害者リハビリテーションセンター」などがある。
1996年3月3日:心不全のため死去(享年81歳)。

彼はまた、日本自由画壇理事長を務め、「伊藤三喜庵」として絵本や画集を発表している。

2.立原道造

昭和初期に活躍した日本の詩人であり、建築家でもあります。彼の詩や建築に対する情熱、そして24歳という若さで急逝したことで知られています。

生涯の主な出来事
1914年(大正3年)7月30日 東京都中央区日本橋橘町(現:中央区東日本橋)に生まれる。
1919年(大正8年) 父・貞治郎が亡くなり、5歳で家督を継ぐ。
1927年(昭和2年) 13歳で詩作を始め、北原白秋を訪問。短歌や詩集を作り、既に才能を発揮していた。
1931年(昭和6年) 第一高等学校に進学し、短歌クラブに入部。詩作を続け、『詩歌』に投稿。
1932年(昭和7年) 詩集『こかげ』を創刊し、四行詩集『さふらん』の編纂も手がける。
1933年(昭和8年) 詩集『日曜日』『散歩詩集』を制作。
1934年(昭和9年) 東京帝国大学工学部建築学科に入学。岸田日出刀の研究室に所属し、辰野賞を受賞(以降3年連続で受賞)。
1936年(昭和11年) テオドール・シュトルムの短篇集『林檎みのる頃』を翻訳。
1937年(昭和12年) 東京帝国大学を卒業し、石本建築事務所に入所。「豊田氏山荘」を設計。詩集『ゆふすげびとの歌』、第一詩集『萱草に寄す』、第二詩集『曉と夕の詩』を出版。
1938年(昭和13年)5月 中原中也が没して半年後、『四季』誌に「別離」を発表。九州を旅行し、12月に長崎で発熱、喀血。
1938年(昭和13年)12月26日 東京市中野区江古田の市立療養所に入院。
1939年(昭和14年)3月29日 結核のため、24歳で死去。戒名は温恭院紫雲道範清信士。

死後の主な出来事
1947年(昭和22年)『優しき歌 II』が角川書店から出版される。
1971年(昭和46年)-1973年(昭和48年)『優しき歌 I』が第三次角川書店版全集に復元される。
1997年(平成9年)文京区弥生に立原道造記念館が設立される(2011年に閉館)。
2004年(平成16年)立原が構想した「ヒアシンスハウス」がさいたま市の別所沼公園に竣工。
2006年(平成18年)-2010年(平成22年)筑摩書房版『立原道造全集』(全5巻)が刊行される。

建築作品
1953年 尾道市役所 公会堂
1960年 京都大学工学部坂記念館
1960年 洲本市庁舎
1961年 鳴門市民会館
1961年 衣笠山の家
1962年 京都市蹴上浄水場本館
1962年 東山会館
1963年 鳴門市役所
1963年 福岡ワカ末ビル
1965年 第一レース株式会社京都工場
1965年 京都大学ユーラシア文化研究センター(羽田記念館)
1966年 京都大学工学部1号館、同6号館
1966年 クリスチャンアカデミーセミナーハウス
1967年 西宮市民会館
1967年 京都大学大型計算機センター計算機室
1968年 京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑
1970年 豊岡市民会館
1971年 京都大学工学部8号館
1972年 京都大学総合体育館 創立70周年記念体育館
1972年 鳴門市立北灘西幼稚園
1974年 西日本カントリークラブ 直方コースクラブハウス
1975年 鳴門市勤労青少年ホーム
1975年 鳴門市立桑島幼稚園
1976年 鳴門市老人福祉センター
1977年 徳島県阿波町庁舎
1979年 鳴門市文化会館

3.村田 正

日本の建築家で、戦後の広島復興を支えた建築設計事務所「暁設計事務所」の創設者です。

1914年(大正3年)12月15日 広島市に生まれる。
1933年(昭和8年)広島市立広島工業学校建築科を卒業。
同年4月、広島県土木部営繕課現場監督員として勤務。
1938年(昭和13年)3月 広島県土木部を辞任。
1938年(昭和13年)4月 - 1940年(昭和15年)5月 渡辺仁建築事務所に所属し、東京で活動。
1940年(昭和15年)6月 広島に帰郷し、東洋工業株式会社に勤務。
1945年(昭和20年)9月 東洋工業を退職。
1945年(昭和20年)10月 大旗正二らと共に暁設計事務所設立の準備に関わる。
1946年(昭和21年)4月 暁設計事務所を設立し、代表に就任。
1954年(昭和29年)村田・大旗建築事務所を設立し、代表に就任。
1966年(昭和41年)村田相互設計事務所を設立。
1979年(昭和54年)広島市建築行政協会会長に就任。
1986年(昭和61年)11月 永年の功績により日本建築家協会から終身会員に任命される。
1989年(平成元年)1月23日 逝去。享年74歳。

1915年

1.朝吹 四郎

1915年(大正4年)10月26日 東京市築地明石町に、実業家の朝吹常吉と母・磯子の四男として生まれる。
1933年(昭和8年)慶應義塾普通部を卒業。
1938年(昭和13年)イギリスのケンブリッジ大学で建築学を学び、卒業。建築学士の称号を取得。
1939年(昭和14年)日本に帰国し、千代田設計事務所を開設。
1949年(昭和24年)朝吹設計事務所を開設。
1951年(昭和26年)朝吹一級建築士事務所を東京に創設し、代表に就任。
1957年(昭和32年)日本建築家協会会員となる。
1960年(昭和35年)ベルギーからシュバリエ・ド・ロルドル・ド・ラ・クーロンヌ勲章を授与される。
1976年(昭和51年)カンボジアよりオフィシエ・ソワタラ勲章を授与される。
1988年(昭和63年)9月18日 東京都新宿区の慶応病院で心不全のため死去。享年72。

主要な建築設計作品
駐日フィンランド大使館
駐日ベルギー大使館
駐日インド大使館
駐日マレーシア大使館
駐日カンボジア大使館
駐日ニュージーランド大使館
駐日ビルマ(ミャンマー)大使館
石橋記念館
ブリヂストン芝浦ビル
富士急ハイランド・リゾート
富士急富士宮ビル
ブリヂストン三河台社宅
三菱銀行賢島荘

親族
父:朝吹常吉(実業家、三越社長、帝国生命保険社長)
母:朝吹磯子(歌人、テニスプレイヤー)
兄:朝吹英一、朝吹正二、朝吹三吉
妹:朝吹登水子
妻:登茂子(山本権兵衛の孫、伯爵山本清の三女)
長女:登志子(東園基政の妻)
二女:雅子(牛山勝利の妻)

2.中村登一

1915年(大正4年)12月25日 東京本所に生まれる。
1938年(昭和13年)東京美術学校建築科を卒業。東京市役所建築部に就職。同年12月、兵役により満州に渡る。
1944年(昭和19年)陸軍建築研究所で勤務。
1945年(昭和20年)吉田五十八建築研究所に所属。同時に東京美術学校専任講師に就任。
1947年(昭和22年)新日本建築家集団(NAU)の結成に参加。
1949年(昭和24年)東京芸術大学の文部教官となる。
1950年(昭和25年)東京芸術大学を辞任し、匠建築研究所の所長となる。
1952年(昭和27年)中村建築研究所を設立。
1958年(昭和33年)全日本建築士会の結成に参加。
1959年(昭和34年)全日本建築士会の副会長に就任。
1961年(昭和36年)ソビエト連邦などの建築を視察。
1969年(昭和44年)6月28日死去。

主要な建築作品(西暦順)
1948年(昭和23年)日赤子供の家
1951年(昭和26年)箱根小涌谷駅、料亭阿家
1954年(昭和29年)箱根町役場
1957年(昭和32年)自邸(実験住宅)
1958年(昭和33年)料亭川甚旧館
1959年(昭和34年)九段コーポラス(日本初の分譲マンション)
1964年(昭和39年)日本信販本社ビル
1967年(昭和42年)母子休養ホーム、都立大学目黒校舎、横浜センタービル

著作
1970年(昭和45年)『私と建築・短歌』中村登一文集編纂委員会
1972年(昭和47年)『中村登一ー論文集』番匠設計

3.馬場 知己

日本の建築家であり、都市計画学者です。
彼は鉄道省や国鉄で長く勤務し、東京建築工事局長、新東京国際空港公団参与、中部大学教授などを歴任しました。
また、1961年には東京大学で工学博士号を取得し、後にKK都市環境システム研究所の代表取締役を務めました。

1915年(大正4年)生まれる。
1951年(昭和26年)名古屋鐵道管理局共濟アパートを設計。
1957年(昭和32年)川崎火力発電所の設計により日本建築学会賞作品賞を受賞。
1960年(昭和35年)大井工場の改良計画に携わる。
1961年(昭和36年)東京大学で工学博士号を取得。
1966年(昭和41年)著書『東京2000万都市の改造計画』を鹿島出版会から刊行。
1986年(昭和61年)死去。

主要な建築作品(西暦順)
1951年(昭和26年)名古屋鐵道管理局共濟アパート
1957年(昭和32年)川崎火力発電所(日本建築学会賞作品賞)
1960年(昭和35年)
大井工場の改良計画
成田国際空港ターミナル建設 (年代不詳、代表作の一つ)
東京駅改築計画 (年代不詳、代表作の一つ)

著作(西暦順)
1966年(昭和41年)『東京2000万都市の改造計画』鹿島出版会
1988年(昭和63年)『駅のうつりかわり-鉄道旅客駅変遷史-』自費出版

馬場知己は、都市計画と公共施設の設計において大きな貢献を果たしました。彼の代表作である川崎火力発電所や成田国際空港ターミナルの建設などがその代表例です。また、都市計画に関する著書も発表しています。

4.浜口ミホ

日本で最初の女性建築家とされています。
彼女は住宅設計や台所の近代化に大きな貢献をし特にステンレス製の流し台を普及させ、今日のシステムキッチンの原型を作りました。

浜口ミホの経歴(西暦順)
1915年(大正4年)3月1日 中国・大連で浜田家に生まれる。
1937年(昭和12年)
東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業。卒業後、東京帝国大学工学部建築学科の聴講生となる。
1939年(昭和14年)
東京帝国大学工学部建築学科の聴講を修了。前川國男建築設計事務所で建築を学ぶ。
1941年(昭和16年)建築評論家の浜口隆一と結婚。
1945年(昭和20年)農村建築研究のため北海道へ移る。
1948年(昭和23年)浜口ミホ住宅相談所を開設。
1954年(昭和29年)
一級建築士となり、女性初の一級建築士の資格を取得。桑沢デザイン研究所で生活空間講師(1958年まで)。
1955年(昭和30年)
日本住宅公団の台所設計にステンレス製の流しを採用し、住宅設計に革新をもたらす。
1958年(昭和33年)
相模女子大学と戸板女子短期大学で住居学の講師となる。
1959年(昭和34年)
浜口ハウジング設計事務所と改称。お茶ノ水女子大学の講師を務め(1975年まで)、住宅設計における教育活動を展開。
1974年(昭和49年)
スペインのコスタ・デル・ソル別荘計画(海陽荘クラブ、カサ・マルソル)を手がける(~1989年)。
1988年(昭和63年)4月12日 死去。享年73。

主要な建築作品(西暦順)
1951年(昭和26年)
国鉄大井工場工員集合住宅
1955年(昭和30年)
住宅公団型ステンレス流しの設計
1960年代
青山・南町第二ピル公団アパート
1974年 - 1989年(昭和49年 - 昭和64年)
スペインのコスタ・デル・ソル別荘計画(海陽荘クラブ、カサ・マルソル)

著書(西暦順)
1949年(昭和24年)『日本住宅の封建制』相模書房
1934年(昭和9年)『住宅論』「建築学大系」1、彰国社

浜口ミホは、日本の建築界における女性の先駆者であり、特に住宅設計において女性の視点を取り入れた革新的な貢献をしました。彼女の台所の設計思想は日本住宅の進化に影響を与え、彼女の著作は住生活の近代化を推進しました。

5.宮川英二

1915年(大正4年)7月14日
東京に生まれる。
日本大学工学部建築学科卒業
日本大学で建築を学び、卒業後は建築家としての道を歩み始める。
1959年(昭和34年)
日本大学理工学部駿河台校舎旧5号館を設計。これにより学内でも評価され、以降の活動に大きく寄与。
1960年(昭和35年)
新潟市体育館を設計。この時代の重要な公共建築物の一つとして評価された。
1973年(昭和48年)
『建築計画(大学課程)』をオーム社から出版。建築計画に関する専門書として大学教育の場で活用される。
1975年(昭和50年)
『建築計画-住居・集合住宅・事務所・小学校・劇場・公民館・図書館』を理工図書から出版。建築計画の実践における多様な建物の設計についての理論を展開。
1979年(昭和54年)
『風土と建築』を彰国社から出版。風土との関係性に基づいた建築の考え方をまとめた著書で、建築界でも影響力を持った。
1988年(昭和63年)
勲四等旭日小綬章を受章。日本建築界への貢献が認められた。
1989年(平成元年)5月11日
急性白血病により死去。享年73。
主要な建築作品(西暦順)
1959年(昭和34年)
日本大学理工学部駿河台校舎旧5号館
1960年(昭和35年)
新潟市体育館

著書
1973年(昭和48年)
『建築計画(大学課程)』オーム社
1975年(昭和50年)
『建築計画-住居・集合住宅・事務所・小学校・劇場・公民館・図書館』理工図書
1979年(昭和54年)
『風土と建築』彰国社
建築的空間(出版年不明)
(新建築技術叢書、彰国社)

宮川英二は、大学教育においても建築界においても多くの功績を残し、特に公共建築や教育的な著作を通じて日本の建築文化に大きく貢献しました。

6.西澤文隆

1915年
2月7日:滋賀県愛知郡秦荘町(現・愛荘町)に生まれる。
1940年
東京帝国大学工学部建築学科を卒業。坂倉準三建築研究所に入所。
卒業設計にて辰野賞牌を受賞。
1944年
召集により軍隊に入隊。
1946年
軍務を終え、坂倉準三建築研究所に復帰。
1947年
数奇屋Ⅰ 上村松園邸(奈良県)を設計。
1948年
坂倉準三建築研究所大阪支所(現・大阪事務所)を開設。
1960年
正面のない住宅(仁木邸)(兵庫県西宮市、現存せず)を設計。
宮本邸(大阪市)を設計。
1961年
K氏邸(兵庫県宝塚市)を設計。
正面のない家・楠本邸(兵庫県神戸市)を設計。
1962年
正面のない家/H 平野邸(兵庫県西宮市)を設計。
正面のない家/K 喜多邸(兵庫県神戸市)を設計。
西阪邸(兵庫県西宮市)を設計。
1967年
大阪府青少年野外活動センターで日本建築学会賞(作品)を受賞。
1968年
立体庭園 上阪邸(大阪市)を設計。
箕面観光ホテル(箕面スパーガーデン)(大阪府箕面市)を設計。
1969年
株式会社坂倉建築研究所を創設し、代表取締役に就任。
1970年
数奇屋Ⅱ 山田邸(兵庫県芦屋市)を設計。
1974年
産業功労に対して大阪府知事賞を受賞。
著書『西澤文隆小論集1 コートハウス論Ⅰ』を発表(相模書房)。
1975年
著書『西澤文隆小論集2 庭園論I』を発表(相模書房)。
1976年
著書『西澤文隆小論集3 庭園論II』および『西澤文隆小論集4 庭園論III』を発表(相模書房)。
1979年
西澤邸(兵庫県伊丹市)を設計。
1981年
著書『伝統の合理主義』を発表(丸善)。
1984年
伊丹市文化賞を受賞。
著書『家家』を共著で発表(学芸出版社)。
1985年
一連の住宅作品に対して日本芸術院賞を受賞。
株式会社坂倉建築研究所の最高顧問に就任。
1986年
4月16日:死去(享年71)。
勲四等旭日小綬章を受章。
1988年
著書『西澤文隆の仕事全3巻』を鹿島出版会より発表。
1990年
著書『日本名建築の美』を発表(講談社)。
2006年
『日本の建築と庭 西澤文隆実測図集』を発表(中央公論美術出版)。

1916年

1.吉武泰水

1916年
11月8日:大分県東国東郡来浦村岩戸寺(現・国東市)に吉武東里・とよ夫妻の二男として生まれる。
1936年
成蹊高等学校理科乙類を卒業。
1939年
東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大蔵省営繕官財局嘱託として勤務。
1942年
東京帝国大学助教授に就任。
1951年
51C型として知られる公営住宅標準設計「51C型」を東京大学建築学科の吉武研究室が提唱。戦後の日本の集合住宅の原型となる。
1955年
日本建築学会賞論文賞を受賞。
1956年
工学博士号を取得。学位論文は「建物の使われ方に関する建築計画的研究」。
1959年
東京大学教授に就任。
1963年
旧真駒内小学校(北海道札幌市)を設計(現存せず)。
1964年
著書『建築計画の研究―建物の使われ方に関する建築計画的研究』を発表。
1965年
愛知県がんセンター(愛知県名古屋市)を設計(現存せず)。
1968年
東京都職員共済組合青山病院(東京都港区)を設計(現存せず)。
1969年
東京大学医学部付属病院北病棟(東京都文京区)および東京大学工学部11号(東京都文京区)を設計。
東京大学から筑波大学副学長に転任。
1970年
三井記念病院(東京都千代田区)および栃木県がんセンター(栃木県宇都宮市)を設計(前者は現存せず)。
1971年
栃木県立図書館(栃木県宇都宮市)を設計(現役)。
1972年
千葉県がんセンター(千葉市中央区)を設計。
1973年
筑波大学副学長に就任。
1977年
日本建築学会会長に就任。
1978年
九州芸術工科大学学長に就任。
1982年
日中建築技術交流会会長に就任。
1987年
日本建築学会賞大賞を受賞。
1989年
神戸芸術工科大学学長に就任(〜1998年)。
4月29日:叙勲二等授旭日重光章を受章。
2003年
5月26日:死去。叙従三位。

著書
1964年:『建築計画の研究―建物の使われ方に関する建築計画的研究』を発表。
1987年:『建築計画学への試み』を発表(ISBN 430603223X)。

1917年

1.安東勝男

1917年
4月:東京で生まれる。
1946年
『小住宅』(乾元社〈乾元叢書〉)を発表。
1957年
安東勝男と菊竹清訓が共著で**『製図』**(彰国社〈建築講座 第1〉)を出版。
1960年
『製図』(第2版)(彰国社〈建築講座 第1〉)を出版。
1963年
『製図』(第3版)(彰国社〈建築講座 第1〉)を出版。
1967年
『製図』(第4版)(彰国社〈建築講座 第1〉)を出版。
1988年
1月30日:死去。

主な建築作品
早稲田大学51号館
早稲田大学大久保キャンパス
早稲田大学理工学部新館
真野小学校
浅間小学校
T字形の平面を持つ小住宅

その他
早稲田大学理工学部建築学科で教授として教育に従事。
日本建築学会副会長も務める。

2.藤島茂

1941年
東京帝国大学工学部建築学科卒業後、鉄道省に入省。
1953年 - 1954年
フランス国鉄に留学。
1961年
**『トイレット部長』**を刊行。駅内トイレに関する随筆で、ベストセラーとなり映画化される。
1962年
**『駅前広場計画論、特に駅本屋平面計画との関連について』**で東京大学より工学博士を授与される。
1967年
国鉄外務部長に就任。
1968年
『トイレット部長(増補)』(文藝春秋)を出版(ポケット文春版)。
1969年
『遠い汽笛 トイレット部長奮戦す』(文藝春秋)を出版。
1973年
死去。

著書
『トイレット部長』(文藝春秋新社、1960年)
『トイレット監督』(文藝春秋新社、1961年)
『トイレット部長(増補)』(文藝春秋、1968年)
『遠い汽笛 トイレット部長奮戦す』(文藝春秋、1969年)

3.松本正雄

1917年
6月1日 - 富山県西礪波郡東蟹谷村平桜(現在の小矢部市平桜)に生まれる。
1942年
東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省。
1969年
建設省北陸地方建設局長在任中、集中豪雨による富山大橋の橋桁沈下に対応。
同年、建設省を退官。
1972年
小矢部市長選挙に立候補し当選。市長として就任。
1979年
母校である砺波高等学校の松鷹会館(砺波市)を設計。パリ大聖堂とルーブル宮殿の外観を取り入れている。
1986年
10月20日 - 市長在任のまま死去。市葬が行われる。
その他の業績
メルヘン建築の推進: 公共施設を国内外の有名建築を参考にした施設(いわゆる「メルヘン建築」)を建設。これにより、市の知名度アップと観光振興に貢献。

設計作品
小矢部市内の「メルヘン建築」多数(具体的な施設名は明記されていないが、参考にされた国内外の建築物が多い)。
記念
生地近くの小矢部インターチェンジ付近に松本の顕彰像が建てられている。隣にはニューヨークの自由の女神像を模した「自由の像」がある。

4.宮谷重雄

1917年
8月22日 - 旧満州・大連に生まれる。父親は南満州鉄道大連駅助役。
1935年
早稲田大学理工学部建築学科に入学。同級生には吉阪隆正がいる。
1941年
大学卒業後、満州拓殖公社建築技師補として勤務。
1943年
北支派遣軍戦車第三師団司令部主計部に配属、見習士官として民家改造の兵専用慰安所工事に従事。
1946年
終戦後1年間の捕虜生活を経て復員。
1947年
大学時代の恩師の勧めで農林省に入省し、大工教育を担当。
1956年
「二葉建築事務所」を設立し、キャバレーオペラハウス(新宿)などの設計を手掛けるが、経営難により倒産。
1964年
前川國男の薦めで日本建築家協会を通じて英国RICS(Royal Institution of Chartered Surveyors)を訪問。SMM(Standard Method of Measurement)やBQ(数量明細)についての情報を持ち帰り、QS業務の実体を学ぶ。
1965年
「二葉建築積算事務所」と改名し、積算業務を本格化。後に「二葉積算」と改名。
1967年
初期の日本建築積算協会(BSIJ)の前身である「日本建築積算事務所協会」設立に参加し、積算基準の制定などに尽力。
1971年
『建築の積算マニュアル : 数量算出の実務』を鹿島研究所出版会から出版。
1978年
『建築の積算マニュアル : 数量算出の実務』改訂版を鹿島出版会から出版。
1981年
『吉阪を思う』を建築雑誌に寄稿。
1982年
『組積工事 現代建設実務大系』を鹿島出版会から出版。
1987年
『建築の積算マニュアル : 数量算出の実務』改訂2版を鹿島出版会から出版。
1991年
3月6日 - 死去。

5.吉阪隆正

1917年
2月13日 - 東京都文京区(当時は東京市小石川区)に生まれる。
1923年
父の勤務先のスイスから帰国し、東京百人町に住む。暁星小学校に入学。
1935年
小学校6年生の終わりに再びスイスに移住。
1941年
早稲田大学理工学部建築学科を卒業。大学時代は山岳部で活動し、一年の半分を山で過ごす。
1950年
戦後第1回フランス政府給付留学生として渡仏。
1952年
ル・コルビュジエのアトリエに勤務。
1953年
帰国後、早稲田大学構内に「吉阪研究室」(後にU研究室)を設立し、建築設計活動を開始。
1956年
代表作の一つ、浦邸を完成。これにより友人浦太郎の自宅を設計。
同年、ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館を設計。
1957年
早稲田大学赤道アフリカ横断遠征隊を組織し、「アフリカ横断一万キロ」を達成。
ヴィラ・クゥクゥ、増田邸、丸山邸を設計。
1958年
海星学園校舎と富山市立呉羽中学校を設計。
1960年
日仏会館を設計。
1961年
江津市庁舎を設計。
1962年
大阪経済大学白山ヒュッテ、アテネフランセを設計。
1963年
富山県立立山荘、涸沢ヒュッテ新館を設計。
1964年
竹田邸を設計。
1965年
大学セミナー・ハウスを設計。
1968年
大島の一連の建物、樋口邸を設計。
1969年
野沢温泉ロッジ、生駒山宇宙科学館、黒沢池ヒュッテを設計。
1970年
黒部平駅の増改築、アテネフランセ、栃木県消費生活センターを設計。
1971年
大観峰駅の増改築、栃木県消費生活センターを設計。
1973年
工業化工法による芦屋浜高層住宅プロジェクト競技設計。
1975年
ニューフサジを設計。
1979年
マドリッド・イスラム文化センター国際オープンコンペティション参加。
1980年
12月17日 - 死去。

1918年

1.芦原 義信

略歴
1918年7月7日: 東京都で生まれる。
1942年: 東京帝国大学工学部建築学科卒業。技術士官として海軍に入る。
1945年: 坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所。
1953年: ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所。
1956年: 芦原建築設計研究所を開設。
1959年: 法政大学教授に就任。
1961年: 工学博士(東京大学)。学位論文「建築の外部空間に関する研究」。
1965年: 武蔵野美術大学教授に就任。建築学科の創設に関わる。
1970年: 東京大学工学部教授に就任。
1979年: アメリカ建築家協会名誉会員に、同年東大を定年退官。
1985年: 日本建築学会会長に就任。
1987年: 王立オーストリア建築家協会名誉会員に。
2003年9月24日: 死去。東京大学名誉教授、武蔵野美術大学名誉教授、日本芸術院会員、日本建築美術協会会長。
主な作品
1956年:
中央公論社本社(東京都中央区京橋) - 2000年取壊し。
1959年:
日光ユースホステル(栃木県日光市) - 打ち放しコンクリートと石積みのフォルムが特徴。
1962年:
八代市厚生会館 - 熊本県八代市。
1963年:
香川県立図書館(香川県高松市、現・香川国際交流会館) - 図書館の移転により用途変更。
1964年:
駒沢オリンピック公園総合運動場体育館・管制塔(東京都世田谷区) - 2004年日本建築家協会25年賞(一般建築部門大賞)。
武蔵野美術大学(東京都小平市) - アトリエ棟など一連の校舎。
秀和青山レジデンス(東京都渋谷区)。
1966年:
ソニービル(東京都中央区銀座) - 2017年に新ビルに建て替えのため解体。
1967年:
日本郵船青山社員倶楽部(東京都港区)。
モントリオール万国博覧会・日本館。
1969年:
富士フイルム旧東京本社ビル(東京都港区)。
日本万国博覧会・イタリア館、オーストラリア館、ニュージーランド館。
1980年:
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)。
1981年:
みずほ銀行内幸町本部ビル(東京都千代田区内幸町) - 竣工時は第一勧業銀行本店。
1982年:
金沢市文化ホール(石川県金沢市)。
1990年:
東京芸術劇場(東京都豊島区西池袋)。
更埴文化会館(長野県千曲市) - 通称あんずホール。
1991年:
岡山シンフォニーホール(岡山県岡山市)。

受賞・栄典
1960年: 日本建築学会賞。
1968年: 芸術選奨文部大臣賞。
1970年: イタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ章。
1979年: 毎日出版文化賞。
1984年: 日本芸術院賞。
1985年: フィンランド獅子勲章コマンダー章。
1989年: 勲二等瑞宝章。
1990年: 日本建築学会賞大賞。
1991年: 文化功労者。
1998年: 文化勲章。

著作
1962年: 『外部空間の構成 建築から都市へ』(彰国社)。
1975年: 『外部空間の設計』(彰国社)。
1979年: 『建築空間の魅力 私の体験』(彰国社)。
1979年: 『街並みの美学』(岩波書店)。
1983年: 『続 街並みの美学』(岩波書店)。
1984年: 『屋根裏のミニ書斎』(丸善)。
1986年: 『隠れた秩序』(中央公論社)。
1994年: 『東京の美学 混沌と秩序』(岩波新書)。
1995年: 『秩序への模索 これからの都市・建築へ向って』(丸善)。
1998年: 『建築家の履歴書』(岩波書店)。

家族・親族
舞踊家の芦原英了は四兄。
母方の叔父が画家の藤田嗣治。
小山内薫は母の従弟。
小説家の岡田八千代は母の従妹。
長男の芦原太郎、甥の芦原信孝も建築家。

2.天野太郎

略歴
1945年
早稲田大学理工学部建築学科卒業。
1945年~1956年
鹿島建設設計部。
1949年~1951年
遠藤新建築創作所(自由学園最高学部などを担当)。
1952年~1953年
F.L.ライトファウンデイションの奨学金を得て、F.L.ライト事務所タリアセンで研修。
1953年
米国視察の後、帰国。
1955年~1962年
工学院大学建築学科助教授。
1959年
有限会社 天野太郎研究室開設。
1961年
トルコ・アンカラ中近東工科大学建築学科客員教授。
文部省海外研究員として欧州建築事業視察の後、帰国。
1962年~1964年
東京芸術大学美術学部建築学科助教授。
1964年
東京芸術大学美術学部建築学科教授。
1965年
日本建築学生会議主催コンペ審査員。
1967年
天野太郎研究室から天野・吉原設計事務所に改称。
1983年 東京芸術大学美術学部建築学科名誉教授。
1990年
従四位勲三等瑞宝章。
11月15日、心不全のため逝去(72歳)。

作品
1950年 河井博邸(東京・駒込、現存せず)。
1951年
中田・天野邸(東京・椎名町、現存せず)。
田園調布の家計画(三浦朱門・曽野綾子邸、東京・田園調布)。
1953年 上村邸(東京・上馬、現存せず)。
1955年
児島洋紙(福岡・博多、現存)。
音羽の家(石川六郎邸、東京・目白ヶ丘、現存せず)。
1956年 堤ビルディング(東京・新橋、現存)。
1957年 大岡昇平邸書斎(神奈川・大磯)。
1958年
福田恞存邸増改築(神奈川・大磯)。
河井病院(東京・西落合、現存)。
1959年
新花屋敷ゴルフクラブハウス(兵庫・宝塚、現存せず)。
日本オルガノ商会本館(東京・本郷、現存)。
品川バプテスト教会(東京・品川、現存)。
1960年 ぶらんしぇビル(東京・西新宿、現存せず)。
1961年
武蔵嵐山カントリークラブ
松原の家(黒澤明邸、東京・松原、現存せず)。
1962年
親子の家(東京・松原、現存せず)。
成城の家(山本勉邸、東京・成城、現存)。
1963年
館山国民休暇村(千葉・館山市、現存せず)。
新興製靴株式会社社屋(東京・浅草、現存)。
東京芸術大学音楽練習教室(東京・上野)。
1964年
東京芸術大学図書館(東京・上野、現存 DOCOMOMO JAPAN145選)。
小堀鐸二邸(京都北区、現存)。
1965年 川口章邸(東京・杉並、現存)。
1966年 研究学園都市開発事務所(茨城・筑波、現存せず)。
1967年
白川邸(神奈川・藤ヶ丘、現存)。
新保邸(東京・保谷、現存)。
1968年
東京芸術大学絵画棟(東京・上野、現存 DOCOMOMO JAPAN145選)。
永野邸(東京・北沢、現存)。
北島商店ショールーム(北海道・札幌南郷、現存)。
1970年
旭川神楽岡ニュータウン基本計画(北海道・旭川、現存)。
ホテル長野国際会館(長野・長野、一部現存)。
1971年
東京芸術大学彫刻棟(東京・上野、現存 DOCOMOMO JAPAN145選)。
愛知県立芸術大学全体計画
中目黒ハウス(東京・目黒区、現存)。
冠政子邸(東京・乃木坂、現存せず)。
内田邸(東京・国分寺、現存)。
1973年
旭川文化会館基本設計(北海道・旭川、現存)。
東京芸術大学中央棟(東京・上野、現存)。
深沢邸(神奈川・藤が丘、現存)。
東京顕微鏡院(東京・九段南、現存)。
1974年 増田邸(東京・三鷹、現存せず)。
1975年 代々木公園ハウス(東京・渋谷区、現存)。
1976年 若林本社ビル(東京・一番町、現存)。
1977年 ホテル長野国際会館(長野・長野、現存)。
1978年 和気邸(神奈川・横浜市、現存)。

文献
1954年 『フランク・ロイド・ライト』
1956年 雑誌『新建築6』「音羽の家」(新建築社)。
1957年 『造形に関する試論並びにひとつのPROJECT』
1958年 雑誌『新建築1』「建築について」
1961年 『L'Architecture d'Aujourd'hui 61 11』
     雑誌『新建築6』「M邸」(天野太郎研究室、新建築社)。
1962年 雑誌『新建築4』「武蔵嵐山カントリークラブ」
1963年 『THIS IS JAPAN NO.11』武蔵嵐山カントリークラブ。
1965年 雑誌『新建築11』「東京芸術大学附属図書館・収蔵庫」
1967年 雑誌『建築7』「十軒の家」
    『フランク・ロイド・ライト1』
1968年 『空間の流れを追って』

3.大林芳郎

略歴
1918年 誕生。
1941年 東京帝国大学工学部建築学科卒業、大林組に入社。
1942年 徴兵。
1943年 第2代社長の大林義雄(母方叔父)の急死に伴い、
    第3代社長に就任。
以後45年余りにわたって社長職を務める。
1958年 大阪建設業協会会長に就任(〜1962年)。
1960年 全国建設業協会(全建)会長に就任。
1961年 海外建設協会副会長。
1987年 会長職を兼任。
1988年 4代目社長に津室隆夫を据え、会長職に専任。
1989年 社長職を退く。
1993年 仙台市が発注した公共工事を巡り市長に賄賂を贈ったことが発覚。
    彼を含む当時の役員10名を被告として、
    損害賠償を求める株主代表訴訟を起こされ(1999年に和解)。
1998年 大林都市研究振興財団を設立。
2003年 大阪商工会議所(大商)の都市再生委員会副委員長に就任。
    高齢を理由として二男の剛郎に会長職を譲り、名誉会長に就任。
    腎不全で死去(85歳)。

家族
母方祖父 大林組創業者、大林芳五郎。
父  大林賢四郎(1885年生、旧姓藤泉): 福島県出身
   東京帝国大学工科大学卒業後、大林組副社長を務めた。
   賢四郎の祖父・藤泉日向守国賢は、1868年に三春町で砲術試験を
   見学中に口論相手に殺された。
養父 大林義雄(1894年生): 祖父芳五郞の長男で母の弟。
   大林組社長(第2代)。
二男 大林剛郎: 大林組取締役(現・会長)。
義弟 鴻池組第3代社長・鴻池藤一。

4.片山光生

略歴
1918年9月27日 誕生。
1943年 京都帝国大学工学部卒業。
    国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(旧国立競技場)の建設に携わる。
1973年 建設省退職後、株式会社内藤建築事務所に勤務。
1983年 株式会社グリーン・アーキ研究所を設立。
1985年 8月16日、死去。

主な業績
国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(旧国立競技場)
奈良県庁舎(奈良県庁)
奈良県立美術館 
奈良県文化会館 
関西労災病院 
大阪労災病院 

5.清家清

略歴
1918年 12月13日、京都府京都市に生まれる。
1941年 東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。
1943年 東京工業大学卒業。
    海軍技術見習尉官・中尉・大尉、海軍兵学校教官として活動。
    正七位に叙される。
1945年 東京工業大学助手・講師・助教授として勤務。
1962年 東京工業大学より工学博士の学位を授受。教授に昇進。
1977年 東京芸術大学教授併任。
1979年 東京工業大学を停年退官。
1981年 日本建築学会会長。
1983年 紫綬褒章受章。
1989年 東京建築士会会長。
    勲二等瑞宝章受章。
1991年 日本建築学会賞大賞受賞。
    デザイン功労者に選ばれる。
1997年 札幌市立高等専門学校校長として活動。
    「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同者として名を連ねる。
2005年 4月8日、死去。

主な建築作品
1951年 森博士の家(東京都文京区) - 登録有形文化財。
1952年 竹田教授の家(東京都文京区)
    奥田博士の家(神奈川県川崎市)
    斉藤助教授の家(東京都大田区) - ✕現存せず。
1953年 コの字型平面の家(東京都渋谷区)
    宮城教授の家(東京都大田区) - ✕現存せず。 
1954年 私の家(東京都大田区) - 登録有形文化財。
    数学者の家(東京都目黒区)。
1955年 坪井教授の家(東京都世田谷区)。
1956年 崖の家(兵庫県芦屋市)。
1959年 台地の家(千葉県船橋市)。
1960年 九州工業大学記念講堂(福岡県北九州市)
1961年 ‘61東京国際見本市鉄鋼特設館(東京都) - ✕現存せず。
    西田博士の家(東京都大田区) - ✕現存せず。
1962年 埼玉農林会館(埼玉県さいたま市)
    小原流家元会館(兵庫県神戸市)
    島沢先生の家(東京都品川区)。
1964年 東京オリンピック選手村メインゲート(東京都) - ✕現存せず。
    久が原の家(東京都大田区)。
1966年 乃村工藝社東京社屋(東京都港区) - ✕現存せず。
1967年 林教授の家(東京都中野区)
    九州坂の家(兵庫県神戸市)
    東京工業大学事務局1号館(東京都大田区)
    東京工業大学南5号館(東京都大田区)。
1970年 日本万博・国連館・スイス館・アメリカ館ディスプレイ・虹の塔
    豊雲記念館(兵庫県神戸市)
    続私の家(東京都大田区)
    東が丘の家(東京都目黒区)
    代々木の家(東京都渋谷区)
    続久が原の家(東京都大田区)。
1971年 駒込の家(東京都文京区)
    在フィリピン日本大使館公邸(マニラ)。
1974年 保土ヶ谷の家(神奈川県横浜市)。
1977年 伊豆・三津シーパラダイス(静岡県沼津市)。
1982年 軽井沢プリンスホテル新館(長野県軽井沢町)
1983年 野尻湖プリンスホテル(長野県信濃町)。
1984年 水上高原プリンスホテル(群馬県みなかみ町)。
1988年 新富良野プリンスホテル(北海道富良野市)
    在シンガポール日本大使館公邸(シンガポール)。
1989年 倅の家(東京都大田区)。
1993年 横浜・八景島シーパラダイス(神奈川県横浜市)。
1994年 鎌倉プリンスホテル(神奈川県鎌倉市)。
1995年 札幌市立高等専門学校(北海道札幌市)。
1999年 パラオ国サンゴ礁保全研究センター(コロール)。

主な著書
1957年 『ぱるてのん』(相模書房)。
1962年 『建築と生活』(共著、學生社)。
1968年 『住宅・インテリア・園芸―新家庭百科辞典』
1969年 『家相の科学―建築学が発見したその真実』(光文社)。
    『マイホーム設計術』(実業之日本社)。
1977年 『新しい住居の科学』(共著、同文書院)。
    『The Art of Japanese Joinery』
1982年 『住居論―よりよい住まいを考える』(旺文社)。
1984年 『やすらぎの住居学―老後に備える100のヒント』
1989年 『現代の家相』(新潮社)。
    『ほんもの居住学』(情報センター出版局)。
1997年 『「私の家」白書―戦後小住宅の半世紀』(住まいの図書館出版局)。
2004年 『CONTEMPORARY JAPANESE HOUSES』(講談社インターナショナル)。

6.樋口 清

経歴
1941年: 東京工業大学建築学科卒業
1943年: 東京帝国大学文学部仏文学科卒業
1947年~1957年: 鹿島建設建築設計部に勤務
1957年: 工学院大学建築学科講師
1962年: 東京大学教養学部教授(フランス語)
1978年: 東京大学定年退官、東京理科大学二部工学部教授
2018年: 老衰による呼吸器不全で99歳で死去

設計作品
1963年: 国民休暇村協会の乗鞍綱張
1967年: 韮山の山荘

著作
1954年: 『フランク・ロイド・ライト』 (共編: 天野太郎、生田勉) - 彰国社
1997年: 『ライト、アールトへの旅』
2014年: 『近代建築は何を創ったか 生活の場の芸術としての建築』

翻訳
1947年: 『バルザック人間叢書 第7 金色の眼の娘 フエラギユス』
1957年: ル・コルビュジェ『伽藍が白かったとき』
1961年: ギーディオン『現代建築の発展』
1967年: ル・コルビュジェ『ユルバニスム』
1971年: L.マンフォード『機械の神話 技術と人類の発達』
1975年: L.マンフォード『解釈と予測 2 アンソロジー 1922-1972』
1978年: デイビッド・パス『ベリングビーとファシュタ スウェーデンの新都市開発』
1982年: スチュアート・レーデ『アスプルンドの建築 北欧近代建築の黎明』
1985年: オットー・ヴァーグナー『近代建築 学生に与える建築手引き』
1988年: フランク・ロイド・ライト『自伝 ある芸術の形成』
2000年: フランク・ロイド・ライト『自伝 ある芸術の展開』
2003年: ル・コルビュジェ『建築へ』
2010年: フランク・ロイド・ライト『テスタメント』

1919年

1.境沢 孝

略歴
1919年: 長崎県佐世保市に生まれる
1943年: 日本大学工学部建築学科卒業
1950年: 個人アトリエを開設
2001年5月: 死去

主な作品
1957年: ジロー(カフェ/東京都千代田区)
1960年: マロニエ(カフェ/東京都千代田区)
1963年: レモン画翠(画材店・カフェ/東京都千代田区)
1964年: ナック(レストラン・カフェ/東京都渋谷区)
1964年: ナカタニ(レストラン/東京都渋谷区)
1965年: あすなろ(カフェ/群馬県高崎市)
1965年: ジャルダン(カフェ/東京都新宿区)
1965年: 畔居(日本料理店/東京都中央区)
1967年: キャラバン(レストラン・カフェ/東京都世田谷区)
1968年: ナレッジ(カフェ/東京都八王子市)
1969年: ビバップ(ジャズカフェ・バー/東京都武蔵野市)
1969年: バルコンソワ(レストラン・カフェ/東京都世田谷区)
1969年: シャポー(カフェ/神奈川県平塚市)
1970年: ともまつ(カフェ/東京都八王子市)*家具デザイン:岡山伸也
1970年: レモン(カフェ/東京都千代田区)
1970年: ピノチオ(カフェ/東京都千代田区)
1970年: ジロー 両国店(カフェ/東京都墨田区)
1970年: 千葉邸(住宅)*フリーフォームチェアデザイン:内田繁
1971年: ブルボン(カフェ/秋田県大曲市)*照明器具デザイン:岡山伸也
1971年: ブルボンZ(レストラン・クラブ/秋田県秋田市)
1971年: チーズハウス(住宅)
1971年: ソワ2(レストラン・カフェ/神奈川県川崎市)
1972年: 畔居 別館(日本料理店/東京都中央区)
1972年: アウトバック(ジャズバー・カフェ/東京都武蔵野市)
1972年: ドルチェ(クラブ/群馬県高崎市)*横山尚人との共作
1973年: まり(カフェ/東京都世田谷区)
1973年: ジョエブルボン(レストラン/秋田県秋田市)
1973年: サクソン(カレー店/東京都港区)
1974年: カヌー(カフェ)
1974年: 高崎の家(住宅)
1976年: ボンネタプ(カフェ/東京都渋谷区)
1976年: オイスターハウス(住宅/東京都西東京市)
1977年: ジロー 札幌日劇店(ピザ店/北海道札幌市)
1977年: ザ・カーニバル(レストラン/東京都新宿区)
1977年: スリットシリーズ(テーブルウェア)
1978年: 洋麺屋 五右衛門(スパゲッティー店/東京都渋谷区)
1978年: 洋麺屋 五右衛門 池袋東口店(スパゲッティー店/東京都豊島区)
1979年: ボルツ(カフェ&カレー店/千葉県習志野市)
1980年: モーツアルト 善福寺店(カフェ/東京都練馬区)
1980年: レモン(カフェ/東京都千代田区)
1980年: シャドーハウス(住宅/東京都世田谷区)
1981年: ビッグアップル(ディスコ/東京都渋谷区)
1981年: カフェテラス東洋(カフェ/東京都中央区)
1981年: モーツアルト 日比谷店(カフェ/東京都千代田区)
1982年: レストラン東洋(レストラン/東京都中央区)
1982年: アメリカンパイクラブ(カフェ・パイ店/神奈川県横浜市)
1983年: 洋麺屋 五右衛門 横浜店(スパゲッティー店/神奈川県横浜市)
1983年: アップルキッス(カフェ&バー/東京都渋谷区)
1986年: シェ・トミー(フランス料理店/東京都中央区)
1989年: 花うさぎと兎夢庵(ドライブインレストラン/神奈川県川崎市)
1991年: ギャラリー・オレフォス・コスタボダ(ガラス器店/東京都港区)
1992年: 畔居(日本料理店/東京都中央区)

主な展覧会
1972年: VASE/断層(ギャラリーフジエ・東京都)
1975年: NEGATION of Form
1980年: ポエフォルム展 第1回(東京都)
1981年: ポエフォルム展 第2回(東京都)
1982年: ポエフォルム展 第3回(東京都)
1986年: ポエフォルム展 第4回(東京都)
1988年: NAOTO YOKOYAMA + TAKASHI SAKAIZAWA
1988年: KAGU Tokyo Designer's Week

2.富家 宏泰

略歴
1919年7月: 香川県に生まれる。
     幼少期に一家とともに中国大陸に移住する
     チフスの流行により家族は全滅。引き揚げ後、京都下鴨で育つ。
1938年: 第三高等学校卒業
1943年: 京都帝国大学(現・京都大学)工学部建築学科に入学。
    終戦後に復学し、卒業
1948年: 京都大学大学院修了
1948年: 棚橋諒研究室の講師に就任
1952年10月: 「富家建築事務所」を設立

主な作品
1958年: 能楽堂 京都観世会館
1958年: 比叡山国際観光ホテル(共同設計:圓堂政嘉)
1958年: 京都府立医科大学体育館(旧立命館大学広小路校地体育館)
1959年: 彌榮自動車(株) 本社社屋
1959年: 日本赤十字社京都府支部 京都第二赤十字病院東病棟
1959年: (株)京都新聞社 本社
1961年: 京都府立総合資料館(閉館)
1962年: 学校法人同志社(同志社大学)新町キャンパス
1962年: 学校法人同志社 記念会館(学館ホール)(現存せず)
1962年: 京都府歯科医師会館(現在は京都市北区総合庁舎西庁舎)
1963年: 京都商工会議所ビル(現存せず)
1963年: 京都市体育館
1965年: 学校法人立命館(立命館大学)以学館
1965年: 学校法人立命館(立命館大学)六号館(現・恒心館)
1966年: 学校法人立命館(立命館大学)一号館(現・啓明館)
1966年: 学校法人立命館(立命館大学)修学館
1966年: 石川県教育会館(石川県立図書館・社会教育センター)
1967年: (株)ワコール 旧本社ビル(現存せず)
1967年: カトリック河原町教会(基本設計指導:Karl Freuler司祭)
1969年: 京都府立文化芸術会館
1970年: 学校法人立命館(立命館大学)学而館
1974年: 京都府警察本部別館
1974年: 学校法人立命館(立命館大学)志学館
1976年: 学校法人立命館(立命館大学)諒友館
1976年: 北村美術館
1978年: 京都市立芸術大学
1978年: 学校法人立命館(立命館大学)学生会館
1978年: 裏千家センター
1980年: からすま京都ホテル
1981年: 京都市中京総合庁舎
1982年: 京都市歴史資料館
1983年: 学校法人立命館(立命館大学)末川記念会館

その他の主な作品
1966年: 加賀観光ホテル(石川県)
1966年: 石川県立図書館(石川県)
1981年: 石川県輪島漆芸美術館(石川県)
1982年: 三重県立美術館(第14回 中部建築賞入賞)
1975年: 近畿大学医学部附属病院(大阪府)
1981年: 芦屋市谷崎潤一郎記念館(兵庫県)
1984年: 千葉マリンスタジアム(千葉県)
1992年: 青葉の森公園芸術文化ホール(千葉県)

評価と回顧展
1973年: 雑誌「建築評論」の特集記事「昭和48年春建築界作家番付表」で西前頭に選出
2019年9月7日 - 30日: 京都市左京区の府立京都学・歴彩館・京都学ラウンジにて「建築家・富家宏泰 生誕100年記念回顧展『戦後京都を設計した男』」開催
2021年9月2日 - 6日: 石川県立美術館・広坂別館にて「『石川県美を設計した男』〜富家宏泰 没後15年記念回顧展」開催

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