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隣の芝生は"金色"に見える。

先日、病院に行った。
30〜40分くらい歩いて行った。
病院が終わったらお気に入りの美味いラーメンを食い、また歩いて帰った。
そんな帰り道、道端にツツジの花が満開に咲いていることに気が付いた。
綺麗だった。

行く時も全く同じ道を通っていたはずなのに、その時は何も気が付かなかった。

砂漠に咲く一輪の花

「もし俺が砂漠を歩いていたら、一輪の花でさえ見逃さなかっただろう。」
道端に花が咲いているということがごく普通、当たり前、だから何?そんな認識だから満開のツツジを見ることすらしなかったんだろう。
実際に見たら俺の心は「綺麗」だと感じるのに。

本当の幸せ

美味いラーメンを食う、仲間と酒を飲む、毎日スプラトゥーンをプレイする、Pythonでプログラムを書く、もしかしたら本当の幸せはもう手に入れているのかもしれない。

「本当の夢」

足元の芝生は何色か?

あの人はたくさんの人に好かれてて良いな、あの会社はお給料が高くて良いな、あの国は住みやすそうで良いな、自分の持っている本当の幸せを蔑ろにし、隣の芝生を金色かのごとく見てしまう、人間ってそんな生き物なのかもしれない。
足元の芝生は青色なのかもしれないのに。

逆もまた然り…

本当に足元の芝生が枯れていて、青々とした芝生が隣にあるのであれば、それは行動に移そう。現状維持ばかりしているのも良いことではない。
大切なのは、足元の芝生の色と隣の芝生の色を見極めること。

ChatGPTに聞いてみた。

くもんゆ「当たり前に存在するものに対して過小評価をしてしまうのってなんでだろう。」

人間の脳は、日常的に経験することや出来事に慣れてしまうと、その存在や重要性を見過ごしてしまう傾向があります。これを「慣れの効果」と呼びます。
例えば、毎日使う自分の家や車、周りにある自然や環境などは、日常的に目にすることが多く、特別な感動を覚えなくなってしまいます。また、何かを持っていることや、周囲が持っているものと比べたときに、自分が持っているものに対しては価値が減ってしまう「相対化の効果」も関係しているかもしれません。しかし、何かを当たり前に見過ごしてしまうことは、そのものが失われたときに初めてその大切さに気づくことになります。そのため、意識的に当たり前のものに感謝することや、その重要性を再認識することが大切です。

ChatGPT

最後に

マダラの画像は使いたかっただけ(笑)

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