暴力、社会の摂理


人間は動物の域を出ない

様々科学技術の恩恵にあずかり、昨今ではAIだなんだと、よほど高等な営みを編み出しているかのような人間なる有機体も、所詮は動物的とされる本能に規定されている何かによって反応している生物の一種でしかない。
大きな音には敏感に反応するし、自分より大きなものに畏怖を感じるし、暗いところに危険を感じ、寒いと身震いし、腹が減ると意識が研ぎ澄まされ、性欲、食欲、名誉欲、、人それぞれ差はあれ矯正不能な身体反応と心理作用があるはず。

親の怒声

小学生おそらく低学年の頃、親にあれだけだめだと言われながらも、その年頃持ちうる抗えない好奇心からか、ライターを使ってよく遊んでいた。遊びといっても、火を起こしては消しを繰り返し子供の指の力でも、火という一つの非日常的な現象を起こす事ができる不思議な優越感に浸っていただけで、特段何かを燃やしてみようというところまでには至らなかった。しかし、当時住んでいたマンションの絨毯が防火性であるという事を何かの折に親から聞き、ならば試してみたくなってしまった。恐る恐る絨毯にライターを近づけてみて、確かに燃えはしなかったのだが、ちりちりと絨毯表面の毛玉は焦げてしまった。子供の親指くらい程度の絨毯の焦げ跡なんぞばれはしまいと高をくくり、その日をやり過ごそうと思っていたが、まぁそうはいかない。子供の隠し事をしている時のどことない不細工な所作はむしろその隠し事を強調しているかの如くで親にすぐばれた。そもそも焦げた匂いで親はすぐわかったのであろう。親に質される中、とりつくろったごまかしをした後すぐに浴びた父親の怒声によって、下手なとりつくろいのために全力で回していたちっぽけな脳内CPUは瞬時に止まり、素直に謝るしかないというコマンドが打たれたのを身体で覚えている。

対話が重要(らしい)

この件を最近ある40歳手前の小学生の子持ちの女性に話してみたら、女史曰く、最近は怒鳴る前に子供から理由を聞いて、そしてなぜ火遊びはいけないかその危険性を論理的に訥々と説明し、子供の行動動機に向き合いながら行う“対話”なる事が子供の精神発育上重要であるという言説が、専門家界隈やその輩の影響を受けてか学校や親界隈で吹聴されているらしい。
10歳前後の自我も十分に芽吹いていないまだ人間と言い切れるかどうかの発達途上の生き物に、対話がどれだけ有用なのか甚だ理解に苦しむ。しかしこういった叱る前に対話の様な易しい類は、定説化しやすく真向から否定もしにくいのがより厄介だ。どうも子供の教育ひいては人間社会の維持、正しい矯正装置として、動物的な“力の原理”を信じてしまうことは、現世では禁忌され、そう信じる者もマイノリティになりつつあるらしい。
体罰の禁止、反復練習より科学的トレーニング、高圧的な指示、恫喝、、、高等でありたいという観念的な願いからから忌避してきた、力(非科学)というものの排除の極地に向かっている我々は、ついに事の正邪を判ずる縁を論理や法、ルール、専門家、はたまた何かと困ったときの第三者委員会にしか持ち得なくなった。

あの怒声によって火遊びは禁忌されるべきものとして根深く残った自分の精神発育に欠落があったのか、もう一度火遊びの件とその後を回顧してみても思い当たる節がない。少なくともネガティブなトラウマ的記憶となっている気はしないし、だからといって怒鳴ってくれた親に特段の感謝もない。もちろんその後一応ボヤ騒ぎや放火事件を起こした事は一度もない。

他力本願

しかし公共の場でその共空間を破壊する者を瞬時に滅する方法は、論理と法と第三者委員会には持ちえない。ましてやそこに生命の危機が伴う時、自己の判断で力を行使するしかない。無論公権力としての力(警察)の行使はあってしかるべきだが、日常生活レベルの中で生じる細小な悪事にすべて公権力の行使はリソースが及び得ない。その辺りは、町の男共、その土地の名士、地場の力ある者、が社会維持装置としての力を担っていた。
最近電車内、駅でのトラブルの際に、女性ならまだしもそのトラブルの当事者である男性がすぐに駅員を呼ぶらしいが、そもそも駅員はトラブルを解決し危機を排除してくれる責務も力も持ち合わせていない。
力の原理は、それを行使する対象である危機を排除するかそこから逃げるか二者択一である。排除する力もなく逃げるのも惜しく目の前の不届き者を罰してほしいと駅員にすがる成人男性は、まさに令和に至る他力本願の醜い極地という感がする。

力なき社会の生き方

この力の原理を排した社会へいざなってくれたのは我々の父兄のおかげであろう。
経済的な豊かさ、楽、便利を追い求め、また恐怖や死を生活圏の最も遠いところに押しのけてくれた。おかげで、いつでもどこでも欲しいものが手に入ることが当たり前だと思う即物志向人間の我欲に満ち満ちた社会意識が見事に産み出された。必然、各々本能として備わっていた危機に対するセンサー機能は弱化していき、本質的に人間自体を変容すらさせてきた。
そんな人間生物としての生存可能性が高まった住み心地のよさそうな、かつてよりは高等になったであろう社会に生きる我々は、未だに科学、論理では片づけられない何かへの処し方がわからぬまま、その鬱憤を陰湿に処理し続けている。

いつだったか、電車内で刃物を持った狂った女性に男性が複数人に刺され、最後は警察官がその狂女を取り押さえた、というニュースを聞いた。力を行使する前に不意打ちを食らった被害男性もいるだろう。しかし、なぜ成人男性複数人が乗り合わせていただろうその車中でその狂女が行動不全になる様に誰かが処する事ができなかったのか。俺ならやっつけてやったと安っぽい社会ヒーローを気取る必要はない。男として当然行使すべき力を封じて何のために日々生きているのか。そもそもこの件を危機と感じ得なくなった我々の痩せた脳幹のせいか。
生存可能性は高まったはずの社会で個々の人間の生存力はどんどん弱まっていく、特に男の。

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