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1860年〜1864年生まれ 建築家 12名



1.中村達太郎(1860年 - 1942年) 江戸尾張藩

1882年 工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに建築を学び、卒業後は工部省営繕局へ技手として入局する
1883年 皇居造営事務局専務心得になる
1887年 帝国大学工科大学に就任
1894年 教授に就く
1892年 建築法規の研究のため欧米へ留学する
1894年 震災予防調査委員会委員に就任
1897年 インドのアッサム地方震災の調査に向かう
1905年 サンフランシスコへ審査調査に向かう
1907年 台湾総督府庁舎設計図案懸賞審査委員
1915年 建築学会の建築条例実行委員長に就任
1918年 臨時議院建築局の顧問
1921年 東京帝国大学を退官し名誉教授になる
     教え子の田辺淳吉と中村田辺建築事務所を開設する
     大蔵省営繕管財局顧問もつとめた
1942年 逝去

2.河村伊蔵(1860年 - 1940年)尾張国知多郡内海村(現・愛知県南知多町)

1860年 現在の愛知県の南知多町に生まれる
1883年 内海正教会で洗礼を受ける
     神田駿河台の正教会の詠隊学校で学ぶ
     副輔祭として聖堂の庶務に就く
1915年 輔祭に叙聖
     教団の不動産・財産の管理を担当する
1933年 長輔祭に叙聖
1937年 司祭に叙聖
1940年 永眠

3.江川三郎八(1860年 - 1939年)福島県会津若松

会津藩士江川宗之進廣伴の三男
1887年 福島県の建築技師となる
     橋梁工事を担当する
1887年 山口半六に指導を受ける
1898年 妻木頼黄の指導を受ける
1901年 久留正道から学校建築の指導を受ける
1902年 岡山県に転任

4.村上萬助(1861年 - 1934年)伊予国(現愛媛県)

1887年 図工兼場所付雇として宮内省内匠寮にはいる
1893年 内匠寮技手となる
1896年 新宿御苑洋館御休所
1898年 東宮御所御造営局技手を兼任
1899年 同局技手となる
1907年 内匠寮技手
1914年 宮内技手となる
1916年 退官した
1934年 逝去

5.滝大吉(1862年 - 1902年)大分県速見郡日出町

1861年 豊後国速見郡日出城下に生まれる
1883年 工部大学校造家学科を卒業
     警視庁御用掛となる
1884年 太政官会計局勤務となる
     ジョサイア・コンドルの助手となる
1886年 河合浩蔵らと造家学会を設立
     造家学会第1回規則を河合浩蔵と共に創定
     創立発起人になる
     臨時建築局二等技手となる
     官庁集中計画に携わる
1887年 大阪の帝国工業会社に入る
     建築部長となる
1888年 神戸に明治工業会社を設立する
     建築部長となる
1889年 大阪で土木建築工事鑑定所を開設する
     (日本人建築家による3番目の設計事務所)
     斎藤賢治と工業夜学校を開く
1890年 明治工業会社相談役となる
1891年 陸軍省に入る
     陸軍技師となる
     陸軍建築法改訂に従事する
1893年 東京砲兵工廠御用掛勤務となる
1894年 朝鮮国や清国に派遣される
1895年 臨時陸軍検疫事務官兼検疫部建築課長となる
     清国威海衛に出張し臨時兵舎、病舎などを築造する
     臨時建築部主任技師となる
     陸軍の6師団増設に伴う日本全国の兵営工事を監督する
1897年 英·仏·蘭所領植民地の視察調査
1899年 台湾·北京·天津などの兵営築造を行った
1902年 卒去

6.仰木魯堂(1863年 - 1941年)福岡県遠賀郡長津村(福岡県中間市東中間)


1863年 福岡県遠賀郡長津村に仰木久太郎、カ子の長男として生まれる
1900年 16歳差の弟政吉と上京しする
     指物職人の許に住み込む
1906年 京橋区南鞘町に家を構え、鈴木甚三、藤井茂吉と建築事業を立ち上げる
1907年 楓川沿岸の竹河岸に仰木建築事務所を設立
1920年 原宿の團邸近く千駄ヶ谷に転居
     同人の美術品の蒐集に関わる
1941年 葉山町森戸神社の草庵にて胃癌のため死去

7.葛西萬司(1863年 - 1942年)岩手県盛岡市

1863年 南部藩家老、鴨澤舍の次男として現在の盛岡市に生まれる。のち、南部藩士葛西重雄の養子となる
1890年 帝国大学工科大学造家学科を卒業(同期に横河民輔、宗兵蔵)、日本銀行技師となる
1903年 辰野金吾と東京で辰野葛西設計事務所を開設する
1915年 工学博士となる
1919年 辰野金吾没後、単独で建築設計事務所(葛西設計事務所)を経営する
1927年 田中實と共同経営となり、葛西田中建築事務所と改称する
1937年 単独経営となり、葛西建築事務所と改称する
1942年 逝去

8.高橋巌太郎(1863年 - 1938年)山形県鶴岡市泉町

1863年 明治初期の大工・建築家
山形県鶴岡市泉町に住む善宝寺お抱え棟梁・山本佐兵エの長男として生まれる
1874年 大山新民学校を卒業
1876年 高橋兼吉に弟子入りする
     兼吉の長女・安江と結婚
     兼吉の右腕として働くようになる
1893年 内川の開運橋の設計に関与する
1894年 山形県吏として奉職
     荘内中学校、飽海郡役所を手掛ける
     大蔵省の嘱託となる
     鶴岡葉煙草取扱所の設計に従事する
1899年 内務省の造神官技手となる
     伊勢神宮の式年遷宮に従事する
     家族とともに東京に移り住む
     伊東忠太の指導を受ける
     全国の官・国幣社の造営や保存修理を行う
1907年 退官した
1913年 再び内務省に入る
     明治神宮などの設計に関与した

9.茂庄五郎(1863年 - 1913年) 長崎県

1863年 長崎生まれ
1891年 東京帝国大学造家学科選科を卒業
     尼崎紡績技師
     尼崎工場の設計監督を行う
     海軍省に入る
     呉鎮守府に着任する
1895年 大阪に茂建築事務所を開設する
     関西商工学校の創立に参加
     監事を務める
1913年 腎臓病により大阪市北区の自宅で逝去
     享年51

10.伊藤為吉(1864年 - 1943年)伊勢国松坂(現三重県松阪市)

1864年 伊勢国松坂近郊塩鼻村で宮大工の父弁治郎と母家寿の長男として生まれる
1882年 上京する
     同郷の尾崎行雄宅の書生となる
     工部大学校で機械工学を学ぶ
     菊池松軒の漢学塾で幸田露伴や郡司成忠兄弟らと出会う
1883年 攻玉社の学僕となり片山潜と知り合う
1884年 片山潜を渡米させる
1885年 渡米しサンフランシスコに移住
1887年 帰国
     東京で日本初のクリーニング工場「伊藤組洗染所」を始める
1888年 下谷教会付属の駒込講義所ができる
     受洗する
1889年 設計施工を行った駒込講義所の会堂が完成
     駒込講義所の会堂で飯島喜美栄との結婚式を挙げる、司祭はチャールズ・イビー宣教師
     駒込講義所が駒込教会と改められる
     伊藤建築事務所を設立する
     長女の嘉子誕生
     芝愛宕ホテル及び5階の愛宕塔を建てる
     麻布教会(現在の鳥居坂教会)の会堂を建てる
1892年 長男の晃一誕生(夭逝)
     静岡教会 2代目会堂を建てる
     牛込教会堂を建てる
1893年 次男の道郎誕生
1894年 青山英和女子学校職業部
     日比谷の裁判所
     鳥居坂の日本メソジスト教会の工事に参加
     銀座服部時計店を建てる
1895年 三男の鉄衛誕生
     山室軍平、寄宿
1896年 四男の裕司誕生
     駒込教会(西片町教会)が西片町に移転
1899年 五男の熹朔(きさく)誕生
     博品館を建てる
1902年 次女の暢子誕生
     静岡教会3代目会堂を建てる
1904年 巻煙草包装機械を発明
     六男の圀男(千田是也)誕生
1905年 三女の愛子誕生
1907年 七男の忠雄誕生(夭逝)
1908年 八男の貞亮誕生
1911年 九男の翁介誕生
1917年 コンクリート製造研究所を設ける
1926年 伊藤式コンクリート製造所を独力で始める
1930年 古銅器コレクションを携えて横浜出発
     ロサンゼルス州立博物館で古銅器展オープン
1932年 アメリカより帰国
1933年 大阪に「研究所」を設ける
     無限動力機関の発明に没頭する
1942年 妻の喜美栄、死去
1943年 大阪で没する

11.設楽貞雄(1864年 - 1943年)陸奥国安達郡本宮町(現福島県本宮市)

1864年 陸奥国安達郡本宮町に二本松藩士・設楽弥兵衛貞教の次男として生まれる
1888年 工手学校造家学科に第1期生として入学
     教務主任には片山東熊、藤本壽吉らがいた
1889年 工手学校造家学科を卒業
1891年 日本土木会社(現・大成建設)に入社
     華族女学校、東京郵便電信局の工事に参加
1892年 宮内省内匠寮に出仕
     帝室京都博物館の現場を受け持つ
1896年 桑原政工業事務所に招かれる
     山口半六の下で働く
1899年 山口半六事務所の支配人兼所長代理
1900年 山陽鉄道株式会社の建築係長
     山陽鉄道の建築を一手に取り仕切る
1907年 神戸建築事務所(設楽建築工務所)設立
1911年 大阪土地建物会社顧問となる
     新世界娯楽場計画に参画
1928年 ヨーロッパ視察旅行。
1933年 設楽建築工務所を閉鎖
1936年 日本建築協会副会長
1943年 神戸・須磨の自邸で逝去

12.横河民輔(1864年 - 1945年)播磨国加古郡東二見村(現・兵庫県明石市)

播磨国加古郡東二見村で蘭方医・横河安鼎の四男として生まれる
帝国大学工科大学造家学科で建築学を学ぶ
1889年 卒業
     同期には葛西万司、宗兵蔵らがいる
1891年 著書『地震』を刊行する
     日本橋区鉄炮町に建築設計事務所を開設
1892年 三井財閥の三井元方嘱託となる
     東京工業学校講師となる
     東京法学院改築
1893年 帝大同期である宗兵蔵設計の久松座を監督
     女子教育家の棚橋絢子の次女・下枝と結婚
1895年 月給200円の技師長格で三井元方に入社する
     三井系企業の建築物の設計を行う
1896年 部下に鈴木禎次がつく
     三井総営業本店の設計を開始
1902年 竣工
1903年 横河工務所を開設
     東京帝国大学工科大学講師となる
     建築学科で鉄骨構造の講義を担当
1906年 大阪支店開設
1907年 鉄骨橋梁部門を橋梁メーカーの横河橋梁製作所を分離独立で開設
1908年 帝国劇場設計に際し欧米諸国を視察
1911年 建築業協会理事長に就任
1915年 工学博士
     横河化学研究所
1916年 東亜鉄工所
1917年 大蔵省議院建築調査委員となる
     国会議事堂建設に関与
1918年 大蔵省臨時議院建築局常務顧問に就任
1920年 計測・制御機器メーカーの電気計器研究所を創立
1925年 社団法人日本建築学会会長を務める
1931年 名誉会長となる
1930年 建築資料協会会長
1932年 ヨコカワ・コレクション中国古陶磁591点を東京帝室博物館に寄贈
1935年 合資会社建築施工研究所を設立
1937年 満州横河橋梁設立
     倭楽研究所を設立
1938年 (株)両全社を設立
1939年 文部省国宝保存会委員に任命される
1943年 横河工務所所長を辞任
1944年 財団法人尚徳学園理事長となる
1945年 小田原の別邸で死去した
1964年第1回日本建築祭で日本建築界先覚者遺徳顕彰5氏のうちの1人に選ばれた

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