天国日記 #1

今日は私の命日だ。こんな風に日記を冷静にかけていることに驚いている。でも、すんなりと受けいれられる程に死はあっさりと訪れた。3ヶ月前に余命宣告を受けて、気持ちの整理ができていたからかもしれない。終活もきちんとした。だからなのかな。友達には「終活なんてしてないで前見て生きろよ。」って泣かれたけど、終活をすることで死と真正面から向き合えた。だからこそ今こんなに清々しい気持ちでいるんだと思う。終活はほんとに良かった。私が死んだ後のドライヤー、手鏡、ポーチ、遺品が全てプレゼントに変わった。遺品は涙を流すものじゃなくて笑顔にするためのもの。死ぬ前の行い一つでこんなに変わるんだって。これも死と正直に向き合えたからかな。私が余命宣告を受けてから、友達は沢山涙を流したけど、それ以上に多くの笑顔を見た。笑顔にすることができた。それが私の人生の一番の思い出かな。死ぬ前の気持ちをこんな風に書いちゃうとどうしても悲しくなっちゃうから、ここら辺でやめにする。前を向いて。前を向くための日記なんだから。

四月二十一日(水)天気―曇り

気がつくと三途の川のにいた。一気に瞬間移動したみたいに、なんの前触れもなく。もちろん直ぐに三途の川と気づいた訳ではなく、周りの状況(周りにはたくさんの人がいた)を見て気づいた。すごく高齢者が多くて、高齢者向けフィットネスみたいだった。入室したことなんてないけど。それで、私みたいな若者はそんなにいなかった。でも四、5人はいた。声をかけてみたかったけれどやめることにした。その時は状況を把握することに精一杯だったから。
私は三途の川の川辺にいて、他の人も川辺にいた。そして下流の方へ歩いていた。皆歩いていた。水浴びをしいてる人はいなかったし、バーベキューしている人もいなかった。私も皆と同じように歩くことにした。とにかく上を向いて。下を向く理由なんてない。私は元々ポジティブ思考だし(入院中は幾分ネガティブになったけれど)、三途の川にいた皆が下を向いてたから、皆を元気づけるために。でも私の努力も虚しく、他に上を見上げる人はいなかった。上を向いて歩くのは生きている時だけなのかな。そう思った。
しばらく歩いていると、渡し場のようなところに着いた。何個あるか数え切れない。とにかく多くの渡し場がそこにあった。それと同じくらい船頭もいた。三途の川を見ると、霧が低くたれ込めていて、ぼんやり薄暗かった。そのせいか、小舟に乗った船頭が急に現れた。そして人を乗せたと思ったらすぐ消えた。
私は比較的空いている渡し場に並んだ。一人また一人と小舟に乗り運ばれていき私の番になった。船頭に導かれた小舟がやってきて渡し場に泊まった。それに私はソっと薄氷を踏むように乗った。ゆらゆらと小舟は動き出した。薄暗い霧の中を進んだ。ちゃぷちゃぷちゃぷと船頭がオールを川に入れる度に音が鳴った。後ろを振り返るともう、渡し場と岸辺は見えなかった。ふと、この船頭は生きているのかしら?と、疑問に思った。でも話しかけることはできなかった。ちゃぷちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷちゃぷ音は次第に体に馴染んだ。徐々に睡魔が訪れ、やがて私は眠りについた。

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