ピアノの発表会

 ――あれだけ練習したんだ、きっと大丈夫。

 遠くのピアノの音が響くたび、自分の鼓動も早くなっていく。今日のために両親が用意してくれた真っ新なワンピース。早く袖を通したいとこの日を待ち遠しくしていたのは昨日までで、今日は上手く眠れず目元に薄らクマも浮かんでいた。
 そわそわしている姿を見て両親は必死に励ましてくれたが、私は弱々しい笑顔で大丈夫、と答えることしかできなかった。じゃあね、と家族と別れると、舞台袖に用意された椅子に座る。周りを見ると、自分と同じ気持ちの子たちが出番のギリギリまで譜面と睨めっこをしながら両指をひたすら動かしていた。自分も譜面を開き、難所を重点的に何度も何度も繰り返し指の動きを確認する。聴こえてくる音と譜面の音は違うが、いつも練習していた音はそう簡単には離れていかなかった。
 遠くで、ピアノの音がピタリと止んだ。ホールからたくさんの拍手が溢れてきた。さっきまでピアノの前に座っていた女の子が、満面の笑みで自分の横を通り過ぎていった。
 急に現実に引き戻される。いつのまにか、自分の番が来ていた。楽譜を置いて、椅子から立ち上がると全身が小刻みに震えだした。アナウンスと同時に、拍手が鳴り響く。ああ、歩かないと。右手と右足、左手と左足が同時に動いてぎこちない歩みでピアノの前に立つ。照明の眩しさに一瞬目を細めながらも真っ暗で何も見えない客席に向かって一礼し、椅子の高さを調節して静かに座る。大丈夫、大丈夫。小さく深呼吸をし、静まり返ったホールにいつもの曲が鳴りだした。

 なんとかミスなく曲の中盤に差し掛かった頃だった。

 「わっ」

 ガタンッという音と共に突然座っていた椅子が傾いた。バランスを崩し、危うく転びそうになったところをなんとか踏ん張って回避する。さっきまで奏でていた曲は中断せざるを得なかった。舞台袖で待機していた先生がすぐに駆けつけてくれたが、会場はあっという間に人々の声でいっぱいになってしまった。すぐに原因を探ると、どうやら先ほど自分で調節した際に椅子の固定がうまく出来ていなかったようだった。

 「ごめんなさい、ごめんなさい…」

 泣きそうになりながらも何度も頭を下げる私に、先生は怪我がなくてよかったと言って宥めてくれた。ざわつく会場に静かにするよう、アナウンスが鳴り響く。そんな声も音も、どこか遠くに感じるくらい、私の頭の中は真っ白になっていた。

 念のため椅子を変えて再開し、大丈夫ですと言って再び鍵盤を触れることになったものの、私の頭の中からはすっかり曲が飛んでしまっていた。鍵盤に置いた両手が、動かない。せっかく今日のためにしてきた練習も、両親が用意してくれたワンピースも、何もかもを一瞬で無駄にしてしまった――。
 そんなドス黒い感情がじわじわと心を蝕んでいた時。ワンピースのポケットから、何かがはみ出しているのに気づいた。引っ張ってみると、小さなヒヨコの顔がひょっこり。これは確か、弟が誕生日にくれたヒヨコのストラップ。部屋に飾っていたはずなのに、何でこんなところに……?
 緊張している私をよそに、弟は今朝から顔色ひとつ変えず車に揺られ、会場に着いてもスマホをじっと見つめていた。これは弟にとってのイタズラなのかもしれない。弟のしたり顔が脳裏に浮かぶ。ヒヨコの何も考えてなさそうなつぶらな瞳が、じっとこちらを見つめている……。

 「……ぷっ」

 思わず吹き出してしまい、慌てて咳払いをする。ストラップを譜面台に置き、ヒヨコの顔がこちらを向くと、ふぅ、と一息ついて目を閉じる。

 ――今度は、大丈夫。

 軽やかな指のリズムと共に、ずっと練習していた音がホールに響きだす。さっきまで気が付かなかったが、目の前の景色は鮮やかだった。今日は一年に一度の特別な日。ちゃんと聴いてくれているだろうか。たくさんの人で埋まったホール席の、今だけはたった一人に向けて。

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