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『デジモンストーリー ロストエボリューション』に見えた、大人×異世界

本日2023年7月1日は『デジモンストーリー ロストエボリューション』発売13周年です。
おめでとうございます!

もう13年か…早いな…
今年は有志による非公式の英語翻訳パッチも登場して(公式版を出してほしかったが)、数年越しにロスエボという作品が多くの人に触れられた年だったように思う。

この記事を見つけて開いた人はおそらく該当作品のプレイヤーくらいだろうと思うので、ゲームの概要説明などは省略する。
代わりに自分のデジモン歴でも紹介しておこうかな。

私が最初にデジモンに触れたのは、小学生の夏休みに、初代『デジモンストーリー』をプレイしたのがきっかけだった。
それ以前にも、雑誌で掲載されていた『デジモンフロンティア』の漫画(コミカライズによるオリジナルストーリーではなく、アニメの静止画をそのまま持ってきて、セリフやナレーションを書き足して漫画という体で掲載していた形態のやつ)などで見かけてはいたが、実際にデジモンという作品とじっくり向き合ったのは、これが初めて。
おジャ魔女どれみやセーラームーンの少女向け作品も好きだが、ポケモンや○○戦隊などの少年向け作品も大好き…という空想の世界真っ盛りの小学生の夏休みは、家族がプレゼントしてくれた『デジモンストーリー』と共に始まった。
今思えば、夏休みという、デジモンにおいて特別な意味を持つ時期にデジモンに触れられたのも、結構嬉しいことだったのかも。
見知らぬ世界に迷い込む主人公(自分)、そこで生きる、強くてかわいくてゴツくてかっこいい(しかも喋れる!)モンスターたち、デジモンと共に在る選ばれた子供たち、その秘匿された世界に混ざり込む特別感…デジモンの世界観が持つ魅力に、小学生の心はあっという間に鷲掴みにされてしまった。
それ以降、TSUTAYAでビデオを借りまくって『デジモンアドベンチャー』から順にアニメシリーズを制覇したり、新作のゲームやお気に入りのデジモンが収録されたカードパックを買ったり…という感じで、今に至る。
リブート作品や過去作品については触れられていないものも多々あるが、大体のアニメ本編や映画作品、いくつかの新作ゲームには触れて、新作が出れば情報はチェックしている。

その中でも、『デジモンストーリー(以下デジスト)』シリーズは特に思い入れの強い作品で、全作品プレイ済み。
デジストシリーズは、テレビで見た太一や大輔たちのように、初めてデジモンと出会った小学生のあの頃の夏休みのように、自分が物語の主役になって、長くも短い特別な体験をさせてくれる作品だと思っている。
徐々に子供心を忘れていく自分が、特別な存在である子供になって、頼れる相棒と出会い、異世界を冒険して、仲間たちと困難を乗り越えていくことができる。
あのクーラーの効いた部屋と、ガラス戸越しのセミの鳴き声の中、デジストをプレイした時の記憶を、鮮明に思い出させてくれる。
そういう体験が心から好きだ。

で、そんな中でなぜ「デジストシリーズ三作目の『ロストエボリューション(以下ロスエボ)』の話なの?」という本題に戻る。

※この記事は考察や布教目当てというより、自分のための思考整理や備忘録的な意味合いが強いです。
※自分の観測した作品の範囲の話しかできないので、ご容赦ください。
※この記事にはオタク特有の、自分に都合のいい願いや深読み、妄想、感想などが多分に含まれます。
※当然のようにネタバレもします(なぜか別作品のネタバレもあり)。



デジモンと「選ばれし子供たち」、そして大人

デジモン作品において、多くのキャラクターは「子供が主役で、それを見送り手助けをする存在が大人」というポジションで設定されている。あるいは、子供たちの夢や理想を踏みにじり、平和を脅かす悪として主人公と敵対する大人がいる。
そうでなくとも、当時の異世界もの(最近では大人が転生・冒険するのが主流だが)では、未成熟な子供が異世界での冒険を通じて人間的に成長し、それぞれの日常(元の世界)に戻っていく=王道というイメージはあったように思う。
子供向け作品なので、当然といえば当然なのだが。
それまでの私にとって、「『デジモンアドベンチャー02』のヤマトのお父さんや、『デジモンテイマーズ』の山木さんみたいな、デジモンとは直接関わりないけど、主人公たちを陰から支えてくれる役割の大人はかっこいいな~」というのがデジモン作品の大人キャラへ抱く感想だった。
異世界での冒険と成長は、子供たちのもの。
大人は既に成長していて、冒険を必要としないもの。

別に間違いではない。大人とは子供にとって頼れる存在であるべきだ。利己的な価値観で他者を害する大人は倒されるべきだ。反論の余地もなくそういうものだと思っていた。

そんな価値観が固まりつつあり、物語は好きだけど、多くの作品に触れているわけではない私が中学生くらいの時、「そういえばデジスト新作出てたからプレイしなきゃ」と一年遅れで手に取り、何気なく始めたロスエボ。
タイトル画面を見て「今度は明確に敵対キャラがいるっぽいな?」と珍しく思いつつも、「またひと夏の冒険を楽しませてくれるんだろうな」というお決まりの文脈だけを求めていた私の予想は、徐々に打ち破られた。


大人でありながら未熟な冒険者 バンディッツ

「お邪魔キャラ」としてキービジュアルやタイトル画面にも出てくる、当作品のメインキャラ「バンディッツ」。
お邪魔キャラ。確かに何度も作中で衝突はするが、公式からは決して「敵対キャラ」や「悪の組織」として紹介されていない。
今でこそ思うが、彼らはロスエボにおける裏の主人公だったと言っても過言ではないのではないだろうか。

私はゲームのストーリーを終えて、物凄く簡単なことに気付き、大きな衝撃に貫かれた。

大人でも、冒険して、成長していいんだ!

バンディッツは成人男性二人に幼い少女一人で構成されたグループなので、厳密には大人と言うと齟齬が生じるが、それでも彼らは「大人」、しかも実質的な味方ポジションでありながら「欠点を前面に押し出した、未成熟な大人」として設定されている。
時に子供のような物言いで主人公と衝突し、かと思えば大人特有の達観した態度で子供を突き放す。
それにも関わらず、「デジタルワールドを駆ける大人テイマー」として、明確に描写されている。
彼らは主人公一行よりずっと前から、デジタルワールドに辿り着き、テイマーとしての経験を積み、世界を救うために暗躍していたという。
ということは、彼らは主人公たちと、他の作品の選ばれし子供たちと同じように、パートナーと出会い、デジタルワールドを冒険して、絆を深めたり成長したりしたのか!
それに気付いた時の、驚きと喜びは凄まじかった。

他の作品でも、デジヴァイスを授かり、パートナーデジモンを得た大人は大勢いる。
アニメ『デジモンセイバーズ』におけるDATS関係者や、『デジモンストーリー』のコグレとか。
詳しい描写はされてないだけでNPCに大人のテイマーはいるし、ロスエボ以前のデジモン作品でも「冒険と成長を経験する大人」がいるのかもしれない。
私の知る範囲では、やはり歴代の味方ポジションの大人たちは、あくまでも子供たちの成長を見守り、導く役割に徹して、かつ成熟していたように思う。

バンディッツはどうだろうか。
ウーノとドース、二人の年齢はどちらも20代(何回見ても言われなきゃわからないな)。
どこの国基準だとしても、大抵成人している年齢ではあるが、ゲームを開発した日本が想定する22歳と28歳と言うのは、「大人なりたてのほぼ子供」と「大人として少し経験を積んだ若造」くらいの年齢でしかない。
ウーノに至ってはまだ大学生半ばでもおかしくないくらいの年齢のはずだ。
小中学生くらいの子供から見れば大人、社会人経験を積んだ大人から見ればまだまだ子供という、中途半端な年齢のキャラクターだ。
おまけに本編がこんな殺伐とした状況だからか、元々の性分なのか、性格の方もスレにスレまくっている。
小学生の主人公一行と真っ向から言い合いをして、それを最年少であるトレースに宥められるという場面もしばしばあった。
争いは同レベルでしか発生しないとどっかの誰かが言っていたが、「(今までデジモンで見てきた)大人にしてはやたら子供っぽい(そしてトレースは年齢不相応に大人びている)」、というのが、プレイ中バンディッツに抱いた印象だ。

しかし、(セリフ回収のための)二周目をしていて、気付いてしまった。
当然、彼らがただの「未成熟なだけの大人」で済むはずがない。
メインキャラクターとして据えられている以上、意味がある。
子供が主役であるはずの作品で、大人であるはずのバンディッツにスポットが当たっているということ。
大人でありながら、デジモンたちと絆を結び、リアルワールドと決別し、仮想世界であるデジタルワールドに居場所を見出し、そこに訪れた危機を解決するために命懸けで戦っているということ。
それは子供から冒険や成長の機会を奪うことでも、子供を守るべき大人としての役割を放棄することでもなく、大人も成長の余地がある不完全な人間であるということ、大人が大人のまま夢を見続けることの肯定であるように感じた。


バンディッツを纏めるリーダー ウーノ

小心者で喧嘩っ早い、どこか小物の印象が抜けきらない大男。
その設定を遺憾なく強調するエピソードとして、冒頭のリアルワールドにて、ウーノがデジシップから出てこないトレースに「なにを グズグズしてんだよ」「おまえも デジモンごと ここに おいてくぞ!」と怒鳴るシーンがある。
中々出てこないトレースを心配するドースに対して「なんなら ホントに あいつごと ほっぽりだしても いいぞ」とまで言っている。
初見で見れば、短気な男が、年端も行かない少女に痺れを切らし、保護する責任を放棄しようとして、当たり散らすシーンでしかない。
何か違和感を覚えながらも、こんなのがリーダーでいいのだろうかと、当時子供ながらに思った記憶がある。

しかし、ゲームをクリアした上で改めて見れば、そんなはずがないことに気付く。

なぜなら一連の流れは、カーネルによって危険地帯となったデジタルワールドから一時的に脱出し、仲間であるヌメモンを、安全な場所であるリアルワールドに逃がすシーンだからである。
そこでリーダーであるウーノが、「ついでにお前もここに残れ」と、トレースを心配するシーンだったのだ。
それを裏付けるように、ドースからも「ウーノも ムリしてるみたいに みえるデスけどね」と言われている。

トレースは、チームに不可欠の実力者である。
彼女が抜ければ、今まで回避あるいは対処できていた危険に、対応しきれなくなるかもしれない。味方のいないデジタルワールドに戻ってカーネルの野望を止める気満々な以上、シンプルに生存率が下がる。
そんなことは承知の上だ。
トレースは大人顔負けの頭脳を持っているし、性格も大人びてはいるものの、事実としてどうしようもなく子供で、危険から遠ざけ、大人に守られるべき存在であることに変わりはない。
それを理解して、対等なチームメンバーとして扱ってきたトレース本人に気を遣わせないように、身内の心配を優先した末に出てきた言葉がこれだ。
庇護と責任の放棄とは真逆の、ぶっきらぼうでパワー系キャラであるウーノがチームを背負うリーダーとして出した、トレースの安全とプライドを考えた末のセリフなのだ。
それが冒頭シーンの全容だ。こんな不器用な伝え方、あるか?
この信頼関係を、一見何でもない、信頼とは真逆のシーンであるかのようにお出しされていたことに気付いた二周目の私はひっくり返った(オタクはクソデカ感情に弱いため)。

それ以外にも、半分自分たちのせいで巻き込んでしまった主人公に対してもたびたび不遜な物言いで、早くリアルワールドに戻るように言い放つセリフがある。
乱暴な言動ではあるが、常に子供の身を案じる人格者、彼も立派な「大人」側の人間なのだ。

ウーノ関連で一番好きなセリフに、全てのクエストをクリアした時にだけ受けられる、バンディッツからの挑戦状でのものがある。
主人公とのタイマンに負けた彼は、「つぎに あうときは… オレが しゅやくで おまえが かませイヌだ!」と堂々と(そしてどこか爽やかに)言い放つ。
「だいじなのは リクツじゃねえ! ノリと キアイと イキオイだ!」と序盤からいかにも熱血キャラみたいなことは言っていたが、やっぱり主役願望あるんだな…と笑ってしまう子供っぽさが潔くて好きだ。

それと、初めて「EXイレイザーγ」と対峙した際に、自分たちのことを「カラダが ちっこいのと キモッタマが ちっこいのと ウツワが ちっこいのが いるんだけどな」と自虐を口走っていたのも印象に残っている。
おそらく「器が小さい」がウーノ自身のことだろうと思うが、普段の自信に満ち溢れた態度の裏で、自分がリーダーとしてふさわしくないのではないかと自覚して悩んでいるのが、人間臭くてたまらない(これを横で聞いていた、チームを引っ張っていると言われる実質リーダー的ポジションのトレースはどう思ったのだろうか?)。
よく見れば、無茶をやる時の相手に喰って掛かるようなセリフは、そのまま自分を鼓舞するような意味にも取れるものが多い気がする。理不尽な状況に追い込まれたからこそ、リーダーとして能力がなくとも、自分がやらなければならないという強い意志を感じる。
仲間を振り回して迷惑をかけているというのが公式からの紹介だが、ストーリーを見て、ウーノほどリーダーにふさわしい人はいないのになと私は思っている。ドースとトレースにとっても、そうであってほしい。


チームを陰で支える技術者 ドース

ウーノとは対照的に皮肉屋で気取り屋でボヤキ屋という、これまた大人という括りで見た時、性格に難のあるキャラクター。
おまけにメカニックという立場上、まともに活躍するのは終盤の印象が強いが、よく見ると彼も要所要所で重要なシーンがある。

主人公の仲間であるアスカとローカルチャンプとして戦う際、彼女の側に控えているのが、「EXイレイザーβ」。
後に分かるが、ドースの変身した姿である。
そういえばウーノとEXイレイザーγと戦った際、彼の姿は見えなかったが、実はこんなところで再会していたのだ。
場の進行は全て洗脳されたアスカが機械的に担当して、EXイレイザーβ(ドース)は一言も喋らないまま戦闘が開始。
敗北したアスカに「チャンプでなくなった以上、お互い必要とする関係ではなくなったから去りなさい(要約)」と言われた際も、「…」の吹き出しを発するも、黙ってその場を去っている。
主人公とピコデビモン(元ピコ)には「赤いデジモンがアスカを攫った」と認識されていたが、改めて見ると洗脳され、デジモンも持たずに彷徨っていたアスカを保護し、仮のパートナーデジモンとして、主人公が迎えに来るまで側で守っていたのではないかと思える。

他にもドースの功績を思いつくだけ挙げると、
・ウーノの誤解されがちな発言にフォローを入れる
爆発に巻き込まれ諦めムードだった中で一人思い直し、仲間二人と、イレイザーにされた多くのテイマーとデジモンたちを直接的に救っている
・エンディング後に他の二人が匙を投げたカーネルの扱いを一手に引き受けている
・攻略本でお邪魔キャラの中で唯一、アドバイス役としてセリフを貰っている
…などなど。「心配性のお節介焼き」としての部分があちこちに見えてくる。
続編でゲスト出演した際には「ちっこいのの あつかいは こっちのほうが うまいデスよ!」「コドモあいてに ホンキに なれるハズ ないじゃないデスか」との発言をしていた。
デジモンシリーズ恒例の、「グループ最年長で、年下を預かる年上としての自覚と責任を持つキャラクター」の要素が垣間見えるセリフだ。
ドースもまた、大人としては完成されていない不器用さを持ちながら、子供を見守る大人の一人であると思わされる。

好きなシーンを選ぶとすれば、やはり同じくラストクエストの勝負にて、こちらが勝った時のセリフ。
「つよく なったデスね よく がんばったデス!」と、今までのどこか呆れたように子供をあしらうセリフとは対照的に、真正面から主人公を褒める言葉を投げかけてくる。
他にもとあるイベントでの主人公宛のメッセージや、続編でも自分たちに打ち勝った主人公(タイキ)を認めるセリフがあることから、捻くれてはいるものの、全力でぶつかり合い、実力を認めた相手には素直になるらしい。
それが例え年端もいかない子供相手であっても、その奮闘を受け止め、成長を認めて素直に褒めてくれるというのは、彼の大人としての長所のように思える。

あと、超クロでのゲスト出演時に、負け続きで後がない4試合目直前の掛け合いの中で、ウーノに切り札として「"アレ"(Ωへの合体)をやる」とだけ言われて、真っ先にカーネルを思い浮かべて言及する(そして呆れられる)シーンも好き。
普段はアレなカーネルだが、何だかんだ先輩テイマー兼天才技術者として、いざという時には尊敬し頼れる(自分より)大人の存在として認識している…のかもしれない。


子供でありながら大人びた少女 トレース

バンディッツの紅一点。高飛車で毒舌という短所を持つが、それすら魅力的であり、わずか7歳にして凄腕テイマーという、なんとも要素が盛りだくさんなキャラクター。
ゴスロリ風の衣装と幼くかわいらしいビジュアル、ギャップ的なクールな物言いばかり注目される彼女だが、彼女も立派なバンディッツのメンバーだ。

ウーノの項目で「いくら大人びているとは言っても、彼女もまだ幼く庇護の対象たる子供である」と述べたが、主人公側の子供キャラに比べると、どこか達観し、異様なまでに大人びている。
カーネルに取り込まれ自爆に巻き込まれそうになった際には、「カッコつけなきゃ もうチョイ ラクに いきられたかもね?」と早々に自分の人生を諦めるような発言までしているのだ。
いくらかませポジションとはいえ、デジモン作品においては異例の存在である。

彼女は公式で頭脳担当の天才少女という設定がある。
そのクレバーさとテイマーとしての実力は、大人であるウーノとドースを凌ぐという。バンディッツの最終兵器の肩書きは伊達ではない。
(逆に言えば、強敵を前にすれば大人二人が子供に守られる側ということになる。それでいいのかとは思うが、その辺は本人たちが一番葛藤していそうなので、敢えてここへの言及は割愛する)

では、トレースの長所はその頭脳の明晰さとテイマーとしての強さかというと、少し違う気がする(彼女の強みであることは確かだが)。

トレースは、エンディング後のあるイベントにおいて、リアルワールドに帰る選択を勧められた際「……それは イヤ」とはっきりと拒否している。
想像でしかないが、子供ながらに子供らしからぬ視点を持っていた彼女は、同じ年代の子供と馴染めず、周囲の大人からも扱いに困られ、リアルワールドでは孤立し居場所がなかったのではないかと思う。
どこにも居場所がないということの孤独や虚しさや厳しさは、大人でもよく知るところである。頼れる大人が必要な子供であるなら尚更だろう。

そんな中、自分が生きるべき世界をリアルワールドではなく、デジタルワールドに見つける。
デジタルワールドと、ウーノとドース、そしてデジモンたちに、偽ることのない、長所も短所も剥き出しの、ありのままの自分を受け入れられている。
だからこそ、ウーノとドースも変に大人ぶらずにトレースと喋るのだろうし、そんなトレースは二人の不完全さに呆れながらも対等な人間として付き合う。そして弱いなりに一生懸命戦うヌメモンたちを見捨てない。
そしてトレースは、彼らのために戦うことを選んだ。

よくよく考えれば、ロスエボでの事件(というかロスエボ以前のデジモンストーリーは基本的に)はデジタルワールド全体の危機であり、そこにいるテイマーたちの危機でもあるのだが、リアルワールドには一切なんの影響もない。
もしかしたら過去作品のラスボスたちはリアルワールドに進出したかもしれないが、今作に限ってはラスボスの目的を考えると、完全にデジタルワールドだけが危険に曝されており、やろうと思えばリアルワールドに帰ることもできる。というかバンディッツは序盤に一回帰っている。
にも拘らず、デジタルワールドに戻ることを選び、自分から危険の中に飛び込み、デジタルワールドと、そこにいるテイマーとデジモンたちのために戦っている。
「頭脳」という自分の持てる武器を使って、自分を認めてくれた仲間と、自分を受け入れてくれた居場所を守るために戦っている。
自分を認めてくれたものは、例え周囲の人間に誤解を受け、敵の手先だと蔑まれ孤立しようと、手を差し伸べ絶対に見捨てない。
それが彼女の誠実さであり、一人の人間としての美徳であるように感じた。

トレースの最も印象的なセリフに、上記の長所を押し出したセリフを選ぼうと思ったが、個人的に一番印象に残っているのは、世界を救った主人公への伝言での彼女のメッセージだった。
ウーノとドースが上機嫌で(しかしどこかわざとらしく)主人公を褒めそやす中で、彼女だけが『…じゃあね チャンプ ありがと さよなら』と呟くように別れの言葉を告げてくる。
このセリフを見た時、バクンと心臓が嫌な跳ね方をしたのを今でも覚えている。

出尽くして同じ言葉を繰り返すテキスト然り、メタ的にさよならを告げるキャラクター然り、私はゲーム内で明確に終着点を示されるのに滅法弱く、それはゲームにハマればハマるほど聞きたくない言葉の一つであった。
私は作品の世界とキャラクターに触れるためにゲームをやっていると言っても過言ではなく(なので対人要素にあまり興味がない)、この言葉を聞いた時、ああ、このゲームは終わりに向かっているんだな…と寂しく思った。
あと少しのイベントをこなせば、もう「主人公」として自分はこの世界でやることがなくなってしまう。いくらゲーム内で自由にデジタルワールドを冒険できても、キャラクターの役目は終わって、物語は閉じて、同じテキストを繰り返すだけの存在になってしまう。
けれど二周目でこのセリフを見た時、今までの冒険や彼女の性格を改めて思うと、巻き込んですまなかった、もう自分たちと関わることなく自分のやりたいことを自由にやってほしいというエールのように感じることができた。
(もちろん既にバンディッツのことが大好きになっていた自分は今でも彼女たちとまた会話したくて何度もゲームをつけては彼女たちが滞在するダンジョン最深部に既に暗記したセリフを見に行っているし(一方的に会話が進行し主人公を認識してくれないのも寂しい)、新たな活躍が見たくて何度も何年も主役として再登場したらいいのになと思っている。突然の長文自分語りすみません。隙を見せたあなたが悪い)
プライドが高いバンディッツらしい、格好はつかないが後を引かない最高の別れのセリフだ。いややっぱり寂しいです。超クロでの再登場は本当に嬉しかった。

余談その1。
彼女は背中に羽のような装置を装着して常に浮遊しているが、あれは危険な場所を容易に移動するためのサポーター的な役割なのか、それとも大人である二人と目線を合わせて、物理的に対等に話すためのものだったりするのだろうか…
おそらく開発者はドースだろうが、どういうやり取りがあって作るに至ったのか、想像が尽きない。

余談その2。
トレースといえばヌメモンが相棒だが、幼い少女にヌメモンの組み合わせと来ると、『デジモンアドベンチャー』の八神ヒカリを明確に意識してデザインされていると感じる。
ヒカリは子供がもつ純粋さや無垢さを押し出したキャラだが、トレースは反対に大人のスレた価値観や自暴自棄さを兼ね備えているのが面白い。
どちらの子供もデジモンやデジタルワールドに真摯であったことは共通だ。
そしてどちらの作品のヌメモンもその想いに応えるように、自らの危険を顧みず、自分より強い敵に立ち向かっている。
トレースは毒舌家で無垢というには難しいキャラクターかもしれないが、(カーネルの言葉を借りるなら)信じられるもの、信じるべきものを信じて突き進める純真さと愛情深さが彼女の本質なのかもしれない。


デジタルワールドの創造主 カーネル

デジタルモンスターという歴史全体から見てもかなり重要なポジションのキャラクターが、サラッと生み出されて、そしてサラッと役目を終えている。
いいのか?

まあデジモンは基本マルチバース設定のインフレ作品だしいいか…

「デジタルワールド」という(ロスエボにおいては)人工的な世界を創造したエンジニアの一人。功績者。そのアバター。
ロスエボ以前にもイグドラシルのような管理者はいたが、明確に創造主が言及されたのはカーネルが初めてではないだろうか。
一言目から胡散臭さ満点の言動、中途半端にいいカオ、引き起こした事件の被害を思うと言及しづらいが、彼もまたロスエボに出てくる大人テイマーの一人である。
こちらはバンディッツと違い黒幕な立場の人物だが、ただ利己的で支配的なだけの悪と定義するには尚早な気がする。

「データ容量の増えすぎたデジタルワールドを整備管理するために、不要なデータは消去(イレイズ)し、優秀なテイマーとデジモンは融合(ジョグレス)してサイズを縮小し、よりデジタルワールドの活動に適した生命体として残しておく」という、要するにイグドラシルじみたことを、(アバターとはいえ)元人間の身で平気でやっている。人の心無いんか?

世界の創造主、それでいいのか?と思わなくもないが、彼は「テイマー同士の抗争」と口にしている。
いつからアバターとして活躍していたのかは分からないが、ラスボス戦でのセリフから察するに、途方もない長い時間デジタルワールドを監視する役割に徹した末、テイマー同士の諍いやそれに加担する(させられる)デジモンたちに幾度となく裏切られ、心が消耗(バグったという方が正しいかもしれない)し、「デジタルワールドの維持」という最優先事項だけを見据えた、今回の計画を実行してしまった、ということだろう。おそらく。

今更だが、当作のサブタイトルは『ロストエボリューション』である。
日本語にするなら「失われた進化」。
進化と退化の自由さや多彩さがウリであるはずのデジモンたちの「進化」が鍵になっている。

作中ではカーネルが使役するイレイザーによって「進化ツリーが破壊され、デジモンが自由に進化することを奪われてしまう」という事件が起こされている。
そして、カーネルがラスボスとして、デジモンに似た生命体「イレイザー」と化した時の名前は、「ギガデヴァスト/テラデヴァスト」である。
Devastで検索すると、「荒廃させる」という訳が出てくる。

当作品のラスボスを務めるカーネルは、徹底して「停滞、もしくは退廃」を選択しているのだ(カーネルにとっては革命であり進歩なのだろうけど)。
エンジニアとして皮肉な話だが、「子供の冒険物語と、失われた進化」をテーマに添えた時、彼を「大人」として見るならカーネル以上にふさわしいポジションはないだろうと思う。

デジタルワールドはデータで構成された世界である。
なら、いつかはデータ容量の限界が来てしまうのは当然だ。
長い間アバターとして存在する内に、デジモンへの生みの親としての愛着を忘れ(あるいは放棄せざるを得なくなり)、世界を生み出した技術者としての責任から、長く効率よく運営していくための手法を問われている。

デジタルワールドという世界ならではの問題で、この議題を背負えるのは、創造主たるカーネル以外にいないだろう。
既に故人でありながら、他人への信用を無くし、擦り切れた大人の価値観で彼なりにデジタルワールドの秩序を保とうとする、カーネル。
それに対抗するのが、夢や希望を胸に世界を冒険する子供である主人公と、まだ大人になりきれていない、子供のような理想論を振りかざす大人であるバンディッツ。
有用な存在として生み出されたイレイザーと、カーネルが不要と断じたデジモンたち、そしてイレイザーでありながら絆の力で合体したEXイレイザーΩ。
デジモンたちと出会い、冒険し、デジタルワールドに愛着を持った彼らが、大人として様々なものと決別したカーネルと対峙する。
デジモン作品における子供と大人の関係性やシチュエーションとして、この構図がものすごく好きだ。

デジタルワールドを守るなら、初めから戦う力を持った、それこそデジモンやイレイザーのような姿を取ればよかったはずだ。
しかしそうせず、テイマーだった人間の頃の姿でデジタルワールドを守ることを選択している。
そう思うと、命令を実行するだけのプログラムだったり、初めから「合理的で理屈っぽいだけの大人」であったようには思えない。
誰もにありがちな、大人になっていく過程で子供の頃大切にしていた価値観や夢を置き去りにした、等身大の人間であるように見えてくる。

皆を纏めるレジスタンスのリーダーを演じている時のカーネルは、演技のせいかテンションが異様に高いが、正体を表した際には激情しながらも「冷酷で合理的な大人」として振舞っている。しかし「全て一つの姿になるのが正しい」と盲目的に信じる姿や、不変だったはずの自分が消える間際に発したセリフは、どこか危うい幼さも秘めているように感じる。
一方、正気を取り戻したレジェンドテイマー戦では、他作品の味方大人キャラのような「一歩引いた目線と落ち着いた物腰の大人」としての一面を見せた。
そして次回作の『超クロスウォーズ』では、姿もなくセリフこそないものの、やはりお調子者キャラとしてバンディッツを振り回している。
創造主、エンジニア、テイマー、大人、革命者…使い分けているどれがカーネル本来の性格なのだろうか。

全体的にはっちゃけた人物のイメージが強いカーネルの印象が一気に変わったシーンがあるが、それがレジェンドテイマー昇格戦の時のセリフだ。
セレクターのボスではなく、テイマーとして改めて相対する彼のセリフは、これまでの言動からは想像もできないくらいに成熟した大人のそれであり、最強のテイマーとしてコロシアムの頂点に君臨している。
どういう過程で思い出したのか(コロシアムのシステムに記憶のバックアップでも置いといたのだろうか)、自身の行いに言及しながら、しかし先の件のしがらみは持ち込まず、ただ一人のテイマーとして戦いを挑んでくる。
ロスエボではコロシアム戦で敗北した際にも専用のセリフがあり、再戦時には戦闘前のセリフが変わる。
二回ほど負けた際、主人公に対するコメントとして発するのが、以下のセリフ。

「おかしな きぶんだよ また キミに かったことで…」
「ざんねんに おもいつつも すこし ホッとしている」
「もういちど もどってきたまえ そして わたしを たおしてくれ」

最強として君臨し続けたカーネルが、最強の座を守り通したことに執着し、安堵している。
同時に、けじめのためか、自分を倒してほしがっている。
ラスボスとして停滞と退廃を司っていたカーネルが、本来の「見守る者」としての役割を取り戻し、次世代の子供たちに世界を託し、背中を押そうとしているのだ。
彼に勝てば、勝利を祝福し、その功績を讃え、表舞台から退場することになる。ラスダン最深部に滞在しているバンディッツとは違い、マップ上のどこにもカーネルの姿は確認できなくなる。これが彼なりのけじめなのだろうか。

「戻ってきたまえ」といういつもの偉そうな命令口調と「倒してくれ」という懇願じみた願いの混ざった複雑なセリフに、カーネルもただのプログラムではなく、テイマーとして人間だった頃の心を受け継いだ大人なんだと安心した記憶がある。
(直前のグレア隊長の「ライブラリに おさめられた アーカイブデータの ぼくに… ココロなど あるものかな?」に対するアンサーなのかもしれない)

これまた完全に余談かつ妄想なんだが、レジェンドテイマー昇格戦で見られるカーネルの所有デジモンに(しかも一番の相棒ポジションだろう中央に)ミノモンがいる。コロシアムの受付にもミノモンがいるが、デフラグ計画という状況下で真っ先に消されそうな幼年期でありながら、カーネルの管轄であるコロシアムにいる(=存在を認められるだけの強さや能力がある)ことを考えると、カーネルの所有デジモンと同じ個体だろうか?

世界最古にして世界最強のはずのレジェンドテイマーが、一体なぜ幼年期のデジモンを?と思いながら、容赦なくぶち込まれる全体眠り攻撃にキレていたものだ。
ところで、ミノモンには公式でこんな設定がある。

また、孤独が“得意”で不安になったり心配ごとがあってもへこたれない芯の強さがある。

デジモンウェブ「ミノモン」のページより

「デジヴァイスを忘れてきた」「デジモンなどこの世界を食い荒らすだけのウィルスだ」とテイマーにあるまじき前代未聞の発言をし、頂点に君臨しながらエンディング後までテイマーとしての活動を一切していなかったカーネルの相棒枠と思われるデジモンに、孤独に強い種族が選ばれている。
停滞や退廃を象徴するカーネルのパートナーとして、進化を一切していない、幼年期のデジモンが宛がわれている。

死を経験し、アバターになってまで移り行く世界を監視し続け、自分の行いにけじめをつけるためのほんの一時だけ、再びテイマーとしての役割を纏ったカーネルに、それでも相棒として、出会った当時そのままの姿でそこにいるデジモンは、何を思ったのだろうか?
ここに物語を見出さずにはいられない。
彼らにも、創造主と創造物の必然的な関係ではなく、主人公や選ばれし子供たちとそのデジモンのように、パートナーとしての運命的な出会いや輝かしい冒険があったはずだと。
例え私の行き過ぎた妄想でも。

もう一つ余談だが、デジモン作品には、たびたびワームモンをパートナーにしたキャラクターが登場する。
『デジモンアドベンチャー02』の一乗寺賢。
『デジモンストーリー ハッカーズメモリー』の御島エリカ。
どちらも天才として設定されたキャラクターだ。
デジモン公式にとって、ワームモン系列は天才を表す特別な記号なのかもしれない。
図鑑設定を見るに、可能性(才能)を秘めた未成熟さなんかを表現しているのだろうか。
その枠組みに(製作者が意図してなくとも)、「過ちを犯したのちに本来の自分を取り戻した、伝説のエンジニア」として設定されたカーネルが入っているのは、彼もデジモンという作品群に登場する一人のキャラとして産み落とされたのだという嬉しさを感じるし、ワームモンではなくミノモンなのがロスエボのテーマに合っていて好きだな、と思わされる。

あとがき

大人とデジモンならではの関係性が好きすぎて、2022年に発売された『デジモンサヴァイブ』でも、全く同じようなことを感じた。
異種族や異世界での冒険といった空想じみたものから遠のいた元子供が、再び異世界に飛び込み、相棒や友人たちと冒険する。
子供たちが安全に元の世界に帰れるよう導く責任を負った大人でありながら、子供たちと肩を並べて、異世界という存在を受け入れて真剣に向き合い、大人になったことを肯定して、大人の不器用さを以てパートナーと絆を結びなおして、大人のまま戦っている。

なんて素晴らしいんだ。私が見たかった"全て"が詰まっている。こんなに嬉しいことはない。
ラスボスに利用され理想を歪められてしまったが、大人にその存在を否定されながらも、異世界と仮想生命体に夢を見続け、大人になって初めてパートナーデジモンと出会い、全ての人間がパートナーデジモンを得るきっかけを作った『デジモンアドベンチャー02』の及川悠紀夫も好きな大人キャラの一人だ。
今思えば及川は、「大人とデジモン」関係の先駆者だったように思う。
大人になっても、デジモンたちとデジタルワールドを好きであり続けている自分に、お別れなんてしなくていいんだ、デジタルワールドを望めばいつだってゲートは開かれて、大人になっても夢を見て冒険したっていいんだと肯定してくれるように感じる彼らの在り方が、心の底から大好きだ。

近年のデジモン作品において、「主人公」が小学生や中学生といった未成熟な子供だけではなくなり、また「大人」と「デジタルワールド」の関係性は、徐々に「介入できず見守る側」だけではなく「子供と同じく、成長し冒険することもできる」ようになりつつあるな、と思う。
特にデジスト世界は、他作品より大人がデジタルワールドに介入・存在しやすい土台や実績があるので、もっと色んな大人、ひいては老若男女とデジモンの関係性が見られることを期待している。
それはそれとして、サヴァイブのあの関係性は一生私の傷として残るだろうな…(確かに「背伸びして価値観が大人に近付いてきた子供が、異世界に迷い込んだら?」の例として一度は見たいものではあったし、想像以上に完璧なものをお出しされたんだが)

デジタルワールドの容量問題についてはたびたび問題に上がるものの、当作品含めて先送りにされている印象があるので、一度バシッと答えを叩きつけてほしい。それはそれでモヤモヤしたり寂しくなるだろうか?

語るところがなかったのでここで補足するが、バンディッツの好きな要素として、「イレイザー」に変身して、デジモンに任せきりだけではなく自分たちで戦うところにもある。
『デジモンテイマーズ』で、主人公のタカトが「僕はもう、ギルモンの後ろにいるんじゃない!」と言ってパートナーのギルモンと一つになった時の衝撃を覚えているだろうか。それをバンディッツにも感じる。
バンディッツが変身するのは「イレイザー」でありデジモンではなく、むしろ世界を滅ぼそうとする敵と同じ存在なのだが、そこがまた熱い。憎き敵と同じ存在になることを受け入れながら正義として戦うのは、ダークヒーローとしてのかっこよさがある。
自分のデジモンと肩を並べて共に戦うという、全く新しい形の「パートナー関係」を見せてくれたロスエボには、感謝してもしきれない。

「成長」というふうに何度か言及したが、バンディッツが自分の中にある短所と向き合ったり、縁もゆかりもなさそうなメンバー同士のいざこざを乗り越えてチームになる機会は、作品外で既に終えたことなんだろう(かなり見たかった)。それでも彼らから未熟さは取り除かれていない。
しかし、欠点は欠点として抱えたまま、それぞれがチームの欠点を受け入れて、不足を補う様な関係を作り出している。
見れば見るほど魅力しかないキャラクターだと思う。
改めて、ロスエボという作品と出会えてよかったと記したい。

好きなところだけを書こうと思ったので伏せていたが、スクショを見返すたびに思う事だったのでやっぱり追記しておく。
カーネルに関しては、事件後誤った判断をしたと思っているのか、今でも自分は間違ってないと思っているのか、それを明かしたうえで"明確に"謝罪をしてほしかった、というのがずっと心残りだ。
主人公に対して、「キミには せわになったね」「ここにいる わたしは もう セレクターの ボスではないが…」「ありがとう」と、どういった立場なのか意図を匂わせてはいるものの、明確に謝罪しているセリフはない。
事件を引き起こした原因が何だったかは大して重要ではない。
人に危害を加えたことについてはもちろん、テイマーでありながらデジモンを否定するセリフを発させておいて、機会は十分にあったはずなのに、その部分に対する謝罪の言葉がないキャラクターだった、という部分が、子供心に、大人になった心に、そしてデジモンファンの自分の心にずっと引っかかっている。
言わなくてもわかるだろう、安直な言葉は時に野暮ったくなってしまう、このキャラこのシーンは遠回しな言葉選びが格好いいのだ、行間はプレイヤーがいい感じに補完しておいてくれ、と言われたらそうかもしれない。しれないが、やっぱり間違えてしまったならちゃんと言葉にして謝罪する描写がほしかった。それが子供に示せる、大人としての正しいけじめの付け方なんじゃないかと思ってしまう。
このイベントの後に、主人公をちゃんと言葉を尽くして褒めてくれるバンディッツを見ていると尚更そう思う。
公式はこの作品で「大人と子供」をテーマに扱っているとは言っておらず、私が勝手に言っているだけに過ぎないし、カーネルに至っては年齢が公開されていないので、大人云々は置いておくにしても、「デジモンをウィルス扱いしたキャラが、謝罪あるいは撤回の言葉もないまま、デジモンを従えて最強のテイマーとして立ち塞がってくる」という描かれ方は、いちデジモンファンとしてはやっぱりモヤモヤする。
なんかいい感じの立ち回りをしていて、深い事情を抱えていそうなことは伝わるのだが、それ止まりであり、それ以上はすべてオタクの妄想に過ぎないので好きになるための根拠が少ない、その上に自分がやらかしたことへの謝罪がないという部分で、彼を素直に「好きだ」と言えないな、といつも思う。カーネルの項目の長ったらしい文章もほとんど妄想だという自覚がある。
主人公やその一行に対してはもちろん、バンディッツに対して、それ以外のテイマーやデジモンに対して、なにより自分のパートナーデジモンに対しての謝罪があれば、もっと自信を持って好きだと言えたのになあ、と残念で仕方がない。
リメイクまたは続編に登場する機会があるなら、この辺に対するフォローがあればいいなあと思っている。

ここ数年の公式の言動を見ていると素直に応援しづらい部分も若干あるが、何だかんだ新しい作品に触れた時の喜びは、初めてデジモンに触れたあの夏を思い出させてくれる。
次の作品も、その次の作品も、デジモンたちと、デジタルワールドと、それに関わる人間たちとの素晴らしい出会いと思い出が作れるよう願っている。