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『私の話』

 ——笑えよ。——

 私はその一言だけ書き落として、その後は数日間ずっと同じ状態で止まっている。書こうとしている話の内容はほぼ決まっているのに、どうも上手く書けそうになくて手元にある本をパラパラと捲って、読むのかと言えばそんなこともなく、ただ捲るだけだ。

 私はいつまでこんなことを続けるのだろう。きっともう引き返せないのだ。ただの馬鹿だ。

「なんで辞めちまわねぇんだよ」

 そんな風に舌打ちすると、手に取っていた鷺沢萠の本と同じタイトルの本が本棚にもあり、その本が二冊あることに気が付いた。『私の話』という長編のエッセイを三本纏めたもので、片方は単行本であり、もう片方は文庫本だった。

 鷺沢萠が亡くなったのは私が高校生の頃だった。作家としてデビューしたのが私が生まれた年だから、私は彼女のことをよく知る世代ではないし、国語の教科書に出てくるという話も聞くので、もしかすると今の若い世代の方が、私たちの世代より知っているのかもしれない。

 私は確かその訃報の直前に『F 落第生』を何度か読み返していた。理由は単に収録のある短編が気に入っただけだったが、本当にずっと同じ本を読み返していた。だから私はとても淋しくて悲しくなってしまい、少し時間が経った夏、著書を読む時期がしばらく続いて、またその何年か後、ふと思い出したように未読の著書を買い足して、読んでいた時期があった。

 だから、二冊の『私の話』について、きっと一冊は高校生の頃に手にしたもので、もう一冊はその何年か後に手にしたものだろう。

 当然だ、と思うだろう。
 もう説明なんていらないくらい当然に、私はその本を読まなければならない気になっていた。
 たぶん私が馬鹿だからなのだろう。何処かで細々と運命というものを信じているのだ。あるいはいつも何かに縋りたがるからなのだろう。それはもうどうしようもない。

 だから今、『私の話』を読んでいる。読んでいて、思う。
 なぜこんな文章になるのか。
 強くて脆い。その頭の良さ故、現実を一瞬で把握し、一瞬で問題に対する答えを出すのに、そして怒りや合理的判断を整合性のある言葉に変えることが出来るのに、心は深く傷付いているようで、なのに柔らかい文章である。
 凶暴さと繊細さを兼ね備えて、しかし無駄のない言葉が続いていく。
 もはや文章の成り立ちが理解できない。
 どうしてこんな言葉が書けるのか。

 そうなのだ。馬鹿げているほどの額の金が動く博奕に没頭するのも、そうすることで馬鹿げているほどの額の金を失うのも、博奕をしていないのであれば全身がずくずくになるほどの過度な飲酒を飽きることなく繰り返すのも、多分私の悪路趣味の判りやすい結果だ。そうしてそれはおそらく、手に入れたくて手に入れたくて仕方がなかったのにいつの間にか、どういうわけでか私の指のあいだからこぼれ出ていった「すこやか」さに対する、幼稚な反発心のあらわれだ。
 劣等感などということばをさっきは使ったけれど、そんな単語さえも胡麻化しなのだ。私は、悔しいのだ。長いことを求めていたはずのものをついに手に入れられなかったのが、悔しいのだ。
 いつか絶対に戻ってきてやる。——十五年前の呟きを翻訳すれば、つまりこういうことだ。
 ——いつか「すこやか」になってやる。
「すこやか」を「まっとう」に置き換えてもいい。
 けれどそれを「執念じみた」気持ちで呟いている時点で、たぶん方向は少しずつ間違いはじめていた。

私の話1997 鷺沢萠

 いつも藻掻いているような言葉を書く。夜逃げした街に対して『いつか絶対に戻ってきてやる」と藻掻いて、やり方が間違っていても足掻き続けていって、その結露として辿り着いた場所で我に返ってしまう。

 それもそのはずだ、鷺沢萠という人は走っている最中にも周りから多くのものを吸収していたのだと思う。それが意図してのことだったとは思わないが学ぶことを止めなかった。そうやっている内に新しい視点を手にして行った。そして視点が変われば考えも変わっていた。だから行き着いてから悟るのである。

 祖母が韓国人であると知ったのも、執筆中の偶然によるものであったと聞く。複雑な事情を抱えた家族からは話を聞く機会がなかったし、父が祖母の出生を知っていたかどうかも不明という。その事実を知って、自分のルーツを追うみたいに学び、学んだ先で自分の過去とのつながりを見付ける。そしてそれを書く。

 ほんの一瞬だけ舞い起こった誰かの残り香でさえ、自分の身体に取り入れて、その存在を想っている。

 そして一度でも想ってしまえば追わざるを得ないと、その存在の影を探していく。

 見落としてしまったとして誰も責めないような見落としをしない。

 一つ一つのエピソードが、それぞれに意図を紐解く。

 まるで謎解きのようだ。

 きっと今も鷺沢萠の本を読んでいる人はたくさんいる。でももっと読まれ続けて欲しいと思う限りである。だからこれ以上はその本の内容に触れないこととする。気になる人はこのエッセイを読んで欲しい。特に閉塞した今にこそ、読んで欲しい。

 私は個人的に思う。こういう文章を書く人はもういないのではないか。もちろん私が知らないだけだろうが、今ではなかなか見ないことは間違いがない。それは抒情的とかそういうものに依存するのではなく、きっと論理的であるがための性質だろう。

 なんというか、理知的に感情的なのである。意味が分からないかもしれないが、両立しているのである。

 そうとしか言えない。

 

 

 さて、話は私の一文に戻る。

 ——笑えよ。——

 きっとこのままではいけない。

 私の怒りは、どのように言語化すべきだろう。冷静に伝えても、激情に身を任せて書いても、愚かな文章しか作れない。そもそも怒りを言語化することを認めてくれるのか。そこも分からない。

 鷺沢萠であれば答えを導き出しただろうか。きっと瞬間で核心を突いたのではないかと思うし、核心を突いた後は他者にぶつけるべき怒りを自分に怒りをぶつけていたのではないかと、なんとなく想像する。

 だがまあ私の想像に根拠はないので飽くまで想像だ。だからもしかすると妄想と言った方が適切なのかもしれない。だから現実を見るべきなのだろう。

 とにかく、私は私の愚かさを学びながら書き続けるか、さもなくば辞めるかだ。

 そして私は馬鹿であるから、辞めることを選べないのだろう。

 かと言って知識を吸収する速度も、人よりずっと遅い。

 仕方ない奴だとしか言えない。

 本当に馬鹿だ。

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