自ら命を絶つ人と、その周りの人について。

軽い自殺未遂を何回かしたことがある。
迫る未来に耐えられずにいたときだ。今もその気持ちがないわけではないが。

先に記したのは、死にたい期2ndシーズンのことである。

死にたい期1stシーズンの私の自殺願望は、どうしようもなくなって、逃げようと自殺未遂をした、死にたい期2ndシーズンの自殺願望とはちょっと違っていた。

私の死にたい期1stシーズン、
それは自爆テロに近いものであったと言える。

形はどうであれ、今後につながることを信じての、私がいなくなった世界の未来に、希望を託しての自殺。それが、死にたい期1stシーズンで描いていた私の自殺像だった。

詳細は伏せるが、死にたい期1stシーズンの私は、高校生の私である。属していた部活で、かなり虐げられているポジションにあった。
いわゆる「ブラック部活」であったわけだが、「ワタシが死ねば、ニュースに取り上げられ、この部活が問題視されるに違いない。」、そんな歪んだ使命感に駆られてしまうほどに、当時の私は思い詰め、狂っていた。

自殺によって、ひとりの人間の死によって、周りが変わるはずだと信じていた。信じ切っていた、無垢な時代である。


しかしながら、今朝、ふと考えた。
同居する自身の親が起きてこない時、私はいつも「死んだのか」、「自殺でもしたか?」とまず考える。
大抵、死んでいない。そのうち起きてくるのだが。

私はハッとした。
仮に、もし、本当に、親が自殺していたとして、問い詰められ、まず責められるのは同居する家族だろう。

そう思うと、私はすかさず、

「知ったことか」
「死んだ理由は死んだ本人にしかわからない」

と、言い訳めいたものを頭に思い浮かべたのだ。

あちゃー。

私は悟った。

周りは変わらない。
他人を変えることはできないのだ、と。

あのとき、死にたい期1stシーズンに私が死んでも、きっと何も変わらなかったのだろう。

あの忌々しき部活は継続困難に陥らせることができたとしても、活動できなくなった部員、その部活のOBOGたちには、死んでもなお、恨まれ続けるのだろう、そう感じた。

影響を与えたい対象には響かず、
予期せぬところに深い傷を負わせる。
それが、私のやろうとしていた自殺だ。

案外、難しいものだ。

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