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「うまくやる」ことと、運と努力:猪狩くんのエッセイから考えたこと

将来の夢「自分が愛せる自分であり続ける」がカッコいいのに他がもう意味わからんプロフィール…クセ強い…
猪狩さんの言葉づかいや考え方の奥行き、みたいなところは、作詞を担当したオリジナル曲やふだんのYouTube動画とかからも感じてはいたけど、
初めて彼が書いた長文を読んだのが、2022年4月1日に投稿されたweb(ブログ) 記事

それが刺さってしまって、次に読んだのが anan の書き下ろしエッセイ

この2つの文章を読んで私が感じたこと、考えたこと✍️
(いずれインターネット上で見られなくなる文章を引用するのはグレーな感じがしたので、それもあって私の感じたことベースで…)(最初は感想を書こうと思ってたんだけど、自分語りが止まらなくなった)

「大人」の概念

一つ目のweb記事のテーマは、「大人と子供の違い」
4月1日で猪狩さんは成人して、私の中高の同級生の多くが社会人になった。

2月だったか3月だったか、社会人を目前にした彼女たちが口にしていた
「毎日仕事して決まった額のお金がもらえるならそれで十分」「感情的になったら負けだから、心を無にしとけばいいんだよ」みたいな言葉が、私には結構衝撃的だった。
「あ~みんな大人になっちゃったんだな」、そんで「私はいつまでこんな"割に合わない"価値観のままでいるのかな」、ていう虚無感でいっぱいになったりして。

いやだってさ、中高時代には、部活や学校行事をあんなに一生懸命、頑張った子たちだったのに。
私は今でも、力ずくで自分の理想を追う癖が抜けなくて、それが愚直すぎるし心をすり減らしていることに気づきながら、一方でそれが「できてしまう」のも私が置かれてきた環境の結果なんだろうな、とも思う。

彼女たちがこういう考えをするに至るまで、何を経験して何を感じてきたのかを知らないのに、「変わっちゃったね」って一方的なやるせなさを抱いた自分自身にも嫌気がさした。

子供で居続けるための大人のフリ

で、猪狩さんのwebに話を戻すと、
「子供で居続けるための大人のフリ」を意図的に出来る、し続けられるのってなんでなんだろう
記事中でも触れられているように、色んな価値観や経験にふれる中で、傷ついたり失ったりすることを繰り返して、次第に大人の殻を脱げなくなっていく、というのが一般的な"社会を回すための大人へのステップ"だとして、
それでも彼が「自我を侵略されずに」、自分の美学を持ち続けられるわけを知りたくなった。

もっと言うと、本文には「自分の理想も相手の理想も叶えられる自信があるから」、といった意味合いのことが書かれているけど、
じゃあなんでその自信があるの?っていうところが気になる。

なんでここに引っかかったかというと、「結局全部運じゃん」「努力って何?」ていう、私の最近のモヤモヤと関係していると思ったから。
幼少期に触れられたもの、そこから形成された価値観、何かに取り組める環境、それが努力だと見なされる"社会"。
内面的なものであっても外見的なものであっても、あるいは環境も含めたとしても、「一人の人間」を構成するものに運が関わってなかったことなんかないやん。

まさに「実力も運のうち」に落ち着いてしまう。

3年前、東大入学式で述べられた言葉は、努力が正義だと思ってきた私の常識を覆そうとして、でもそれすら不完全なまま心に残り続けてきた。

がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

私は自分が幸運であることを知っているつもり。
私にとって「努力が正義」だったのは、努力できる・それを支えてもらえる環境にずっと居たからだと、本心から思っているつもりでいる。

だけどそれと同時に、そんなの、頑張ってきた自分があまりに可哀想だ、とも感じる。
努力にはもちろん楽しさや充実感もあるけど、同じだけの苦しさや焦燥感があるのも、私が経験してきたことだったから。
「幸運」すら私が選んだ訳じゃない。でも、努力できる環境に居ながら努力しないと怠け者で、厳しい状況でもあきらめずに努力を続けて結果を残すことが美徳だと思うでしょ?

だから、知りたくなった。
私よりもっともっと熾烈な競争環境に居て、理想と現実にシビアに晒されてきたであろう猪狩さんが、
「自分の理想も相手の理想も叶えられる自信がある」ことの背景には、どんな価値観があるんだろう。
猪狩さんにとっての運と努力は、どういう風に均衡を取っているんだろう。

後天的ラッキーマン

そしたら、ananにエッセイが載るとのことで!
そのエッセイのタイトルが「後天的ラッキーマン」、
普段は雑誌買わないんだけど、猪狩さんの哲学を読みたくてさすがに買いました!!

「でも有り難いことに、事実は常にそこにある」

エッセイの前半部分には「自分で舵を取る」ことが綴られていて、私が想像していた"猪狩さんらしさ"を感じた。
自分を信じられるだけの思考、選択、行動で、弛まず進んでいく力強さ、眩しすぎる。

後半にはまさに、私が知りたかった、「その力強さがどうやって成り立っているのか」なのかなと。

猪狩さんは、事実を「そこにあるもの」として受け入れる用意があるし、それを乗りこなそうとしていることが私にはめちゃくちゃ響きました。
「受け入れる」だけではなくて、その先で「うまくやる」

いや、私も、「受け入れる」ことの重要性を説かれたことは何度もあって、その度に 難しいよ~~~って思ってたんです。
でも、今回猪狩さんのエッセイを読んで、「受け入れる」を「入れ替える」だと捉えてしまっていたことに気がついた。
つまり、何かを「受け入れる」ことが、それに反するものを切り捨てることと同義になっていた。

例えば「大人になった」友人たちを受け入れることは、過去の大切な思い出や、大人になれない自分とは両立し得ない。
「自分が恵まれている」事実を受け入れることは、私が努力だと思ってきたものが、"私の"頑張りではなくなるような。

私が大切にしてきたものとは「両立し得ない」ところにある"正しさ"に納得してしまったと思ってたから、ずっとしんどかったんだな〜。
実はそれ別に両立します、というか、両立させることが「受け入れる」ことなのかな。

何によって何を叶えたいのか

私が私の主体として生きている以上、私の目の前に広がる世界が私にとっての「事実」で、そこからは逃れられない。
私も、幸運からも悪運からも逃れられないんだけど、その中でただ「うまくやる」ために、努力という方法を選択してきただけだったんだと理解することができれば。

愚直な努力以外の手段でも、うまくやるという目的は達成されるかもしれないし、
他の人や他の状況だったらなおさら、色んな「うまくやる」に対する捉え方やアクションがあって至極当然だよね……

エッセイの前半では、目的と手段を切り分けることについても触れられていて、
私は努力が目的になってしまいがちで、そこに価値を置きすぎてしまう傾向にあることにも、もっと自覚的でありたいと思った。

ということで、収集がつかなくなってきたのでそろそろ話をたたみます。

あくまで私が文章を読んで解釈したことに過ぎないけれども、
「運と努力」は、均衡をとるべき対立する概念ではなくて、どちらも事実として存在する・どちらかを否定せずとも同時に手懐けられる対象なのかな、と。
私が生きる事実の中で、選択の主体は(思考も行動も)私自身にしかなり得ないし、他者にとっては他者自身であることを、忘れずにいたい。この考え方も含めて。

色んなことを考えさせてくれて、気付きを得るきっかけになってくれた猪狩くんとweb記事とエッセイ、ありがとうございます!!!!!
また猪狩くんが書いた文章を読めるのを楽しみにしています!!!!!

他に頭に浮かんだこと

本文への入れ込み方がわからなかった、私の脳内での関連項目をいくつかメモ📝

  • 計画的偶発性理論
    猪狩さんの価値観にも近いものを感じるけど、猪狩さんの言葉の節々にはもっと強く「確信」というか凄みを感じる

  • 白黒思考
    これは私の課題 グラデーションやパラレルをもっと理解したい

  • 「人人都有地獄(皆それぞれの地獄がある)」
    大学の講義中に先生がポロっと口にしてえぐられた言葉、私のこれに対する解釈も変わってきそうだなと思ったけどまだわからない

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