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私の幸せ、結婚と恋愛

開幕早々申し訳ないが、最近老後について真剣に考える時間が増えた。金銭面は勿論のこと今後寄り添っていく誰かのことや、健康についてだとか(健康については本当に考えているだけで今この瞬間もエナジードリンクを片手にカレーパンを豪快に食らっている)そういう総体的な老後についてを考える時間が増えた。真剣に考えていると言っても、そこに深刻さは存在しない。誰しも抱いているうっすらとした希死念慮を飼い慣らしながらも漠然と「長生きしてみてぇ」と思うのだ。死にたくない、というよりは長生きがしたい。決してマストではなく、出来るなら長生きがしたいという程度だ。だとしても真剣に考える。深刻でなくとも、恐れていた最悪が顔を覗かせていなくとも悠長にはしていられない気がするから。

長生きをするに必要不可欠なのは心と私は思う。この人の為に生きたい、夢を叶えるまで死ねないなんて壮大でロマンチックなものからこの漫画が完結するまでは!なんてお手軽なものまで、大小問わず揺らぐことを知らない生きる理由を抱くことが重要だ。しかしいくら屈強な信念を抱いて生きていたとしても運や病気の前では膝をつくしかないのが悲しかな現実で、私が日々考えている老後最大の試練も「健康」である。

少し話を脱線させて頂くと、学校で確定申告やお金の仕組みについて学ぶ時間を設けないのはおかしいのではないか(私が言葉にせずとも度々同じような意見は目にするが)世間様は私のような自主性のない面倒臭がりにも何か期待を抱いてくれたのかもしれないが、残念ながら25歳にもなって何も知らないままだ。「常識がなさ過ぎる故に知らない間に脱税してるかも…違法を犯しているかも…」と小さな不安に追われる日々。勉強すればいいだろう!という御意見はやめてほしい、ごもっともなのは承知だが私は働いてない時間くらい映画や本や友人との談笑にあてたい。いくら生きる為の能力値が低すぎると指を差されようが私は楽しくないと生きていられないんだ、心が主軸にあるんだ。

そう、何が言いたいって生きることにおいての能力値が桁違いに低すぎる。常識的な知識があるかないかを抜きにしても培われた意識が、価値観が、生きることに関して不適正すぎる。実家住み歴25年、三人兄弟の末っ子。花を咲かせるでもない世間話を祖母と交わしていた時、母と二人で旅行に行ったらどう?と提案しただけにも関わらず「私とママがふたり死んじゃったらあなた生きていけないでしょ、最悪人殺すでしょ。気が掛かりで旅行なんて行けません」と愛はこもっているもののそれ以上に冷たい言葉を吐かれ、その場の空気を凍らせる程には生活能力が低い。確かに母が、祖母がいない世界の私はうっかりから火事をおこしアパートの住民と無理心中をしたり、一ヶ月連続三食カップラーメンとエナドリを続けた結果変な雑貨と本が散らばった部屋で野垂れ死んでいたり、何も知らないせいで無意識下で犯罪に手を染めていて何も知らないまま檻の中にぶち込まれていたり、鍵を閉め忘れて出掛けている間に泥棒に入られてなんやかんやあり臓器を売る羽目になったりする可能性が高い。可能性がある、ではなく高い。

私生活だけでなく、仕事に関してもケアレスミスが人の数倍は多い。現状周囲に恵まれているおかげもあり「あは〜(笑)やっちゃいました(笑)」で済ませられているが、そんなノリと勢いと愛嬌だけで目を瞑っていられるのも精々残り数年だ。あ〜いま思い出したんだけど、せっかく昨日の夜に作ったお弁当冷蔵庫に忘れたんだけど(笑)マジか(笑)こんなの書いてる場合じゃないんだけど(笑)こんな知識もなけりゃそ〜んなおっちょこちょい(と呼んでいいのかも定かだ)で独りで生きていけんの〜?全然無理である。そんなの私自身でもわかる(たった今ビタミンゼリーとプロテインバーを購入してきました)もう人生自体を諦めるしかないのだろうか、無自覚に小さな犯罪を犯して囚人服に袖を通すくらいなら派手に犯罪者した方がマシなのではないか。どうせ死ぬなら、どうせ不適合のままなら…

そんなニヒリズム的人生観を掲げて生きる程に悲観的でも、諦めがよくもない。

私は私のことが大嫌いではあるがそれとは別に私は私のことがとても大切である、自己愛≠自己肯定。私は私を幸せにしてあげたいわけだ、痛いのもつらいのも好みではないから。となると、他者のサポートが必要不可欠になってくる。母に「人として最低、人間失格よ」と幾度無く諭されてきた私であるが、我ながら今回も人間性を疑うような道徳心も自立心も欠片もない解決案である。いやしかし、いやしかし…別に全ておんぶにだっこをしよう等とは思っちゃいない。流石にそこまで人間性腐っちゃいないし、おんぶにだっこが成立する程の価値を自身に見出だせない。私が求めているサポートとは「すいちゃんアイロンの電源切った〜?」「明日は古紙古布の日だけどダンボールありそう?」「すいちゃんそれ脱税行為だよ」「すいちゃん明日一緒に選挙行こうよ」「今日はお酒じゃなくてチャイ飲もうか」「すいちゃん洗い物忘れてるよ!」等の優しい声掛けである。この先何十年、全てを忘れて全てを面倒臭がる私をサポートしてくれるようなそんな仏のような人間がいるのか?いやいない、いないわけもない…のか?諦めてたまるか、私は長生きがしたい。あぁ、でも私はもう25歳なのにこんな…と自己嫌悪とそれでも捨てられない嘱望の間を反復横跳びを繰り返す日々。

そんなある日、ある日突然の夕食時。母が「○○ちゃん(兄)のお友達がすいちゃんのこと紹介してほしいんだって。どう?」と言ったのだ。まさに青天の霹靂、足下から鳥が立つだ。「…えっ漫画?」と声に出してしまった。身内から友人を紹介されるなんて展開ベタな少女漫画か、身勝手な理由から我が家を一家惨殺をしようと企てる殺人犯が計画の一つとして…みたいなシーンでしかみたことがない。愛か死の二択でしか知らない。私の思考は誇張表現なしに五秒は停止した。そしてこれはどうでもいい話だが、私は合同コンパやハプニングバー、やましい感情が互いに一切発生したことがない幼馴染(これに関しては私怨からくる立派な偏見である)も全てフィクションであると思っている。…しかし存在するらしい、ただの私の偏見だったらしい。25歳にしてまた一つ経験を積んだわけだ、世の中何があるかわからない。

浮かれるな!と思っている方に向け、何より私と兄の御友人の為にも一つ釈明させてほしいのが兄の御友人は私の年齢くらいしか知らず「え〜お前妹いるんでしょ?最近別れちゃったから紹介してよ、頼むよ」のノリであってそこに好意は存在しない。“私”を紹介してほしいのではなく、あくまで“友人の妹”を紹介してほしいだけであって御友人自身も酒を飲んでカレーと芋と変な映画の話しかしない奇抜な服の女を紹介されると思っちゃいない。それだけは念頭において話を聞いてほしい。さて血の繋がった兄の紹介、兄と友人らの信頼関係や今後の労働環境にも影響する。好奇心だけで首を突っ込んでいい事案ではない。まず好きな男(最近は心の中でキューティーちゃんと呼んでいる)がいるくせして「え〜wあってみるだけならw」と鼻の下を伸ばすのはボケ畜生の所業である。蝶よりも花よりも丁重に扱え…!と心の中の乙骨憂太も私を睨みつけている。しかしまあ聞くだけならタダなので一応話を聞いてみる。

そうして母が兄とのLINEを経由して御友人のプロフィールを読み上げ、私がうんうん唸る謎の空間が完成した。

「すいちゃんあんまり身長高くない人好きでしょう?そんな高くないって」
「あ〜うん、いやまあ別に二択で言えばなだけでそんな重要視しないよ」
「えっとね、あ〜でも顔が濃いめだって。すいちゃん薄いお顔好きじゃなかった?」
「う〜〜〜ん、好みの話であって中身ありきだから別に顔は………」
「趣味とか聞こうか?」
「一緒でも一緒じゃなくてもいいからな…」

我ながら「らしくないな…」と苦笑いを浮かべてしまう程には曖昧な返答しか出来なかった、情けない。仲介人ありき、しかも身内となると軽率な心は捨て可能性の有無は自分の中で明確に、かつお相手に失礼のないようにが重要になってくる。仲介人がいようがいまいが重要なことではあるが、当人同士で済む話ではないとなると慎重にもなる。可能性の有無をまず明確にすべきなのだが(キューティーちゃんがいるので無だが)驚くべき事に《好み》はあれど《許容ライン》や《絶対条件》が自分の中であまりに曖昧であることに驚いた。そりゃ好みを語らせりゃ右に出るもんなんてこの世にいませんよ、一夜や二夜では足らんもんでね。岳くん(濱田岳さん)か倫也(中村倫也さん)似の身長があまり高くなくって、かつ口が大きい。眉もしっかりしているとなんか嬉しい。料理上手で物腰が柔らかくってユーモアに溢れたB型 or O型怒るのではなくって叱ってくれる余裕があり、音楽経験があると尚よし………えとせとらえとせとら。しかしそれはあくまで好みの話であって別に絶対条件ではないし、口が小さかろうがA型だろうが好きになったら好きだ。

正直この時点で死ぬほど面倒になってきており、キューティーちゃん(読み:好きな男)にアポ無し電話をし「実践するかは別として理想のディズニー散歩コース決めない?」と無茶振りをかまし最終的に「まっ!アンタとだったらどんなコースだって愛おしいんだけどね!」と口説きたくなっていたが私は瞬間的に老後のことを考えてしまった。

そう、最近の私は老後について真剣に考える時間が以前に増して多い。

この年齢になるとお付き合い=結婚前提みたいな、何もおもしろみのない方程式が私の中でも常識として組み込まれていく。確かに恋愛的に好きな方はいる。今だって愛おしくって声が聞きたいな。会いたいな、出来ることならその手に触れられたら嬉しいなと思う。しかしその方と結婚となると話は別になってくる。彼に問題があるのではなく、彼を幸せに出来る自信がない私側に問題がある。責任が、覚悟が必要だ。責任を負っても問題ないほどの生活能力も、嫌われても死ぬまで添い遂げる覚悟もない。彼がとても大好きなので幸せになってほしいと心から思う、そう思うからこそ私は相応しくないのだろうなと思う。それでも君がいいよ、と言ってもらえるような魅力的な女であればよかった。そうすれば迷わずにその手を取って「結婚したいくらいに好きなんです」と言えた。でも私が私のままである以上言えない、きっとうっすら好きで気を負わない相手とパートナーとして暮らしていくしか「結婚と恋愛は別だからね」なんてつまらない価値観に寄り添って、可愛くない自分を可愛がったまま生きていくのしかないのかもしれない。これだから「人として最低、人間失格よ」と実の母に言われるのだろう。祖母に旅行も行かせてやれないのだろう。私はとても悲しい気持ちになった。

悲しくなった私は母に「あ〜うん。ちゃんと考えて私から連絡するね」とだけ言って、階段を駆け上がり泣いた。好きな人に好きとも伝えられない、好きな人の為に変わる努力が出来る体力も気力もない。まず努力の才能がないとわかってしまう程には大人になってしまった。そのくせ言い訳ばかり、幸せな未来を夢みることをやめられない程には子供のまま。悲しみを酒で流し込み、目を瞑る。私は好きな男のことがとても大好きなままだった。


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