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経済活動という制約——「村上隆 もののけ 京都」展(シラカワタイヨウ)

メンバーによる展覧会や映画などのレビューを掲載する企画。第4回はシラカワタイヨウによる「村上隆 もののけ 京都」展のレビューです。本展に関してはふるさと納税を利用した資金集めなども話題になりました。作品制作を取り巻く経済活動を露骨に見せる村上に対しては様々な反応が寄せられますが、一方で彼は美術史や批評の歴史を戦略的に意識してきたことも知られる通りです。そうした村上の活動を、本レビューではグリーンバーグを一つの補助線として論じています。(編集部より)

村上隆とメディウムスペシフィシティ

 村上隆は、実際のところ、絵画の平面性に自覚的な作家だ。彼は、「村上隆のスーパーフラット・コレクション展——蕭白、魯山人からキーファーまで——」(2016年)のトークイベントでこう述べている。

わきに絵の具ある作家ってもちろん僕の前にもいますけど、意図的にやってんのは僕からなんすよ。これ要するに、僕が、自分の絵画において、僕は絵画を描いていませんっていう、そのー、主張をしてるんですよね。あのー、最近の作品ってわきを描いてないんですよ、わざと。それは僕が今、やっと僕も皆さんに認めていただくことができたので、絵画が描ける分際になりましたよねっていうイヤミなんですけど[……]。

村上隆トークイベント「村上隆のスーパーフラット・コレクション展——蕭白、魯山人からキーファーまで——」(https://youtu.be/LM-dbklV5pg?si=e2Y9mY3bndVL6JVK、40:00)

ご存知のとおり、平面性を絵画の特徴的な性質として際立たせたのは、アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグである。上記の発言は、そうした言説を踏まえている。村上は、絵画という媒体に特有な平面性という性質に自覚的だからこそ、あえて作品の側面も塗って、東洋人の自分は絵画ではなく絵画に似た立体を作っているのだと卑下してみせたわけだ。もっとも、今では村上も絵画を制作している。

村上隆 《Fatman Littleboy in the エコエコレンジャー》側面 2023ー2024年
アクリル絵具、カンヴァス、木製パネル

 「村上隆 もののけ 京都」展で展示されてている《鮮血を捧げよ》(2023ー2024年)を例にとってみよう。どくろで埋め尽くされた画面は、オールオーヴァーな傾向を示している。それは、ジャクソン・ポロック的である。確かに、村上は、《鮮血を捧げよ》でどくろという具象的なモチーフを用いてる。しかし、それらのどくろには影もつけられておらず、透視図法的な遠近法の中に配置されてもいない。だから、それは奥行きを形成しない。あくまで表面に留まるような表現になっているのだ。

村上隆 《鮮血を捧げよ》 2019年
アクリル絵具、カンヴァス、アルミフレーム
ジャクソン・ポロック 《収斂》 1952年

 もちろん、モチーフ同士の重なりで前後関係は生まれている。しかし、その点では、ポロックのドリッピングの手法も同じだ。いわば、ポタポタと垂らされた絵の具に代わって、ペタペタとどくろが貼られているのである。すなわち、かつてグリーンバーグがポロックを評して言ったように、「交差した滴りやはねによって、強調された表面——これはアルミニウム塗料のハイライトによって、さらにはっきりと示される——と、不確定だがどういうわけか明確に浅い奥行きのイリュージョンとの間に振動を生み出し」[1]ているのである。空間を擬似的に立ち上がらせるような古典的絵画と対照的に、作品の表面に留まり、その平面性を強調するという点で、《鮮血を捧げよ》はポロックと同じ方向を向いている。

<言い訳>シリーズ

 一方で、「村上隆 もののけ 京都」展には、〈言い訳〉シリーズと呼べるような作品もいくつか展示されている。そうしたシリーズでは、村上隆の言い訳が文章という形式で画面の中に導入されている。文章による叙述を用いた表現は、グリーンバーグのメディウムスペシフィックな芸術観からは外れているように見える。というのも、グリーンバーグは、レッシング——詩を時間芸術だと位置付けることで詩と絵画の関係を切断した論者——を念頭におきながら、用いられるメディウムの相違に即して詩と絵画の分断を再定式化した人だからだ。だから、言語的な表現を含み込む〈言い訳〉シリーズは、《鮮血を捧げよ》が準じていたような絵画の平面性を意識する枠組みとは異なった枠組みの中で制作されているように思われる。

村上隆 《「村上隆 もののけ 京都」展をみるにあたっての注意書きです。》 2023−2024年
アクリル絵具、カンヴァス、木製パネル
村上隆 《四季 FUJIYAMA》部分 2023−2024年
アクリル絵具、カンヴァス、木製パネル

 〈言い訳〉シリーズに書かれている(厳密にいえば、摺られている)のは、主に作品が未完成であることへの弁明である。未完成の作品それ自体が言い訳ペインティング化していることもあれば、未完成の作品のすぐそばに言い訳が展示されていることもある。そうした言い訳は、作品制作の過程をつまびらかにしている。「電車が遅延して遅刻しました」と移動の過程について述べることで言い訳しようとする場合のように、村上は作品の制作過程を語る。こうした〈過程の開示〉を、村上は「ドキュメンタリー的な文脈」(《「村上隆 もののけ 京都」展をみるにあたっての注意書きです。》 2023−2024年)と呼んでいる。

 ドキュメンタリーの中心となるのは、ある作品が制作されるに至るまでの事情、とくに経済的な事情である。「これはあるアジアのクライアントさんより承ったコミッションワークです」(《四季 FUJIYAMA》 2023−2024年)とか、「展覧会会期中に作品は日本人コレクターに売れ」(《772772》 2023−2024年)とかのように。別の言い方をすれば、〈言い訳〉シリーズで村上は、とくにクライアントとの関係に注目して自身の制作の過程を主題化している。

 先ほどは、〈言い訳〉シリーズと、グリーンバーグのメディウムスペシフィックな観点との相違に言及した。しかし、制作過程の主題化という問題は、グリーンバーグの言説の射程内にある。グリーンバーグは、「アヴァンギャルドとキッチュ」で、アヴァンギャルドの芸術についてこう述べている。

詩人や画家は通常の経験という主題から注意の眼をそらして、その眼を自らの手仕事のミディアムに向ける。非再現的あるいは「抽象」は、もしそれが美的有効性を持ち得るならば、恣意的、偶発的であるはずはない、それは、何らかのそれ相当の制約とか原型への服従から生まれなければならない。いったん通常の外向的経験の世界が捨てられると、この制約の唯一残されているところは、芸術と文学がその世界を模倣するのにすでに用いていたまさにその過程とか規律の中だけとなる。これらが実に、芸術と文学の主題となる。

『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳、2005年、勁草書房、6頁

 このように、アヴァンギャルドの作家は、自身の用いるメディウム(ミディアム)がもつ制限に自覚的であり、また、それを操作する過程を主題化する。この二点で、すなわち作品制作がもつ制限に自覚的である点と、その制限の中での制作過程を提示するという点で、アヴァンギャルドの手法と村上の手法は類似している。もちろん、村上が眼を向けているのは作品の経済的な制約とその中での過程であって、物質としての〈自らの手仕事のミディアム〉ではない。グリーンバーグがいうアヴァンギャルドはむしろ、そうした物質的な制限にのみ注視することで、政治的あるいは社会的な動向から独立した自律的な芸術を目指しているのだった。だから、そうした社会的動向のただ中にある経済活動を主題化している時点で、村上はアヴァンギャルドではない。

 しかし、作品制作がもつ制限への自覚と、制作過程の開示という類似性を拾い上げるなら、こう言うこともできる。村上は、アヴァンギャルドが見出した過程の提示という手法を、正反対の方向へとアプロプリエイトしてしまった、と。もう少し踏み込んで言えば、彼は、物理的なメディウムそれ自体の獲得と制作活動の持続には、経済的な条件が避けようのない制限としてのしかかっていることを自覚し、そうした経済活動の次元での交渉的な操作をも作品制作の一要素だと捉えている。すなわち、経済活動までをも自身の作品のメディウムの一つだと捉え、それを操作する過程を主題化しているのである。実際のところ、あらゆる文化的動向が何らかの経済的条件のもとにあるということは、グリーンバーグも認めるところだ。「いかなる文化も社会的基盤なしに、安定した収入源なしに発展することはできない」[2]のである。

村上隆 《展覧会をみおえて さよならする前に一言》 2023−2024年
アクリル絵具、カンヴァス、木製パネル

 クライアントとの関係に注目しながら作品の制作経緯を開示する村上の作品は、大衆の耳目を集める。それは、わたしたちのほとんどが、仕事でクライアントと交渉しながら生きているからだ。いわば、わたしたちも、経済活動というメディウムを扱いながら生きている。だからこそ、その操作方法に関心がある。こうした関心は、いわゆる自己啓発本の興隆にも見出すことができるかもしれない。この点で、村上は、アヴァンギャルドの方法論を援用しながらも、それを大衆のために用いている。

グッズ売り場としての「村上隆 もののけ 京都」展

 グリーンバーグは、「アヴァンギャルドとキッチュ」で、キッチュについても当然論じている。グリーンバーグによれば、「もしアヴァンギャルドが芸術の過程を模倣するとすれば、キッチュは芸術の結果を模倣する」[3]。そして、村上は、そうしたキッチュさもまた持ちあわせる。いやむしろ、村上に対してキッチュな印象をもつ人の方が多いだろう。そのキッチュさは、彼のグッズに最も顕著に現れている。「村上隆 もののけ 京都」展に訪れた観客が最終的に辿り着くのは、会場の5分の1を占めるグッズ売り場だ。観客はそこで、村上隆の作る作品の〈結果〉を享受する。Tシャツ、キーホルダー、クリアファイルといった仕方で。そうしたグッズが見せているのは、村上隆の描くキャラたちだけであり、その制作過程は等閑視されている。

 しかも、キッチュは、グッズ売り場を飛び出して展示の中にも顔をのぞかせている。「村上隆 もののけ 京都」展は、彼の回顧展ではない。展示されている作品のほとんどが新作だ。村上によれば、「通常なら過去作品は外国の美術館展やコレクターの方たちから借りてくるものですが、外国からの高い輸送費やそれに伴う保険代を払ったりすることを避けて、作家が未だ60歳代で生きているのだから、新作を描いてくれないものだろうか?というトホホな要望」(《「村上隆 もののけ 京都」展をみるにあたっての注意書きです。》、2023−2024年)があったからである。ということは、こうした新作は、過去の村上作品の〈結果〉の模倣である。90年代の作品の作りなおしである新作たちは、実際のところグッズとそう大して変わらない。しかも、それらの新作は、会期の終了後、列をなすコレクターたちに買い取られていくはずだ。要するに、「村上隆 もののけ 京都」展は一つの巨大なグッズ売り場の体をなしている。

村上隆 《DOB Genesis: Reboot》 1993−2017年
村上隆 《DOB創世記》 2023−2024年
アクリル絵具、金箔、カンヴァス、木製パネル

 もちろん、グリーンバーグ的なモダニスムの議論はひと昔前のものだ。あえてキッチュを選択する態度は、ウォーホルやリキテンスタインなどに既に見られる。しかし、村上はそれに加えて、アヴァンギャルドの手法すらも大衆のためにアプロプリエイトしている。大衆の、大衆による、大衆のためのゲージュツ。とはいえ、そんな村上社長が巨額の金を溶かしている先が、スタッフの給料や、作品のコレクションや、興行収入の振るわない映画の制作だということを思い起こすと、そして、彼が少なくともアートマーケットを日本に確立する一助となったことを考えると、造形物を生み出すための経済的土壌を整えていく彼の気合いには感服せざるを得ない。彼は、作品制作がもつ経済活動という制約の中で、そのメディウムを巧みに操るのである。

[1] 『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳、勁草書房、2005年、125頁。
[2] 同書、8頁。
[3] 同書、17頁。

          *

蛇足のメモ

 今回は、村上を西洋的な文脈の中で考えてみた。ただ、そのせいで、琳派トリビュートの作品や、洛中洛外図、それから六角螺旋堂&四神などの作品を取りこぼしている。こういった作品には、もっと日本的な文脈からアプローチできるはずだ。とくに、『熱闘!日本美術史』(新潮社、2014年)や『眼の神殿——「美術」受容史ノート』(ちくま学芸文庫、2020年)が手がかりになるだろう。


展覧会情報

京都市京セラ美術館
【京都市美術館開館90周年記念展】村上隆 もののけ 京都
2024年2月3日ー2024年9月1日

https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20240203-20240630

執筆者プロフィール

シラカワタイヨウ
犬はワンと鳴きます。

散文と批評『5.17.32.93.203.204』

シラカワタイヨウによる
「ルース・チャイルズ&ルシンダ・チャイルズ「ルシンダ・チャイルズ1970年代初期作品集」評」、および「モノガミー批判と聖書読解――オナイダ・コミュニティーの試み」が収録されているZINEは、下記リンクからご購入いただけます。

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会場:安養寺会館 https://anyo-ji.or.jp/hall/  (兵庫県尼崎市東園田町5丁目125番地)
入場料:1000円(定員30名)

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