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こんな番組をやってきました

新聞記者は自分が手掛けてきた仕事として著書を紹介できますが、テレビの記者ってなかなか紹介が難しいですよね。でも今の時代、こうしてnoteを使えば紹介しやすい。そういうモデルとしてもまとめてみました。(ストレートで書いた独自記事なども含めたいのですが、キリがないので今回は番組に絞りました)テレビ局記者の皆さん、やってみては。

沖縄局記者時代(1990~1995年)

この時代、リポートは何本も作りましたし、九州・沖縄管中の番組にはいくつか関わりましたが、全中の番組で関われたのは一本だけでしたね。

1990年 ドキュメント'90「沖縄暴力団抗争」

これは当時の「NHK特集」(NHKスペシャルの前身)ではなく、緊急特番的に全国放送された番組。一年生記者として暴力団事務所周辺の住民取材などに当たりました。この後も暴力団関係の管中番組にはいくつか関わりました。

社会部記者時代(1995~2004年)

東京の社会部に行って国税担当記者となり、最初に手掛けたのがこちらの番組です。初めてクローズアップ現代でのスタジオ出演もしました。

1996年「ねらわれた宗教法人~宗達絵巻・所得隠しのからくり」

「幻の国宝」とも呼ばれ、段ごとにズタズタに切り分けられて売買されていた俵屋宗達の絵巻がどこに流転していったのかを追跡。売買には休眠宗教法人が利用されていました。その実態を、東海~関西地方を駆け回って調べ上げました。沖縄時代から鍛えた登記簿読みの力が役に立ちました。

次に手掛けたのがNHKスペシャル。当時、社会部は「ストレート原稿重視で番組は二の次」という方針だったので、しばらく記者がNHKスペシャルに関わることはありませんでした。一計を案じたリーダーの道脇清文記者が、のちに理事にまでなる中田裕之ディレクターと水面下で結託し、ようやく解禁された番組参加でした。

1999年「なぜ融資は続けられたのか~長銀 経営陣の選択」

長銀で融資を担当していた特別なセクションのある方と仲良くなり、現場で行われている融資の実態を取材することができました。番組にはリポートで出演しています。

私、経済事件だけでなく、災害前線に投入されることが多く、(調査報道を地道にやっている遊軍記者は、暇だと思われがちなようで)そういう番組にも関わるようになりました。

2000年「眠れない島 地震はなぜ続く」

震度5以上の地震が続く式根島の前線へ。取材基地にした民宿が揺れて壊れそうで、夜中に何度も道路に飛び出したことを覚えています。番組では現地から中継リポートをしました。

その後、国税担当から外務省担当となりましたが、やはり自分の取材テーマだった「公金」の問題が、向こうからやってきました。番組では会計担当者たちの取材と、スタジオでの解説を担当しました。

2001年「公金流用~外務省・腐敗の体質」

週刊誌などで「三悪人」と書かれた会計担当者のうち一人は別の取材で以前から知っている人で、確かに法律に違反することをしたのではありますが、そもそも外務省という機密費が横行するところで「そういう役割」を担わされていたところがあり、理不尽を感じました。
彼が逮捕直前に入院していた病院にお見舞いに行ったところ、ナースセンターで彼の名前を告げたとたんに警視庁の捜査員と思しき三人ほどがバッと立ち上がって睨まれ、ビビりましたねー。
彼は憔悴していたものの体のほうは元気そうで、「タバコ吸いに行きたい」と駐車場に出たので、車の中で最後に話を聞きました。

続いても外務省絡みですが、政治とカネの問題を調べる国会担当になってから携わったものです。

2002年「鈴木宗男議員・資金集めの実態を追う」

鈴木議員と「ムネムネ会」と呼ばれる彼と近い議員たちの政治資金収支報告書を読み込んで、資金の流れを洗い出す担当をしました。番組ではスタジオ解説をしましたが、取材班の右代表でやっただけ。捜査当局の方針などについては先輩記者たちの取材結果をそのまま読んだだけで、正直、不完全燃焼な取材でした。

国会議員の秘書というものが、いかに怪しい活動をしているかと思い知ったのが次の取材でした。

2002年「追跡 工作資金3億円~ダイオキシン特需の裏で」

本当に何人もの「秘書」に会いました。特に「私設秘書」というものは…その頃の東京では、あるホテルのロビーに「私設秘書」や怪しい人たちが集まっていることも知りました。
ネタは後輩が引っ張ってきたものですが、企業側の内部に足場を作り内部資料を引っ張れたのと、政治家側の献金受領の支えになるインタビューが撮れたので、リポートで参加しています。経済事件班の「記者頭」として、そういった取材対象側に足場を作ることが、私の主な役割となっていました。

そんな役割を担って、海外にまで取材に行ったのがこちらです。

2003年「海外ブランド品 闇取引の実態」

香港での取材の経緯はなんといいますかまあ…あんまり役に立っていません。詳しくはSlowNewsのnoteの方にまとめています。

社会部記者時代の最後には、半年の期間をかけてNHKスペシャルを作りました。芸術祭優秀賞をいただいたものです。

2004年「調査報告 日本道路公団~借金30兆円・膨張の軌跡」

国民との約束ではとうに無料開放されていなければならない高速道路が、なぜまだ有料なのか。そこに問題やカラクリはなかったのか。膨大な資料を読み、歴代総裁や道路局長に証言を求めて明らかにしていった番組です。
公団側に理解者を得られたことで、多数の内部資料を得ることができました。オープンデータである「オーラルヒストリー」のパワーも思い知りました。初めて本を書いた番組でもあります。

新潟局デスク時代(2004~2007年)

ここからは、取材者というより指揮官として関わった番組です。結局は自分自身で取材に乗り出したケースも多かったのですが。

新潟局に赴任した時、直前に「新潟・福島豪雨」が起きていて、放送が一週間後に迫っていた特報首都圏という管中番組を作るよう命じられました。いかに無理筋ミッションなのか、分かる人には分かると思います。担当記者が優秀だったので、何とか放送にこぎつけましたが、慣れないデスクという仕事のストレスで痩せ始めました。

そんなに酒は好きではありませんでしたが、自宅で酒を飲むようになり、105キロにまで膨れ上がった体重は、半年で30キロ以上痩せました。無理なくダイエットに成功したとも言えなくもありません。新潟の美味しい日本酒はおすすめです。

10月23日には新潟県中越地震が発生。24時間で編成が組まれ、特別番組を年末までバンバンやっていたので、もはやどういう番組をどうやっていたのか、このころは記憶さえ朧気です。

年が変わり、ようやくまともに物が考えられるようになって制作したNHKスペシャルがこちらです。

2005年「いつかまた故郷へ ~山古志・村民たちの80日」

番組の主人公の一人が、当時の山古志村の長島忠美村長(故人)で、彼との取材交渉には私も出向きました。この頃から、主人公の被災者に密着し、その視点から災害を読み解く自分たちのスタイルが確立していきました。新潟局の記者全員が、誰か、あるいはどこかの家族と関係をつくり、密着した取材を行ってきました。優れた検証報道も数多く生まれたと思います。

地震の被災地が豪雪地帯だったことで、災害はなかなか終わりませんでした。

2005年「“土砂雪崩”が被災地を襲う」

記者たちを引き連れて、クローズアップ現代などの制作で上京する機会が増えていきました。

この年は、その後も災害にまつわる数々の番組をデスクとして出していきました。このうち「遅れる復興」はあまり話題にはなりませんでしたが、その後、東日本大震災で大きな問題になる「復興予算問題」を先取りした番組です。当時の首都圏センターの幹部が、東日本大震災の復興予算の番組を制作している私に「また同じことやっているの?」と言ったほどです。

特報首都圏「暮らしは取り戻せるか~新潟豪雨から1年」
特報首都圏「崩れる斜面の下で 中越地震から1年①」
特報首都圏「遅れる復旧その裏で 中越地震から1年②」
クロ現「終わらない災害関連死」

災害関連死のクロ現では、自ら被災された方のもとを回りました。

翌年は、ちょっと毛色の変わった番組を発信しました。なんと教育テレビのETV特集です。耐震偽装問題などが相次ぐなかで、新潟県出身の名建築家・前川國男の思想から、あるべき建築の姿を追求したものです。

2006年「もうだまっていられない~建築家・前川國男の闘い」

記者がETV特集に関わることは非常にレアケースなのです。もともとは、ローカルニュース番組「新潟ニュースファイル」のリポートでした。新潟県にゆかりのある人物の生涯や業績を現代的な意義から読み解くシリーズの一つで、ディレクター陣も巻き込み、取材を広げて番組化しました。前川國男の建築には私も非常に興味があったので思い切り力を入れ、ナレーションには番組の雰囲気に合うと、NHKが誇る名アナウンサーの一人、加賀美幸子さんにお願いしました。快諾してくださり、私は収録のすべてにびっしり立ち会って、BGMの一つ一つにまで凝りました。

この年にはこちらの番組も発信しました。

特報首都圏「新潟県中越地震から2年」

一度は異例の全村避難となった旧山古志村。その小学校の校舎が再建され、そこから番組を中継したので、感慨深いものがありました。

そして丼愛好家でもある私にとって、思い出深いNHKスペシャルも発信しました。米どころ、新潟ならではの発信でもあります。

2007年「ライスショック~あなたの主食は誰が作る」

それまでの番組でもお世話になった名プロデューサーからお話をいただき、前編は新潟局、後編は秋田局が中心となる珍しい二回シリーズになりました。海外でもコシヒカリなど良質なコメが作られて日本の優位性が崩れていること、ワンカップの日本酒がなんとアメリカのコメを使い、アメリカで造られていることなど、驚くようなシーンの数々が盛り込まれました。
番組を取材している途中で東京の社会部への転勤が決まり、最後は社会部デスクとして番組に関わりました。

社会部デスク時代(2007~2011年)

社会部のデスクになってからは、自分のテーマである公金をめぐる調査報道を徹底していきました。

後に理事になった某プロデューサーに反対されながらも(未だに理由がよくわからないんですよね。色んなことに忖度する人らしいという噂は聞いていましたが)初心を貫き通して放送したNHKスペシャルがこちらです。そういえば、私が作る番組って「借金」多いなあ…。

2008年「大返済時代~借金200兆円 始まった住民負担」

もともとはある自治体の首長から、「国に借金漬けにされる構図がある。結局は自治体の負担、ひいては住民の負担になるのは問題で、自治体間の格差も出てきている」という話を聞いたのがきっかけでした。松江局や奈良局の記者・デスクたちにも呼びかけ、合同取材班で発信しました。

続いては流行り始めた金融商品に関する番組です。

2008年「人気金融商品FXの落とし穴」

FX取引に警鐘を鳴らす番組で、報道局ではなく、番組制作局のディレクター側から声をかけていただきました。ちょうど証券監視委の担当記者もやりたがっていたこともあり、業者側の取材もよくできていたので、比較的短期で作り上げた記憶があります。

国税、証券監視委、会計検査院、公正取引委といった経済事件系の担当記者と、司法クラブの検察担当を合体させ、新たな取材班を作らせてほしいと社会部長にお願いしたところ、「やってみろ」となり、検察キャップを務めました。いろいろといい成果も出たのですが、朝日新聞の「特捜検察の証拠捏造」という調査報道スクープにはやられました。

2010年「堕ちた特捜検察~エリート検事 逮捕の激震~」

はい、いい報道は後追いすることも大事です。記者、ディレクターはこの番組のために懸命に取材をしていましたが、正直、私自身についていえば自分の仕事と胸を張って言えるような働きはできていません。反省の意を込めて敢えて載せておきましょう。

これをきっかけに検察キャップをやめ、社会部の中に「調査報道班」を作らせてもらえました。そこで「特別会計」というおかしな仕組みにロックオンして取材キャンペーンを行いました。その成果の一つがこちらのクロ現。

2010年「エコで赤字!?~特別会計の実態 自治体風力発電」

こちらの番組のほかにも、
ニュースウオッチ9「独立行政法人 消えた巨額公金を追え」
という特集シリーズを3回にわたって展開しました。全ての独立行政法人の財務諸表を徹底的に洗って、「IT産業へのずさん投資による大失敗」などを明らかにしていきました。

仙台局デスク時代(2011~2013年)

東日本大震災が発生、翌日から仙台局へ応援に行きました。断続的に応援に行っているうちに、当時の社会部長から電話があり、「熊ちゃん、そのまま赴任してよ」と言われました。

というわけで、仙台局として「震災キャップ」を務めました。中越地震などでの取材経験が非常に役に立ちました。

本当に毎日、全国やローカルのニュース番組で発信するリポートを制作し続ける日々が続きます。

そして発災1年に合わせて出したのが、こちらの番組です。

2012年「もっと高いところへ 南三陸の苦闘」

住民や小さな自治体に寄り添い、復興庁が本当に役割を果たせているのかを検証した番組です。放送当日、南三陸町の仮設役場から、鎌田キャスターとともに中継で出演しました。

そしてこの番組の打ち上げで、「これまではまずは目の前の命を救うための報道をしてきた。これからは復興予算をターゲットにする」と宣言して取材班を立ち上げ、半年をかけて徹底追及する番組を発信しました。

2012年「追跡 復興予算19兆円」

命を守る現場にすら復興予算が届いておらず、復興とは直接的には関係ない事業に予算が使われてしまっている実態は大きな反響を呼び、時の政権も追い詰められました。ギャラクシー賞の大賞や、放送人グランプリ、放送文化基金賞のテレビドキュメンタリー番組賞をいただきました。内部的にはNHKの会長賞もいただいたので、政権が何を言っても番組は出るし評価はちゃんとする、という姿勢はうかがわれました。まあ色々と犠牲にしたものもあったのですが、それはまた別の機会に。

そして仙台局時代の最後には、私がとても大切にしているNHKスペシャルを放送することができました。

2013年「わが子へ~大川小学校 遺族たちの2年」

「なぜ顔写真が必要なのか」と問われることがあります。答えの一つがこの番組です。人は「わがこと」と思えなければ、共感もなく課題解決への意欲も持ってくれません。番組には各メディアに賛否の意見が掲載されましたが(ある夕刊紙など、同じ日のある面では評価する意見、別の面では批判する意見が載っていました)大川小学校については別に検証報道・調査報道も多数やってきており、この番組ではこの番組にしかできないことを表現したつもりです。

おはよう日本チーフプロデューサー時代(2013~2014年)

このまま被災地で報道を続けたかったのですが、異動の発令を受け、おはよう日本の「サブ編」(曜日ごとにいる編集責任者の補助的な役割)を拝命しました。予期せぬ異動、それまでと全く違う業務をやることになり、「この先は余生だ」とうそぶいていたのですが、日曜班でとてもいいメンバーに恵まれ、実に楽しい一年を過ごすことができました。放送を終えて日曜の朝10時ぐらいから飲む酒も格別でした。

ローカル放送局はネタの宝庫だと思っていた私は、どうにかして演出もよくしようと、そのころ注目され始めたデータジャーナリズムをやってみようと、シリーズを仕掛けました。

2014年「データファイルジャパン」

特設サイトも作ってもらったのですが、もう存在していません。でもこんな記事を書いてくれる人がいたので、雰囲気はわかるかと。

大手メディアとしてはいち早く「消滅可能性自治体」の問題を取り上げるなど、各局と組んで6回シリーズを放送しました。バーチャルスタジオも話題になりました。

おはよう日本時代では、こちらの作者の方にも出てもらい、本の内容をリポートにしたりと、趣味に走ったことをいろいろやりましたねー。

そしてやっぱり震災報道は続けていまして、こんな特番にも関わりました。タイアップした本も出版しましたよ。

2014年「未希、あなたの声が~亡き娘と生きる両親の3年」

社会部ネットワークデスク時代(2014~2017年)

再び社会部に戻り、新聞でいう「地方部」に当たる社会部ネットワークのデスク、そして統括を務めました。私自身で番組を手掛けるというより、デスクたちが発信する番組に意見する立場になりました。

ネットワーク報道部時代(2017~2021年)

社会部ネットワークと報道局遊軍、ネット報道部が合体して2017年にネットワーク報道部ができました。やはり自身で直接番組を手掛ける機会はあまりなかったのですが、一本だけNHKスペシャルに直接関わることになりました。編集人を務めていた「政治マガジン」とも連動していたからです。

2019年「崖っぷち!わが町の議会」

地方議員全員を対象にするという、空前の大規模アンケートを行いました。スタジオ収録の際に、元乃木坂、AKBの生駒里奈さんの勘の良さ、頭の回転の良さに舌を巻いたのを覚えています。

こうした大型番組とは別に日々のニュースもあるのですが、そういった中で一番大変だったのがこの人。

ヨミ子着物2

もー本当、毎週たいへんでした…これ書き出すと長くなるので、詳しくはいずれ。

というわけで、だいたいこんなものですかね。
一つ一つの調査報道についても記録しておきたいところですが、そちらは勉強会の際の資料として残すことにしましょう。


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