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6月15日(土) 最近のこと。

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最近のこと

「最近のこと」と言うと、yonigeを思い出してしまう。
白昼徘徊が酷かった時期、正気を保っていられたのはyonigeのおかげだったかもしれない。思い返してみると、下北沢を徘徊してバイト先を探しているとき、聴いていたのはいつもyonigeだった。yonigeを聴きながらバイトに行ったし、yonigeを聴きながら家に帰った。yonigeを聴きながら眠った夜もあったし、yonigeを聴きながら学校に行っていた。

でも、ある時ある瞬間にyonigeを聴いていたという記憶自体が、思い出したくない時期のことも連想させるから苦しくなった。あの日コンビニの前で再生ボタンを押さなければよかったと書くとどこかにありそうな歌詞っぽくなるけど、べつに押していなくてもあの時期毎日のように聴いていたのだから結果は同じ。あれから、シャッフル再生でyonigeが流れてきても飛ばすようになった。だからといってスマホから歌を消すこともできなかったけど、でも最近ようやく消せた。

yonigeの「最近のこと」の歌詞を一部引用します。
「すぐやめようと思っていた例のバイトは続けてるよ」
のところには、すぐやめようと思っていたバイトを私は本当に辞めるだろうな、と引け目を感じるのだけど、
そのあとの、
「客には愛想よくしろって怒られてばっかだけど」
の部分で安心感を得ていた。
客には愛想よくしろって怒られたことはあまりないけれど、常に自分に対してそう思っていた。目つきとか声とか、他のみんなの素敵なそれと同じものを自分も持っているとは到底思えなかった。だから、曲中の主人公みたいに怒られる人もいるんだな、とか、みんな不器用なりに頑張ってるんだな~なんて思えたのかもしれない、とにかく安心した。
曲中の主人公と私とでは境遇も現状も違うだろうけれど、それでもいい。作り手の意図とは違ったとしても、自分用の意味を見いだせればそれでいい。

バイトといえば、この前、元バイト先の前を通った。
私がバイトをしていたカフェは、私が入って1年ほど経過した頃、大人の事情で閉店した。身元判明が怖いので少し現実改変能力を使っています。はああ。お店自体は終了したけれど、その建物自体はしばらく残っていた。取り壊すのか、ただ営業が終わったのか、本社からの詳しい説明もなく、いろんな噂があって曖昧だったけれど、私の中では何故か取り壊すものだと思っていた。建物が無くなったかどうか気になって、下北沢に来るたびに建物を見に行っていたけれど、そこには廃墟があるだけで、取り壊されることはなかった。
この前下北沢に行ったのでその帰りに通ってみたら、きれいさっぱりなくなっていた。
とくに感慨のようなものはなかった。でもこのお店の構造は好きだった。広くなくて、中に階段があって、家みたい。いまじゃ窮屈に感じるかもしれないけど、この構造が当時の自分には合っていたのかもしれない。建築も奥が深いなぁなどと思ったりする。
近くに系列店があったので、その日はそこにも行ってみた。看板が見えなかったので潰れたのかと思ったけれどちゃんとあった。カフェが閉店したあとはしばらくそこでバイトをさせてもらっていた時期もある。中に入ってあいさつをする勇気なんてなかったけれど、ドキドキしながらそのお店の階段下まで行ってみた。バイト終わりに、その日の失敗を思い出しながら煙草を吸っていた喫煙所は閉鎖されていた。
煙草はいつのまにかやめている。吸ったり一切吸わなかったりする。そういうサイクルなのだろう。
隣の建物には犬カフェができていた。


本題である最近のことを忘れてた。
深爪するとすぐに指が荒れてしまうから最近指が痛いです。
金魚の映画の予告に出てくる女の子たちを見て「傷ついてるくせに傷ついてないふりをしているのかな」と思ったけど、見てすらいないので思うだけ。気力が出たら見てみよう。
それから、文章が好きで読んでいたブログがある。
この前見た時、中でも好きな一文のあった記事が消えていた。
好きって言いたかったな。
消さないでって意味じゃない。 今までに、あなたの文章が好きですと伝えるタイミングはあったと思う。でも、時が経つにつれ、書き主の現状が変わっていくにつれ、好きの伝わり方が、相手の受け取り方や感じ方が当初とは変わってしまう気がした。
その文章が、その人にとって、「誰かに好きと言われてもいい部分」なのかどうか。その部分というのは文章ごとに違うかもしれない、毎回変わったりもするかもしれない。受け取り方がどうだなんていつだって想像上に過ぎないのだけど。

好きと伝えるのは自己満足だろうか。
人はなぜ好きと伝えるのか。
相手が喜んでくれるかもという可能性があるから伝えるのか。
「好きと思っている人がここにいるよ」と知ってほしいから伝えるのか。

私が好きでも、その人がそれを消したのなら、それは最も尊重されるべきことだと思う。自分の好きが、他人にとっていい影響を与えるのかわからない、ということをいつも考える。
自分は今、正気なのだろうか、といつも不安に思っている。
好きと言われて嫌ではない人なのかどうかも、その文章が、その人にとって好きと言われてもいい部分なのかどうかも、私には知る由もない。
それに、好きと伝えることによって、その人の、文章に対する姿勢や視点を邪魔したくないというのもある。好きと伝えなかったから今があって、今も文章を書いているのかもしれない。そもそも、一読者である私程度の「好き」が相手に何か影響を与えると思っているなんて烏滸がましいのかもしれない。
その人が文章を書くとき、周りからのいかなる目も気にしてほしくない。
全部全部、私の主観と憶測。
そうしてその日も、そっといいねを押したのだった。

みんなは、こういったことを俯瞰してとらえられるのだろうか。それともリスク承知で好きと伝えているのか。あるいはこんなに気にしていないのか。現実はもっと複雑で、複雑であることがもはや単純で、矛盾した気持ちは実は矛盾していなくて、相反する感情が同時に存在することは珍しくない。


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