墳形、墓式と思想伝来とプロパガンダ【前編】
「明治天皇の陵墓は朝鮮式(円墳)ではないか?」との主張がある。その真偽性は?
結論から言いますと、「朝鮮式」の定義ができないと何も言えません。
また単純に墳形だけで判断することは困難です。
なぜなら、日本においても円墳自体は、前方後円墳よりも多く主流なのです。
ただ、日本と朝鮮は古来より、文化・宗教・技術・人の往来など、やりとりが盛んな国でした。もちろん、埋葬という儀式に関しても、技術・宗教との関り合いがありますので、影響が色濃く出ます。
つまり、このテーマを語るには、
などの知識と考察が必要になります。
すべて精査することは大変困難なことですので、当記事ではできませんが、できる範囲で書いていこうと思います。
古墳時代の儒教伝来と陵形
2007年時点で、日本の古墳には10種の墳形が確認できます。
古墳(円墳)の豆知識として、
等ありますが、その真偽性は私にはわかりません。あくまで「そういう観方がある」という感覚で読み進めてくださると幸いです。
古墳時代の大化の改新前後に、八角墳が誕生します。初の八角墳は舒明天皇陵です。
当時の時代背景を考え、八角といえば、八卦(ハッケ;☰ ☱ ☲ ☳ ☴ ☵ ☶ ☷ )を思い浮かべる人も多いかと思います。
日本では、現在でも多くの人が「当たるも八卦 当たらぬも八卦 」という言葉を知っているくらいなので、無意識的に儒教思想は刷り込まれているかと思います。当時、墳形を八角にしたのは百済から伝来した儒教による影響があったのかもしれません。朝鮮に八角墳はないので、そういう意味では、日本独特の改良姿勢、オリジナル、儒教由来の日本式とも考える事ができます。
上記のように、易は古代中国で考案された占法で、日本には百済経由で伝わっています。また易経は単なる占いではなく、儒教の経典で、帝王学、学問、哲学、倫理といった学問として、特に貴族階級に伝わったと思われます。
という事から考えれば、"八角"の概念は朝鮮式とも言うには言えますが、元祖でいえば中国式になりますし、実際に墳形に採用したのは日本の天皇の陵墓であるから、日本式ともいえる訳です。
円形はさらに厄介で、子どもの砂場遊びでも、土をもって固める際には、整えて円形を作ってしまうほど極めて単純な形です。孔子の墓地も円丘ですし、朝鮮の王の墓も円丘が極めて多いですし、日本の御陵も同様です。
※孔子の墓地…Googlemapで「Cemetery of Confucius」、「孔庙」検索
もちろん、円(球)と四角の組み合わせも単純であり、古代中国の宇宙観である「天円地方」(「天円」(自然の動き)と「地方」(人の動き;平面)が合一する陰陽道)があり、当時(儒教伝来以前)の日本からみると最初に提示したのは、古代中国と言わざるをえません。
墳形では前方後円墳・上円下方、相撲の土俵、和同開珎などがあり、方角にも発展します。方角の概念があれば、対応した四神(東を青竜,南を朱鳥,西を白虎,北を玄武)などができ、風水に発展し、平安京のような計画都市(諸説あり)へと用いられます。
書かれている文字は「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石宜侯王」で、大阪・高槻市のHPにある現代語訳では「青龍三年(西暦235年)、顔氏は文章をかき鏡をつくった。左の竜、右の虎はわざわいをしりぞけ、朱雀・玄武は陰陽にかなう。子々孫々、中央を治める。いのちは金石のように永く、候王にふさわしい。」とのこと。
https://www.city.takatsuki.osaka.jp/uploaded/attachment/17588.pdf
ちなみに和同開珎以前の、無文銀銭(天智天皇の時代)にも、貨幣の真ん中に四角や円形の丸があります。
明治天皇 伏見桃山陵
英陵(世宗大王と昭憲王后の墓)
古墳時代の動乱と日本書記
「戊辰戦争と明治の維新」「乙巳の変と大化の改新」は学校教科書でも習う訳ですが、両方、クーデターと評される事も少なくありません。どちらの時期の海外情勢も動乱期です。
要人の他殺と思わわれる事例が多く見受けられます。
乙巳の変におけるクーデター説では、日本や百済や伽耶の両国に、両国の渡来人がいるように交易は盛んであったと思われ、660年に百済は滅亡しますが、その前に日本では「百済重視」からの「多国間と協調する外交」と路線変更を思案していた最中、「百済重視」の外交路線派の中臣(藤原)鎌足や中大兄皇子(天智天皇)らが蘇我入鹿を討ったというものです。
中臣鎌足は養子であり、その秀才さや、遺体(とされるもの)の保存状態がよいので、骨ががっしりしていてスポーツマンのような体格(X線写真分析)だと考えられています。渡来人では?百済王子の豊璋では?いいえ、天智天皇(中大兄皇子)は鎌足であり百済最後の王である義慈王の王子豊璋であるという説も存在します。「鎌足豊璋、天智翹岐」説も「鎌足翹岐、天智豊璋」説もあり、「豊璋翹岐」説も。
「天智鎌足豊璋」説は、一見トンデモに思われるかもしれませんが、上記リンク先の説明にもある通り、説として筋が通っていますし、歴史の書き換えも実の子、不比等へ実権が受け継がれますので状況として可能なのです。
なお、別の王ではありますが、情勢不安から百済王が、日本に王の子を身ごもった妃を渡来させていた前例もあります。
また、天智陵(京都山科)に関しては『扶桑略記』によると、沓(くつ)だけを残して山中で行方不明とありまして、そこに山陵を築かれたとしています。つまりご遺体は天智陵に埋葬されていないことを示唆しています。
時の天皇が「履物だけ」を残して行方不明の上、ご遺体も発見されないことなどあると思いますか…?
一方、鎌足の墓とされる阿武山古墳(大阪茨木市安威と高槻市奈佐原の境界)は、地表から3メートルほど堀りこんだところに石室を作った百済式の墓式 (2)で、棺のふたと箱の接する所には漆を塗って固めています。その厳格な密封から、埋葬された人物が綺麗に残っています。
(※この時期の棺の設置場所は、墳丘をつくって、その墳中に埋葬するのが主流)
『荷西記』によれば、鎌足の墓所に関して不比等は「摂津国島下郡の阿威山です」と言及しています(「阿武山」は「阿威山」ではないか?)。茨木市西安威には冠位の中で最上位である大織冠の名を冠した大織冠神社もあります。そして、不比等が編纂に大きくかかわった日本書記では、以下のように記述されています(現代語訳)。太字が、鎌足の墓と思しき阿武山古墳の特徴と似ているところでしょうか。
時系列としては、同様に「日本書記」ではこのように記されています。
天智天皇は狩りをし、その後行方不明であると言われていますが、それが天智8年5月5日のことだとすると、その約5カ月後の10月10日に鎌足が病死です。その鎌足とされる者の、遺骨は綺麗な保存状態であり、大きな骨折、下半身不随との所見があり、その修復痕まであります。日本書記には、その「重大事」は書かれておりません。
阿武山古墳の遺体について、東海大学医学部の各診療部門の所見。
「日本書記」には、時の権力者によるプロパガンダ書としての機能があることはよく見聞されますし、(部分的な)虚偽、そして虚偽の伏線回収まで考えて書かれている可能性が高いように思います。
「そんなことが可能?」と思われるかもしれませんが、渦中に居て、実権があり、秀才な不比等がいるではありませんか。日本書記に関しては「信じる」のではなく、矛盾・綻びを洗い出して、ひとつひとつ検証する必要があると思います。
藤原家に利する記述箇所には特に疑いの目が必要そうです。
そういえば聖徳太子の「17条の憲法」も日本書記にしか記述がないのも不自然で、律令国家を目指す為に大々的にモデルとし、その後の実権掌握の為に「秀才な不比等」に有利となる情報戦の可能性があります。
さらに「17条の憲法」の有名な言葉…
「和を以て貴しとなす」も「論語(儒教の経典のひとつ)」の
「礼の用は和を貴しと為す」
から参考にされた(パクった)とする説もあります。
聖徳太子が、架空の人物なのか、実在するのかは分かりませんが。
※「礼」…円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範
不比等とは、鎌足の子の次男、藤原不比等です。日本書記や古事記の編纂に大きく関わり、鎌足はそれまでの史書である「天皇記」「国記」を焼いています。不比等に関しての考察はこちらとこちら。
参考:古事記「日本の神話」と易経
これだけ「蓋然性として怪しい」臭いを醸し出す事象があり「同一人物として」も筋が通る話自体が珍しいですが、いずれにしても、鎌足が百済系渡来人であった可能性は高いと思います。
このことは本題ではないので、いつか慎重にわかりやすく記事化できればいいですね。
一方の、蘇我入鹿に関しても高句麗からの渡来人説がありますし、乙巳の変(大化改新)は無かったとする説まであります。
現在でも諸説があり、真相は不明ですが、構図としては似ていますし、事実として、天皇、王子、豪族など権力者の他殺と思しきケースが明らかに多いです。
また藤原氏は、それ以後の約1000年、現在でいう閨閥の走りのような血縁構築で繁栄し続けたのも事実です。約1000年以後においても太平洋戦争開戦直前の総理である近衛文麿のように、藤原北家嫡流の近衛家の著名な人物が政権中枢に存在します。彼もまた、真珠湾にツッコむように画策し、米国に敗戦する日本の後の政治を観ていた人物だと言われます。
少し話が逸れたので戻していきましょう。
朝鮮王の陵形
「前方後円形墳(전방후원분)」
「円形封土墳(원형봉토분)」円形:원형 , 土塚・封土:봉토 , 分・墳:분
その後・・・
Google画像検索「조선왕릉」(朝鮮王朝)をみると、「円形封土墳(원형봉토분)」、日本でいう「円墳」形が目立ちます。
https://www.google.com/search?q=%EC%A1%B0%EC%84%A0%EC%99%95%EB%A6%89&tbm=isch&source=lnms
朝鮮半島において、古墳は、日本でいうところの古墳時代に見られましたが、その後の古墳状況はイマイチわかりません。そして李氏朝鮮(1392-1897)時代には復活しています。
復活した際の形状は、基本的に円丘で、見た目も変わりません。
当時との違いは、以下の通りでしょうか。
・風水(中国発祥の道教の流れ)を取り入れた配置
・周囲の建物や石造物
・墳丘周りに石材設置物
・墳丘を囲む手すりのような欄干がある
参考:https://m.blog.naver.com/artofgolf/222706875602
「崇儒排仏」で中国の皇帝の臣下とする体制の李氏朝鮮時代の特徴を日本が取り入れたのなら、円墳+石造、八角墳+石造など見られるようになってもいいのですが、そのような事はなく、日本は仏教式全盛期(儒教の要素も入りつつ)でした。江戸時代になって仏教は巨大利権化し、明治期に廃仏毀釈がおきています。
また、注目ポイントとしては、湊川神社の楠木正成の墓に、亀趺【きふ】と称ばれる亀形台石(リンクは画像)があります。この湊川神社の創建にあたり、最初に政府に意見を申し立てたのは薩摩藩で、明治天皇が創建するように命じ、境内地の選定や収用に掛かったのが、初代兵庫県知事の伊藤博文です。
楠木正成の墓碑自体は、徳川光圀が、1692年に佐々木宗淳を遣わし、建立されています。楠木は南北朝時代(1337年 – 1392年,京都の北朝と吉野の南朝)の南朝側の有力武将です。
この時代も、宋学(朱子学)の伝来,南朝の正統化のための『神皇正統記』(北畠親房)などがあり、後の水戸徳川家の儒家思想や、明治維新後の南朝支持の史観にも大きく影響を与えます。南朝を正統な天皇としたのは、1911年2月22日の大日本帝国会議ですし、「勝てば官軍」と歴史修正もなんのその!を示唆する言葉も戊辰戦争起点とされ、「先祖崇拝と皇統」の論理の融合は「儒教と(国家)神道」の重複点に繋がるように思えます。
血統(選民性)、思想、神格化、確信…これら、認知的にカルト化の要素を満たす危うさの基礎が、この時代にあったのかも知れません。歴史というのは、事実の検証だけを学問として緩やかに考えればよく、大衆は思想的プロパガンダに傾倒する必要性も理由も1mmもありません。極化する必要も当然ありません。
ただ後世に書、漫画、ドラマ、小説などで起承転結や敵味方がハッキリとした情動を揺さぶるストーリー仕立てに味付けされ、リアリティが高まることもありますが、あくまでそれは、彼らの商用目的でエンタメの枠組みなのです。
そもそも古墳時代から渡来人が大量に来ていますし、人も思想も文化も融合され続け、独自の形を、社会に、生き方に活かそうとするのが日本でしょう。今現在をみても、日本は、技術の独創性はそれなりですが、加工・改善・改良・職人といったプロ集団であり、また人のよい国民性であり、人としての肯定感は灯台下暗し…実態として充分にあるのです。
(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE
https://www.minatogawajinja.or.jp/about/history_foundation/
https://www.minatogawajinja.or.jp/grounds/highlights/
亀趺からみる日本、中国、朝鮮
亀趺は、「亀の台座」ですが、実態としてこの「亀」は、亀ではなく竜の子である贔屓(ヒキ;ひいきの語源)である場合が多いです。よってその場合、「贔屓の台座」の意味です。中国の伝説によると、龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子の一つを贔屓といいます。
その姿は亀に酷似していますが竜の子ですので、控えめながらキバや角があります。意味合いとして、亀の甲羅は重さに耐える象徴なので、碑を支える台座になったとも考える事ができます。残りの"竜生八子"も、屋根や紋、橋などに施されています。
また、政治的な意味合いで言うと、中国皇帝が周辺国の君主に対し、臣下である確認の意味合いもあったようで、階位により、亀趺の設置には厳格に規定されて、朝鮮などにも伝来したようです。中国皇帝の碑には、贔屓の親の竜で、より高位を表す竜趺が使われます。
朝鮮では儒式+仏式で獣首、儒式色が強くなると亀首?…でしょうか。
なお、儒教は、孔子を始祖とした思想体系で、孔子を祀っている霊廟の孔子廟の数は、現在の韓国でダントツに多いです。朝鮮の転換点は、新羅後期から高麗期(918年 - 1392年)の独自性のある「獣首」誕生とモンゴル帝国よる属国化(1259年)により元の「亀首」回帰で、日本の「獣首」の誕生の転換点は、おおよそ秀吉の朝鮮出兵(1596年)期に高麗時代の寺院をみているので、その時期に輸入されたと考える事ができます。
中国の贔屓(画像有)
河北省正定県(五代十六国時代後唐)、山東省曲阜市孔廟十七碑亭、河北省承徳市避暑山荘、安徽省寿県北門
https://songye.exblog.jp/22529908/
北京市宛平城、北京市盧溝橋脇、南京市大鐘亭、南京市霊谷景区、ソウル特別市の大清皇帝功徳碑(亀首)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%94%E5%B1%93
韓国の贔屓(画像有)
安成康王墓(6世紀)、慶州西楽洞帰部(7~8世紀)、ソウル塔骨大原閣寺費(1471)、ミョンヒョルンのカン・ヒジェアピールビジョン(1699)、丹陽求人史世界平和起源費(1997)
https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B7%80%EB%B6%80
日本の贔屓(画像有)
東本願寺(飾り瓦の贔屓)
https://kyoto-zoo.com/cat26/
楠木正成と韓国人慰霊碑
https://ameblo.jp/ameblojptachan1941/entry-12675604217.html
徳川光圀公夫妻の墓(贔屓の向きは大陸方向という話も)
https://ameblo.jp/tokugawamuseum/entry-11632835336.html
23点の画像
http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edomin/kihu/_t4wB64I.html
1779年 菊池正観公神道碑(熊本県,「熊耳山正観禅寺」境内)
https://www.libraryofall-kikuchi.net/post/2022%E5%B9%B407%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E7%86%8A%E6%9C%AC%E3%83%BB%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%94%EF%BC%89
金昌寺(埼玉県秩父市)、月照寺(島根県松江市)、観音禅院(武蔵野市)、長崎孔子廟の贔屓(長崎県長崎市)
http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/fukuda/kame/kame-5.html
その他の国の贔屓
ベトナム、ハノイの孔子廟、ロシアのウスリースク
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%94%E5%B1%AD
つまり、この時期、日本において、儒教の影響も多少取り込んだ「仏教式」が、社会のトレンドであり、そこに儒教に傾倒し影響された藩主、貴族の間で使われた埋葬形態のひとつとしての贔屓を考える事が出来ます。
例えば、水戸黄門で知られる水戸藩の二代藩主、徳川光圀(1628-1700)の父・頼房が1661年、水戸城で死去しますが、葬儀は儒教の礼式で行っています。また湊川神社の楠木正成墓には贔屓がありますが建造させたのは、光圀です。そして光圀は朱子学派儒学者、林 羅山との親交があり、羅山の朱子学は中国から直輸入したものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に流入した朝鮮朱子学を自覚的、選択的に摂取したものであるとされています。
当時、秀吉の朝鮮出兵などの経緯があり、その後、儒教思想家が現われ、その思想の智慧を借り、藩政の基礎を固めようとしたのが、光圀、備前岡山の池田光正、会津の保科正之などです。前述のリンク先には、光圀が朱舜水を江戸に招いている事も書かれていますし、水戸徳川家と朱舜水の末裔との交流は2016年の光圀の墓所復旧工事の完了を記念し末裔たちが中国から来日しており、深い親交があるようです。
https://www.youtube.com/watch?v=8xMmukusScM
儒教式と神道式の葬祭儀礼
上図の左の石碑は兜巾(トキン)があります。国家神道式の墓にも兜巾がみられます。下図の赤枠の先が尖がった形のことです。
ここまで、古墳時代の墳形、江戸期の贔屓の伝来、儒教思想の伝来・影響、兜巾と触れてきましたが、ようやく、神道式と儒教式の一致に関して考える事ができます。「朝鮮式」を疑問思考で考えてきましたが、中国の影響、各国の時世による栄枯、各国の独自進化がありますので「朝鮮式」の定義すら時代により変化します。
どちらかというと、「朝鮮からの伝来に依る儒教式の色合いが濃い時代」などの言い方の方が言葉としてふさわしいでしょう。それであっても、元祖は中国であったり、仏教であれば、元祖はインドであったりしますが。
一方、日本には、古墳時代はもとより、その後も中国や朝鮮の王朝滅亡などにより、王族関係者が渡来したり、王子を日本に送り再建を図る事もある訳です。そのような人たちが時の日本との中枢とかかわりが深いなら、復権に日本を利用したり、政争にも参加してくるでしょう。
…と長くなりましたので、この記事はいったん閉じて、後編に続きます。(後編を書くにも1~2週間程度、時間を要します)
日本書記のくだりに関しては、ナラティブ(物語性をもった)情報戦、歴史修正による復権目的…という視点で書きましたが、いやはや、今の時代まで論争になるくらい、その強力さが痛感できますね。現代においても、大衆の認知機能自体や馬人参の習性はさほど変わらず、科学でも、国際情勢でも、権力癒着・権威手法・プロパガンダからくる修正主義・真理省化が存在し、何かと被りますね。
ただ、今は、認知機能やナラティブ戦略など誰もが学べるのも事実ですから、学びへの重要度が高ければ、認知戦強国(フェイクを見抜く能力が高く、きちんと防御でき、他者にも伝える事ができる人が多い国)になれるはずです。
私たち次第ではありますが。
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