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2018/8/12

オーミオバッビーノ カーロー
という歌い出しの曲がある。プッチーニ作のオペラ『ジャンニ・スキッキ』の『わたしのお父さん』という曲で、つまりこれはイタリア語なのだ。ミーピアチェーベーッローベーロー、と続く。
高校の音楽の授業でひとりひとり歌わされる試験があったのでこんな呪文みたいな歌詞を覚えているわけだけれど、この曲は『贋作・桜の森の満開の下』という野田秀樹作の劇中で用いられている。

『贋作・桜の森の満開の下』は野田秀樹が劇団夢の遊民社時代に書いた作品だが、繰り返し上演されており、このあいだは歌舞伎座でやっていて当日券に並んで観にいった。今年の秋にも東京芸術劇場で上演する予定で、こちらはちゃんとチケットをとった。遊民社時代のは映像でみたことがあるので、最終的には3公演分の同じ劇を観ることになる。かなり好きな作品と言って良い。

『贋作・桜の森の満開の下』は坂口安吾の『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』という作品をモチーフにしていて、野田秀樹と同等かそれ以上に坂口安吾のことを愛している身としては、野田秀樹が戯曲を出版した際にあとがきに「坂口安吾の生まれ変わり」と冗談めかして書いていたことも含め涙なしでは観られない作品なのだが、さて、この涙はなんだろう。

作風が違うのだから当たり前なのだけど、三谷幸喜の舞台でオーミオバッビーノ、が流れ出すことはほとんどありえない。壮大すぎてちぐはぐになってしまうからだ。三谷作品で流れるのは基本的にオリジナル曲。ジャズ風の音楽が多いだろうか。三谷作品ばかり観てきていたので、『贋作・桜の森の満開の下』でオーミオバッビーノが流れてきたとき、あ、既存の、雄大な曲流すのもありなんだ、と思ったのだった。オーミオバッビーノ、と言いたいだけではないです。

三谷作品でも泣くことがあるわけだけれど、野田作品で泣くのとは違う。簡単に言ってしまえば、野田秀樹の描く世界はこっち(観客側)の世界と地続きじゃない。普通の人間の人生は、オーミオバッビーノが背後でかかりはじめたら違和感がある。野田作品は、観客を感動させて、感動させて、そして幕が閉じるとプツンとその世界が消える。動かされた感情だけが残る。劇場を出ると、どうしてくれるんだよ、とやりきれない気持ちになる。これと似た感じについて書かれた安吾の『文学のふるさと』というエッセイがあるのだが、長くなるので別の機会に……。

一方三谷作品は、幕が閉じたあとも、帰り道に「あの登場人物たちは今ごろどうしているだろう」と想像するような余地がある。たとえどんなに悲しい結末の物語であったとしても。それはもちろん三谷幸喜の技量によるものである。

本当はどちらの作品の登場人物も現実にはいないのにね。創作という行為は、なんて……

今日、日付としては昨日か、は22歳の誕生日だったわけですが、この誕生日というやつも個人的には、なかなかオーミオバッビーノ的、浮き足立つというよりはなにかに突き放されるような、背中に彫られた数字を勝手に書きかえられるような、ポカンとせざるを得ない1日なのである。わかりづらいでしょう。誕生日ってやつに対するちょっとした焦燥を説明するのに、野田秀樹をわざわざ引き合いに出す必要があったのでしょうか。

歌舞伎座で『贋作・桜の森の満開の下』を観た帰り道、お茶しませんかと知らない人に声をかけられた。観劇後のぼんやり感を引きずっていたのに、血の気が引くほど興ざめして、そのおかげですとんとこっち側の世界に戻ってくることができた。知らない人に声をかけられるのは嫌いだけれど、それはそれでよかったのかもしれないと思った。

そう、誕生日はというと、人の家に上がりこんで『サマータイムマシン・ブルース』を観せてもらい、ピザを食べ、サザンを聴いて過ごした。
「ビダルサスーンって言いたいだけだろ!」

この前の見事なマジックアワーは村田大樹もみていたのだろうか(『ザ・マジックアワー』より)、などと考えつつ、とにかくすてきな1日だったので安心して眠る。

#日記 #エッセイ

💙