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【論文】明代医学家楼英事略(1962年)

1.はじめに

【原文】
楼英是明初的医学家、他所著的『医学綱目』一書、
明清以来、為不少医家所伝習、起了一定的作用。

【単語】
・他(ta)…彼の ・「所+動詞」(suoshi)… ・以来(xilai)…以来
・「為~所」(wei~suo)… ・不少(bushao)…多くの
・伝習(chuanxi)…伝習 ・起了(qile)…(~~が)あった
・一定(yibing)…規定された ・作用(zuoyong)…作用、働きかけ

【訳】
 楼英は、明代初頭の医学者であり、彼は医学綱目という著書をあらわし、明清代以来、多くの医者に伝習され、一定の働きがあった。


【原文】
使我們感到惋惜的、是他的事跡流伝下来的較少。
『医部全録』的医術名流列伝引『紹興府誌』記載楼英的生平、
僅寥寥数語、実過干簡略。

【単語】
・使(shi)…()させた ・我們(women)…我々
・感到(gandao)…感じる ・惋惜(wanxi)…悲しみ残念に思う
・的(de)…文末で語気を強調 ・事跡(shiji)…行いの姿
・流伝(liuchuan)…伝わる、広がる
・下来(xialai)…下りて来る、過去から現在まで続いている
・較少(jiaoshao)…かなり少ない ・医術名流列伝…本の名前
・引(yin)…引用する ・生平(shengping)…人の一生
・僅(jin)…ただあるだけ
・寥寥(liaoliao)…ごく僅か、非常に少ない
・数語(shuyu)…いくつかの言葉 ・実(shi)…実に
・過干(guayu)…あまりにも、~過ぎる

【訳】
 我々が残念に思うことは、彼の行いが現代にほんの僅かにしか伝わっていないことである。

 『医部全録』の医術名流列伝には、『紹興府誌』に記載された楼英の一生が引用されているが、ごく僅かの記載があるだけで、実に簡略すぎるのである。


【原文】
所幸楼英的故郷在今浙江省蕭山県楼家塔村、他的後裔還有習医的。
経過訪問并捜集了県誌和宗譜行録等資料、対干楼英生平的了解、
就獲得了較為全面的輪郭。

【単語】
・所幸(suoxing)…幸いに思うことは
・故郷(guxiang)…ふるさと ・後裔(houyi)…後裔、末裔
・還有(haiyou)…その上、やはり ・習医(xiyi)…医に通じる
・経過(jingguo)…通過、経る、行き来する、やりとり
・訪問(fangwen)…訪ねる、質問する ・并(bing)…ならびに
・捜集(suoji)…探し集める、収集
・県誌(xianzhi)…県の歴史などを記した書物
・宗譜(zongpu)…家系図 ・行録(xinglu)…行いの記録
・対干(duiyu)…(~~)については ・就(jiu)…すなわち
・獲得(huode)…獲得、得る ・較(jiao)…かなり
・全面(quanmian)…全体、全面
・輪郭(lunkuo)…概要、アウトライン

【訳】
 幸いなことに、楼英の故郷が今の浙江省蕭山県楼家塔村に在り、その上、彼の末裔は医者であった。

 現地への訪問や県誌や家系図などの資料を通して、楼英の一生についての理解は、かなり全体的な概要を得る事ができた。



2.楼英の生平

【原文】
楼英、一名公爽、字全善、号全齋、
生干元朝至順壬申(公元1332年)三月十五日、
卒干明朝建文辛巳(公元1401年)十一月十九日。

【単語】
・号(hao)…表向きの名称、特につけた名前

【訳】
 楼英は、一名を公爽、字を全善、号を全齋といい、元朝の至順壬申の年(公元1332年)の3月15日に生まれ、明朝の建文辛巳の年(公元1401年)の十一月十九日に亡くなった。


【原文】
他的祖先在唐末銭鏐爲軍官、子孫由義烏移居蕭山的南郷。
楼英的父親称爲大八公、他是大八公的幼子。
他的哥哥楼泳、字原善、号信齋、一号仙岩逸叟、
著有『信齋詩稿』、当時的詩人楊鉄崖曾爲之作序。

【単語】
※銭鏐…後述1
・軍官(junguan)…仕官、将校 ・哥哥(gege)…兄
・幼子(youzi)…末っ子

【訳】
 彼の祖先は唐末の時代に銭鏐の軍官で、子孫は義烏から蕭山の南に移り住んだ。

 楼英の父親は大八公と呼ばれ、彼は大八公の末っ子であった。

 彼の兄は楼泳といい、字は原善、号は信齋、一号を仙岩逸叟といい、『信齋詩稿』を著し、当時の詩人である楊鉄崖がこれに序を書いた。


【原文】
仙岩在肖山県城南的八十里、東晋的許詢曾在此隠居、
許詢字元度、所以仙岩一名元度岩。
許詢的住宅、後来改爲僧寺、元朝至順二年(公元1331年)、
僧道澄等重建、楼英和哥哥楼泳曾寺中居住。

【単語】
※許詢…後述2
・所以(suoyi)…であるから

【訳】
 仙岩は肖山県城南の八十里にあり、東晋の許詢はかつてここに隠居し、許詢は字を元度といったため、仙岩を一名元度岩という。

 許詢の住宅は、後に寺院に改装され、元朝の至順二年(公元1331年)には、僧道澄等によって再建され、楼英と兄の楼泳はかつてこの寺に住んでいた。


【原文】
楼英愛好這優美的環境、所以把自己的文集題爲『仙岩文集』。
他的家中旧有清燕楼、在這古老的房屋里、
他閲読医書、制煉薬物、爲人治病、極爲当地的人民所愛戴。

【単語】
・当地(dangai)…現地の人、その土地の人
・制煉(zhilian)…造る、製造する、加工して精錬する
・古老(gulao)…古い、古い歴史を持つ
・房屋(fangwu)…家屋、家、建物

【訳】
 楼英はこの優美な環境を好んだため、自分の文集の題名を『仙岩文集』とした。

 彼の家には古くから清燕楼があり、この古い建物の中にある部屋の中で、彼は医書を読み、薬物を精練し、人のために治病し、その土地の人民からとても敬愛された。


【原文】
他在年青時好読『周易』、以後又深入研究『内経』、并捜集後賢的医学論著、積累了三十年的功夫、編成『医学綱目』四十巻、
包括総論及内科、外科、婦科、兒科和眼科等、
其書分病爲門、門各定陰陽蔵府之部于巻首、
以著大綱、析法而各撮陰陽蔵府之要于条上、
以彰衆目、是一部総結明以前医家学説的著作。

【単語】
・深入(shenru)…深く入り込む ・積累(jilei)…蓄積、積み重ね
・功夫(gonghu)…技量、手腕、修練、努力
・門(men)…物事の類別、仕分け
・部(bu)…部分、部門、統率する ・巻(juan)…書物、書藉
・首(Shou)…頭、一番、始め
・大綱(dagang)…物事の主要な部分 ・析(xi)…分ける、解く
・撮(cuo)…かき集める、寄せ集める、(要点を)かいつまむ
・要(yao)…要点、要旨、重要な事、大切な
・条(tiao)…筋道、秩序、条理 ・上(shang)…上の方
・彰衆目(zhangzhongmu)…(衆目昭彰)だれの目にも明らかだ
・是(shi)…~~だ、~~である
・総結(zongjie)…総括する、締めくくる、総まとめ

【訳】
 彼は青年時期には『周易』をよく読み、以後、『内経』を深く研究し、並びに後賢の医学論著を収集し、その三十年の努力を積み重ね、『医学綱目』四十巻を編集し、

 総論及び内科、外科、婦人科、小児科と眼科等を包括し、その書物を病によって部門に分け、部門は陰陽蔵府の部を巻首に置き、物事の要点を著し、法に分けて撮陰陽蔵府の要点を箇条書きにしてあつめ、だれの目から見てもわかる様にしたもので、明以前の医家らの学説を総まとめたものである。


【原文】
又著有『内経運気類註』一書、闡明経旨、指出論運気者缺失。
又著『参同契薬物火候図説』一篇、『仙岩文集』二巻、『仙岩目録』及雑説若干篇。
他的論文『参同契薬物火候図説』一篇及『江朝論』、『守分説』各一篇、尚刊載干家譜中。

【単語】
・闡明(chanming)…道理を明らかにする
・経(jing)…経典、教典 ・旨(zhi)…(目的)意義、主旨、ねらい
・指出(zhichu)…指摘する
・缺失(queqian)…足りない所、不足する
・雑説(zashuo)…色々な説
・若干(ruogan)…いくつ、いくらかの
・尚(shang)…なお、まだ ・刊載(kanzai)…掲載する
・家譜(jiapu)…家系図

【訳】
 また『内経運気類註』という書を著し、経の主旨を明らかにし、運気論の足りない所を指摘した。

 また『参同契薬物火候図説』と、『仙岩文集』の2巻、『仙岩目録』及びその他いくつかの篇を著している。

 彼の論文である『参同契薬物火候図説』一篇及び『江朝論』、『守分説』の各々一篇は、なお家譜の中に掲載されている。


【原文】
明朝洪武時、臨淮丞孟恪向朱元璋薦挙楼英、元璋招楼英到南京。
由干楼英在南京治病療効良好、元璋欲楼氏任太医院医官、
他因已経年老、告辞回家。

【単語】
・臨淮(linhuai)…臨淮県(江蘇省)
・丞(cheng)…古代の補佐官、古代君子を補佐した最高官、丞相、宰相
・孟恪(mengke)…人名
・向(xiang)…~~に向かって(向+名詞)
・薦挙(jianju)…推挙する、推薦する
・招(zhao)…招呼(zhaohu)呼びかける、招致(zhaozhi)招き寄せる、呼び集める
・到(dao)…到達する、到着する
・由干(youyu)…〔前〕~~により、〔接〕~~なので
・治病(zhibing)…病気を治す ・療効(liaoxiao)…治療の効果
・良好(lianghao)…好ましい、よい ・在(zai)…~~での
・欲(yu)…必要だ、したいと思う
・任(ren)…仕事の役割を与える ・因(yin)…~~のため
・已経(yijing)…すでにもう、一定の度合いに達している
・年老(nianlao)…年をめしている、年配、年寄り
・告辞(gaoci)…暇乞いする ・回家(huijia)…家に帰る
※太医院()…※後述2

【訳】
 明朝の洪武帝の時代に、臨淮丞の孟恪は朱元璋に対して楼英を薦挙し、元璋は楼英を南京まで招いた。

 楼英の南京での医療成績が良好であったため、元璋は楼氏を太医院の医官に任命したいと思ったが、すでに彼は年をとっていたので、それを辞退して帰郷した。


【原文】
楼氏一向与金華戴思恭友誼深厚、結爲姻親。
戴氏得到元代名医朱丹渓的伝授、造詣甚深、
楼氏与戴氏講論医学、見解極爲投合。

【単語】
・一向(yixiang)…〔名〕過去のある時期、〔副〕(過去から現在まで)ずっと(変わらない)
・与(yu)…~~と、行き来する、往来する
・金華(jinhua)…金華県、地名
・友誼(youyi)…友情、厚い友情
・深厚(shenhou)…(感情が)深い、厚い、しっかりした基礎
・友誼深厚(youyishenhou)…厚い友情
・結(jie)…結婚
・姻親(yinqin)…婚姻によって生まれた親戚、姻戚関係
・得到(dedao)…得る、手に入れる
・伝授(chuanshou)…教え授ける
・造詣(zaoyi)…造詣、学識、たしなみ
・講論(jianglun)…論を話す
・見解(jianjie)…見識、見解、見方
・投合(touhe)…気持などが合う、性格が合う

【訳】
 楼英はかねてから金華県の戴思恭と親しい間柄で、姻戚関係を結んでいる。

 戴氏は元代の名医である朱丹渓より教えをうけ、造詣が甚だ深く、楼英と戴氏は医学について議論しあい、その見解は極めて一致した。


【原文】
楼氏逝世後、戴氏曾写信給他的兒子、表示深切的哀悼。
楼氏与其妻張氏、合葬干肖山“尚隝”。
1918年冬季、在楼家塔村楼氏家祠下祠内、重修楼氏塑象、附近一帯的人民、熱烈地参加了遺象修葺完成的儀式。

【単語】
・逝世(shishi)…亡くなる、逝去する
・写信(xiexin)…手紙を書く
・給(gei)…与える、~~に向けて、~~のために、かねて
・表示(biaoshi)…(言葉や行動で考え、感情、態度などを)示す
・深切(shenpie)…心がこもる、(理解が)深くて親切だ
・哀悼(aidao)…悲しむ、哀悼する
・合葬(hezang)…(夫婦を)同じ墓に葬る
・祠(ci)…祖先や神霊、英雄や有徳の人物を祭る、やしろ、ほこら
・重修(chongxiu)…造り直す、改修する
・塑象(suxiang)…土や石膏で造った像
・附近(fujin)…付近の、近所
・熱烈(relie)…熱烈だ、心より、盛り上がる
・地(de)…〔助〕 ・遺象(yixiang)…遺影
・修葺(xiuqi)…改築する・儀式(yishi)…儀式

【訳】
 楼英が逝去した後、戴氏は手紙を書いて彼の息子に渡し、深い追悼の意をあらわした。楼英とその妻である張氏は、夫婦で共に肖山の“尚隝”に葬られた。

 1918年の冬、楼家塔村の楼英家の祠下祠内にある、楼氏の遺像を改修し、近所一帯の人達は、心から楼英像の修復の式典に参加した。


【原文】
楼氏有三子、長子名“袞”、次子名“■”、三子名“師儒”。
楼氏以後五、六世、有楼国棟善医、曾在杭州湖墅爲人治病、声誉甚著。
清代乾隆庚午(1750年)、族裔孫楼克明、従『医学綱目』中摘録幼科惊搐之症、参合諸家学説、編爲『幼科金針』六巻。
清咸豊時、楼沛霖著『臨証宝鑑』十二巻、可惜已経損毀、没有伝本。

【単語】
・国棟(guodong)…人名 ・湖墅(hushu)…地名
・声誉(shengyu)…名声、評判 ・甚(shen)…甚だ
・著(zhu)…明らか、際立っている ・族(zu)…民族、種族
・裔(yi)…後裔 ・摘録(zhailu)…抜き書きする、抜粋する
・惊(jing)…驚く ・搐(chu)…(筋が)ひきつる、ケイレンする
・参(can)…検証する、比べて調べる
・合(he)…多くのものを一つに合わせる ・可(ke)…~~すべき
・惜(xi)…大切にする、珍重する、惜しむ、残念がる
・損(sun)…減る、損なう
・毀(hui)…焼き壊す、焼け崩れる、壊す、損なう
・没有(meiyou)…もっていない、存在しない

【訳】
 楼英には三人の子供がおり、長子の名は袞、次子の名は■、三子の名は師儒といった。

 楼英の後、五、六世にあたる楼国棟が医学を善くし、杭州の湖墅で治病しており、その評判はとても際立っていた。

 清代の乾隆庚午の年(1750年)に、一族の後代の子孫である楼克明は、『医学綱目』の中から幼科の驚搐の症を抜粋し、諸家学説を検討し一つにまとめ、『幼科金針』六巻を編纂した。

 清代の咸豊の年代では、楼沛霖が『臨証宝鑑』十二巻を著したが、惜しむべきことに、すでに形をとどめず、伝本は存在しない。


3.後述

後述① 銭鏐(852~932) 

[呉越(907~978)] 
太祖(銭鏐)-世宗(銭元瓘)-忠献王(銭佐)-忠遜王(銭倧)-忠懿王(銭俶) 

・銭鏐(852~932) 
字は具美。呉越の太祖武肅王。在位907~932。杭州臨安の人若い頃は無頼の徒で、塩の密売を生業とし、盗みを働いていた。
唐末に石鏡鎮の董昌の軍に投じ、偏将となり、黄巣の乱の鎮圧に活躍した。杭州刺史に任ぜられた。楊行密から蘇州・常州を奪い、鎮海軍節度使に任ぜられた。
次いで彭城郡王に封ぜられ、鎮海・鎮東軍節度使に上った。両浙地方を支配し、後梁が興ると、呉越王に封ぜられ、淮南節度使を兼任した。
郢王友珪の代には尚父と尊称され、末帝の時代には元帥の位が加えられた。李存勗の後唐が興ると入貢するなど、時の中原王朝と結んで呉と対抗した。
杭州城を修築し、水利事業につとめ、文人を優遇するなど内政にもつとめた。 

引用|中国史人物事典~呉越


・銭鏐(せんりゅう):852~932
杭州の人で、字は具美。幼少の頃は近所の子供と隊伍を組んで仕切っていた。長じて無頼漢となり、復讐や仇討ち、塩の密売などを行った。

乾符2年(874)、王郢の反乱に対する郷土防衛に応じ、将軍董昌の副将としてこれを鎮圧する。乾寧2年(895)、董昌が邪道妖術を恃みにして羅平国王と称すると、これを打倒して鎮海節度使となり、唐帝昭宗から鉄券を賜る。これより杭州一帯に勢力を振るい、豪華な屋敷を作り、一族に王者の如き服装をさせたりして「海龍王」の異名をとるようになる。

開平元年(907)、朱全忠より呉越王に封じられ、尚父の称号を賜る。朱全忠の命を拒むよう勧める者もいたが、三国時代に魏から独立した孫権の例を引き合いに出して聞き入れなかった。

二十五年もの統治において、中原の王朝(後梁および後唐)に臣従して呉に対抗し、水利事業に精力を入れ、羅隠や皮日休ら文人と親交した。武粛王と謚される。

引用|呉越の君主 - So-net


後述② 許詢

〔約公元三四五年前後在世〕字玄度,高陽人。生卒年不詳,約晉穆帝永和元年前後在世。人稱神童。長而風情簡素,有才藻,善屬文,與孫綽並稱為一時文宗。
好游山水,體便登涉,故時人雲:「詢非徒有勝情,實有濟勝之具。」辟司馬昱稱其「妙絕時人。」著有文集三卷,《隋書》、《唐書經籍志》傳於世。

引用|許詢| 中國古代名人錄| 中華博物



4.書誌情報

謝仲墨、楼延丞『明代医学家楼英事略』1962年9月 中医雑誌 掲載




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