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墳形、墓式と思想伝来とプロパガンダ【前編】


「明治天皇の陵墓は朝鮮式(円墳)ではないか?」との主張がある。その真偽性は?

結論から言いますと、「朝鮮式」の定義ができないと何も言えません。
また単純に墳形だけで判断することは困難です。
なぜなら、日本においても円墳自体は、前方後円墳よりも多く主流なのです。

ただ、日本と朝鮮は古来より、文化・宗教・技術・人の往来など、やりとりが盛んな国でした。もちろん、埋葬という儀式に関しても、技術・宗教との関り合いがありますので、影響が色濃く出ます。

つまり、このテーマを語るには、

・大きな歴史(日中朝の関係性)
・墓形の経緯、明治前後の墓形との対照性
・神式、儒式、仏式埋葬法の誕生、伝来、独自性

などの知識と考察が必要になります。
すべて精査することは大変困難なことですので、当記事ではできませんが、できる範囲で書いていこうと思います。

古墳時代の儒教伝来と陵形

2007年時点で、日本の古墳には10種の墳形が確認できます。

1.円墳
2.帆立貝形古墳
3.方墳
4.上円下方分
5.前方後円墳
6.前方後方墳
7.双方中円墳
8.双方中方墳
9.双円墳
10.八角墳
※リンクに画像有

https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/howtoread/03/kofun.html

古墳(円墳)の豆知識として、

「ときどき円墳を土饅頭形に復元した例を見かけますが、これは誤りで、日本の円墳は前方後円墳の後円部などと同様に、墳長部に平坦面をもつ截頭(せつとう)円錐台形を基本とします」。

https://koza5555.exblog.jp/22582245/

等ありますが、その真偽性は私にはわかりません。あくまで「そういう観方がある」という感覚で読み進めてくださると幸いです。

古墳時代の大化の改新前後に、八角墳が誕生します。初の八角墳は舒明天皇陵です。
当時の時代背景を考え、八角といえば、八卦(ハッケ;☰ ☱ ☲ ☳ ☴ ☵ ☶ ☷ )を思い浮かべる人も多いかと思います。

日本では、現在でも多くの人が「当たるも八卦 当たらぬも八卦 」という言葉を知っているくらいなので、無意識的に儒教思想は刷り込まれているかと思います。当時、墳形を八角にしたのは百済から伝来した儒教による影響があったのかもしれません。朝鮮に八角墳はないので、そういう意味では、日本独特の改良姿勢、オリジナル、儒教由来の日本式とも考える事ができます。


京都府埋蔵文化財情報 第33号 1989年9月天智天皇山科陵 P.53-54
「古墳の被葬者である天智天皇は、いわゆる大化のクーデターを断行し権力を握った専制君主で、敵対者を葬ってきた」
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/jyouhou/kyoutofu-J33.pdf
天武・持統天皇陵の陵形
https://seiyo39.exblog.jp/18312499/
「宮内庁が昭和34年と36年に行った発掘調査についての報告書をNHKが情報公開の手続きで入手して調べてみたら墳墓が八角形であることを確定できる資料であった。」

欽明天皇十四年(553)六月、百済に医博士・易博士・暦博士こよみのはかせ等の交代や暦本こよみのためしの送付を依頼
・日本書紀に暦の文字が初めて登場。
・欽明天皇十五年二月、求めに応じて百済から暦博士 固徳王保孫らが来日
https://www.qingdao.cn.emb-japan.go.jp/jp/publicrelations/index_150917.html

日本に儒教が伝わったのは仏教よりも早く、513年、継体天皇の時代に百済より五経博士が渡日して伝えられたとされている。
6世紀の飛鳥時代では仏教の普及に熱心であった豪族の曽我氏の台頭もあり、飛鳥京(現奈良県)を中心に仏教遺構が多く建設された。一方で一部の為政者は儒教に深く帰依し、例えば、斉明天皇(女性天皇)は、亡夫である欽明天皇の御陵を八角墳(古代中国の政治思想では、八角形が天下発砲(※天下八方の誤字と思われる)の支配者にふさわしいとされていた。)としたり、多武峰に置いた両槻宮とその関連遺構には儒教と陰陽道の影響が強く現れている。
※五経博士…『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』を五経として定め、それぞれの経典ごとにその教義の解釈、教授、普及を担当する学者。官職。https://www.y-history.net/appendix/wh0203-122_0.html

●その後、9世紀の平安時代初期においては、天武天皇が発布した律令制にも儒教の影響が見られ、儒教思想は官吏養成に応用され、また国家で研究を行う学問として式部省(現在の「人事部」に相当)が管轄する大学寮(官僚育成機関)において教授された。しかしながら、日本では科挙制度が採用されなかったことから儒教本来の価値が定着しなかったこと、また、この時代は仏教がますます盛んになったことから、儒教はあまり盛んではなかった
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FC6FCCBDCA4CECEF12F1.CEF1A4CEC5C1CDE8A4ABA4E9C0EBCCC0CEF1A4DEA4C7.html

上記のように、易は古代中国で考案された占法で、日本には百済経由で伝わっています。また易経は単なる占いではなく、儒教の経典で、帝王学、学問、哲学、倫理といった学問として、特に貴族階級に伝わったと思われます。

という事から考えれば、"八角"の概念は朝鮮式とも言うには言えますが、元祖でいえば中国式になりますし、実際に墳形に採用したのは日本の天皇の陵墓であるから、日本式ともいえる訳です。

円形はさらに厄介で、子どもの砂場遊びでも、土をもって固める際には、整えて円形を作ってしまうほど極めて単純な形です。孔子の墓地も円丘ですし、朝鮮の王の墓も円丘が極めて多いですし、日本の御陵も同様です。
※孔子の墓地…Googlemapで「Cemetery of Confucius」、「孔庙」検索

もちろん、円(球)と四角の組み合わせも単純であり、古代中国の宇宙観である「天円地方」(「天円」(自然の動き)と「地方」(人の動き;平面)が合一する陰陽道)があり、当時(儒教伝来以前)の日本からみると最初に提示したのは、古代中国と言わざるをえません。

墳形では前方後円墳・上円下方、相撲の土俵、和同開珎などがあり、方角にも発展します。方角の概念があれば、対応した四神(東を青竜,南を朱鳥,西を白虎,北を玄武)などができ、風水に発展し、平安京のような計画都市(諸説あり)へと用いられます。

安満宮山古墳から出土した「青龍三年」銘方格規矩四神鏡。青龍三年は235年。青銅鏡。
「天円地方」の世界観か?四神もいます。円墳(や上円下方墳)にみえてくる…。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%BA%80%E5%AE%AE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

悠々自適:物見遊山人さんの写真はより見やすくGood。
https://pleasure-seeking.jp/%E5%AE%89%E6%BA%80%E5%AE%AE%E5%B1%B1%EF%BC%9A%E9%9D%92%E9%BE%8D%E4%B8%89%E5%B9%B4%E9%8A%98%E6%96%B9%E6%A0%BC%E8%A6%8F%E7%9F%A9%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E9%8F%A1/%E5%AE%89%E6%BA%80%E5%AE%AE%E5%B1%B1%E9%9D%92%E9%BE%8D%E4%B8%89%E5%B9%B4%E9%8A%98%E6%96%B9%E6%A0%BC%E8%A6%8F%E7%9F%A9%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E9%8F%A1/

書かれている文字は「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石宜侯王」で、大阪・高槻市のHPにある現代語訳では「青龍三年(西暦235年)、顔氏は文章をかき鏡をつくった。左の竜、右の虎はわざわいをしりぞけ、朱雀・玄武は陰陽にかなう。子々孫々、中央を治める。いのちは金石のように永く、候王にふさわしい。」とのこと。
https://www.city.takatsuki.osaka.jp/uploaded/attachment/17588.pdf

平安京については、東・青龍を鴨川に、西・白虎を山陰道、南・朱雀を巨椋池、北・玄武を船岡山に、それぞれ充てる説が昭和50年ごろから村井康彦らにより広められ、現在ではこれが定説になった感がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E7%9B%B8%E5%BF%9C


ちなみに和同開珎以前の、無文銀銭(天智天皇の時代)にも、貨幣の真ん中に四角や円形の丸があります。

明治天皇 伏見桃山陵

明治天皇 伏見桃山陵
https://maps.gsi.go.jp/

英陵(世宗大王と昭憲王后の墓)

Googlemap https://www.google.com/maps/

古墳時代の動乱と日本書記

「戊辰戦争と明治の維新」「乙巳の変と大化の改新」は学校教科書でも習う訳ですが、両方、クーデターと評される事も少なくありません。どちらの時期の海外情勢も動乱期です。

592年 蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺
645年 乙巳の変 中大兄皇子(天智天皇)、蘇我入鹿を殺害
671年 天智天皇崩御。大海人皇子(天武天皇)暗殺説、山中で行方不明説
686年 持統天皇、大津皇子を殺害

要人の他殺と思わわれる事例が多く見受けられます。

乙巳の変におけるクーデター説では、日本や百済や伽耶の両国に、両国の渡来人がいるように交易は盛んであったと思われ、660年に百済は滅亡しますが、その前に日本では「百済重視」からの「多国間と協調する外交」と路線変更を思案していた最中、「百済重視」の外交路線派の中臣(藤原)鎌足や中大兄皇子(天智天皇)らが蘇我入鹿を討ったというものです。

中臣鎌足は養子であり、その秀才さや、遺体(とされるもの)の保存状態がよいので、骨ががっしりしていてスポーツマンのような体格(X線写真分析)だと考えられています。渡来人では?百済王子の豊璋では?いいえ、天智天皇(中大兄皇子)は鎌足であり百済最後の王である義慈王の王子豊璋であるという説も存在します。「鎌足豊璋、天智翹岐」説も「鎌足翹岐、天智豊璋」説もあり、「豊璋翹岐」説も。

「天智鎌足豊璋」説は、一見トンデモに思われるかもしれませんが、上記リンク先の説明にもある通り、説として筋が通っていますし、歴史の書き換えも実の子、不比等へ実権が受け継がれますので状況として可能なのです。

なお、別の王ではありますが、情勢不安から百済王が、日本に王の子を身ごもった妃を渡来させていた前例もあります。

『日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。』

(注1)
武寧王(462年-523年)は現在の佐賀県唐津市生まれの百済人とされます。百済の25代王。百済の第21代王である蓋鹵王が、弟の昆支王を倭国に送る際に妊娠した婦を与え、「途中で子が生まれれば送り返せ」と命じたとされる。
生母とは高野新笠(出年不明-790)のことだと思います。
(注2)
宋山里(ソンサンリ)古墳群と高井田山古墳(大阪府柏原市)
武寧王の木棺は朝鮮半島に自生しないコウヤマキ製で、『日本書紀』の記述などからも、武寧王が日本と深い関係にあったことがわかります。おそらく武寧王は、日本で生まれ長らく日本に滞在していたのではないかと考えられます。高井田山古墳の被葬者と何らかの関係が想定できるのです。

平成13年12月18日上皇陛下の記者会見
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html
Wiki 武寧王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B
【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳 (2)武寧王
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2023041300012/?doc_id=24376

また、天智陵(京都山科)に関しては『扶桑略記』によると沓(くつ)だけを残して山中で行方不明とありまして、そこに山陵を築かれたとしています。つまりご遺体は天智陵に埋葬されていないことを示唆しています。
時の天皇が「履物だけ」を残して行方不明の上、ご遺体も発見されないことなどあると思いますか…?

一方、鎌足の墓とされる阿武山古墳(大阪茨木市安威と高槻市奈佐原の境界)は、地表から3メートルほど堀りこんだところに石室を作った百済式の墓式 ()で、棺のふたと箱の接する所には漆を塗って固めています。その厳格な密封から、埋葬された人物が綺麗に残っています。
(※この時期の棺の設置場所は、墳丘をつくって、その墳中に埋葬するのが主流)

『荷西記』によれば、鎌足の墓所に関して不比等は「摂津国島下郡の阿威山です」と言及しています(「阿武山」は「阿威山」ではないか?)。茨木市西安威には冠位の中で最上位である大織冠の名を冠した大織冠神社もあります。そして、不比等が編纂に大きくかかわった日本書記では、以下のように記述されています(現代語訳)。太字が、鎌足の墓と思しき阿武山古墳の特徴と似ているところでしょうか。

『(孝徳)天皇が聞いている話では、「中国では皇帝が墓について、昔は質素だったと民を戒めている」から我が国でも、身分によって、王、諸臣下それぞれ墓の規模を定める。

いにしえの葬は丘陵を墓として、土を盛り上げないで、樹も植えなかった。棺は遺骨が入るに足りればいい、衣は遺体が隠れるだけでいいというものだった。

だから私も開墾に適さない丘陵に墓を造り、代が変わった後は、誰にも墓の在り処を知られたくない。貴金属はいれないでほしい。

瓦の器をおいて、埴輪とか人形の代わりにしてくれればいい。
棺のふたと箱の接する所に漆を三度塗ってくれ口に珠玉を含まさないでくれ豪華な玉衣を置くこともだめだ。それは愚かな人のやることだ。』
またいう「夫葬者藏也。欲人之不得見也」
『葬られた所は秘密にしてくれ。人に見られたくないからだ。』

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/8f7e4ea93050f2917d7a27ad8638de1f

時系列としては、同様に「日本書記」ではこのように記されています。

天智天皇は天智6年3月19日に都を近江に移しました。8年夏5月5日、山科野で薬狩をし、大皇弟(ひつぎのみこ・大海人皇子)・藤原内大臣(鎌足)及び群臣らがことごとくお供をしたという記載があります。同年冬10月10日に藤原鎌足が病死します。10年9月には、天智自身が病気となり、同年12月3日に天智天皇が近江宮で崩御されたと書紀には記されています。

https://plaza.rakuten.co.jp/asobikokoro2/diary/201702140001/

天智天皇は狩りをし、その後行方不明であると言われていますが、それが天智8年5月5日のことだとすると、その約5カ月後の10月10日に鎌足が病死です。その鎌足とされる者の、遺骨は綺麗な保存状態であり、大きな骨折、下半身不随との所見があり、その修復痕まであります。日本書記には、その「重大事」は書かれておりません。

阿武山古墳の遺体について、東海大学医学部の各診療部門の所見

1.複合の骨折損傷が認められる。腰椎および胸椎、また、左上腕骨の大結節部の骨折あるいは脱臼骨折がみられる。脊椎の下方で脊髄損傷を起こしている。
2.以上の結果、事故による(例えば落馬など)骨折によって即死でなく(これは肋骨や脊椎の一部に修復のあとがみられる)、下半身麻痺を起こし足の運動障害、知覚麻痺、排便、排尿障害などがあり、二次的な合併症、例えば肺炎、床ずれ、尿路感染症などで悪化したと推定される。
3.肘の変形がみられる。これは乗馬、弓などの使用によるものではないかと考える。歯については咬耗が強いので、現代人ならば五〇~六〇歳ともてもよい。X線画像からは歯槽骨の吸収はある。頭骸骨の縫合の一部が石灰化している五〇歳代としても矛盾はない。
4.脊椎の変形が少なく、整形の立場から見ると年齢は若く見える。死因については内臓が残っていないので不明だが、脊椎の損傷から見れば、これが原因とも考えられる。

要するに、事件か事故かはともかく、高所からの墜落によって脊椎・腰椎の損傷により、下半身不随になり、寝たきりのまま二次的な感染症がもとで、死亡したと考えられる。
骨の修復痕があるというのだから、数ヶ月に渡り生きていたことになろうが、麻酔のない時代の激痛・苦痛は想像を絶するものであったろう。

http://www2.plala.or.jp/cygnus/s7.html

「日本書記」には、時の権力者によるプロパガンダ書としての機能があることはよく見聞されますし、(部分的な)虚偽、そして虚偽の伏線回収まで考えて書かれている可能性が高いように思います。

「そんなことが可能?」と思われるかもしれませんが、渦中に居て、実権があり、秀才な不比等がいるではありませんか。日本書記に関しては「信じる」のではなく、矛盾・綻びを洗い出して、ひとつひとつ検証する必要があると思います。

藤原家に利する記述箇所には特に疑いの目が必要そうです。
そういえば聖徳太子の「17条の憲法」も日本書記にしか記述がないのも不自然で、律令国家を目指す為に大々的にモデルとし、その後の実権掌握の為に「秀才な不比等」に有利となる情報戦の可能性があります。

さらに「17条の憲法」の有名な言葉…
「和を以て貴しとなす」も「論語(儒教の経典のひとつ)」の
「礼の用は和を貴しと為す」
から参考にされた(パクった)とする説もあります。
聖徳太子が、架空の人物なのか、実在するのかは分かりませんが。
※「礼」…円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範

不比等とは、鎌足の子の次男、藤原不比等です。日本書記や古事記の編纂に大きく関わり、鎌足はそれまでの史書である「天皇記」「国記」を焼いています。不比等に関しての考察はこちらこちら
参考:古事記「日本の神話」と易経

これだけ「蓋然性として怪しい」臭いを醸し出す事象があり「同一人物として」も筋が通る話自体が珍しいですが、いずれにしても、鎌足が百済系渡来人であった可能性は高いと思います。
このことは本題ではないので、いつか慎重にわかりやすく記事化できればいいですね。

一方の、蘇我入鹿に関しても高句麗からの渡来人説がありますし、乙巳の変(大化改新)は無かったとする説まであります。

Wiki 乙巳の変 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89

現在でも諸説があり、真相は不明ですが、構図としては似ていますし、事実として、天皇、王子、豪族など権力者の他殺と思しきケースが明らかに多いです。

また藤原氏は、それ以後の約1000年、現在でいう閨閥の走りのような血縁構築で繁栄し続けたのも事実です。約1000年以後においても太平洋戦争開戦直前の総理である近衛文麿のように、藤原北家嫡流の近衛家の著名な人物が政権中枢に存在します。彼もまた、真珠湾にツッコむように画策し、米国に敗戦する日本の後の政治を観ていた人物だと言われます。

少し話が逸れたので戻していきましょう。

朝鮮王の陵形

「前方後円形墳(전방후원분)」

日本側では「前方後円墳」・「前方後円形墳」、韓国側では「前方後円墳(전방후원분)」のほか楽器のチャング(チャンゴ/장고/長鼓)になぞらえ「長鼓墳(チャンゴブン/장고분)」などと表記される。
(中略)
朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。
※時代背景は、日本の古墳時代(3世紀中頃 – 7世紀頃)中期-後期。朝鮮の歴史における三国時代(さんごくじだい)は、朝鮮半島および満州に高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した時代をいう。日本の歴史学ではおよそ4世紀ころから7世紀ころまでを指す。

6世紀前半
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E5%8D%97%E9%83%A8%E3%81%AE%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%BD%A2%E5%A2%B3

「円形封土墳(원형봉토분)」円形:원형 , 土塚・封土:봉토 , 分・墳:분

奈勿王陵は、高さ5.3メートル、直径22メートルの円形封土墳であり、周囲を自然石の護石で固めた封土(盛土)のほかに要素の見られない外観から五陵の形式に分類される。内部の構造形態は積石木槨墳と推定されるほか、横穴式石室墳であることも考えられる。
※新羅第17代王の奈勿(在位356-402年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E5%8B%BF%E7%8E%8B%E9%99%B5

その後・・・

朝鮮王陵朝鮮王陵(ちょうせんおうりょう;조선왕릉)は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にある朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵である。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られた。
(中略)
朝鮮王陵の共通な特徴は風水により背後に丘があり、南側は水域に面する。また、紅箭門、丁字閣、碑閣、水剌間などの一連の建物があり、墓域周辺には石人または石獣の石造物が置かれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E9%99%B5
1450年頃 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E9%99%B5


https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%8C%8C%EC%9D%BC:%EC%A1%B0%EC%84%A0%EC%99%95%EB%A6%89_%EB%8A%A5%EC%B9%A8%EA%B3%B5%EA%B0%84_%EA%B5%AC%EC%A1%B0.jpg

https://m.blog.naver.com/artofgolf/222706875602

Google画像検索「조선왕릉」(朝鮮王朝)をみると、「円形封土墳(원형봉토분)」、日本でいう「円墳」形が目立ちます。
https://www.google.com/search?q=%EC%A1%B0%EC%84%A0%EC%99%95%EB%A6%89&tbm=isch&source=lnms

朝鮮半島において、古墳は、日本でいうところの古墳時代に見られましたが、その後の古墳状況はイマイチわかりません。そして李氏朝鮮(1392-1897)時代には復活しています。
復活した際の形状は、基本的に円丘で、見た目も変わりません。

当時との違いは、以下の通りでしょうか。
風水(中国発祥の道教の流れ)を取り入れた配置
・周囲の建物や石造物
・墳丘周りに石材設置物
・墳丘を囲む手すりのような欄干がある
参考:https://m.blog.naver.com/artofgolf/222706875602

「崇儒排仏」で中国の皇帝の臣下とする体制の李氏朝鮮時代の特徴を日本が取り入れたのなら、円墳+石造、八角墳+石造など見られるようになってもいいのですが、そのような事はなく、日本は仏教式全盛期(儒教の要素も入りつつ)でした。江戸時代になって仏教は巨大利権化し、明治期に廃仏毀釈がおきています。

1624~44年 寺請制が開始。すべての人は寺院の檀家に。キリスト教排除。
1666年 水戸藩(藩主 徳川光圀 )や岡山藩で寺院破却が行われる。朱子学者でもあった光圀は、領内の寺院整理に関しほぼ半数を破却。
1867年 神祇を七科の筆頭に置き、神仏習合を廃する神仏分離令
1868年 明治維新、勅命により湊川神社に楠木正成を祭る
1870年 「大教宣布の詔」神道(国家神道)に基づく国民教化政策の推進宣言
1894年 日清戦争後に李氏朝鮮は清王朝中心の冊封体制から離脱、形式的独立国家となる

仏教式が多い、室町中期~江戸末期

また、注目ポイントとしては、湊川神社の楠木正成の墓に、亀趺【きふ】と称ばれる亀形台石(リンクは画像)があります。この湊川神社の創建にあたり、最初に政府に意見を申し立てたのは薩摩藩で、明治天皇が創建するように命じ、境内地の選定や収用に掛かったのが、初代兵庫県知事の伊藤博文です。

楠木正成の墓碑自体は、徳川光圀が、1692年に佐々木宗淳を遣わし、建立されています。楠木は南北朝時代(1337年 – 1392年,京都の北朝と吉野の南朝)の南朝側の有力武将です。

この時代も、宋学(朱子学)の伝来,南朝の正統化のための『神皇正統記』(北畠親房)などがあり、後の水戸徳川家の儒家思想や、明治維新後の南朝支持の史観にも大きく影響を与えます。南朝を正統な天皇としたのは、1911年2月22日の大日本帝国会議ですし、「勝てば官軍」と歴史修正もなんのその!を示唆する言葉も戊辰戦争起点とされ、「先祖崇拝と皇統」の論理の融合は「儒教と(国家)神道」の重複点に繋がるように思えます。

血統(選民性)、思想、神格化、確信…これら、認知的にカルト化の要素を満たす危うさの基礎が、この時代にあったのかも知れません。歴史というのは、事実の検証だけを学問として緩やかに考えればよく、大衆は思想的プロパガンダに傾倒する必要性も理由も1mmもありません。極化する必要も当然ありません。

ただ後世に書、漫画、ドラマ、小説などで起承転結や敵味方がハッキリとした情動を揺さぶるストーリー仕立てに味付けされ、リアリティが高まることもありますが、あくまでそれは、彼らの商用目的でエンタメの枠組みなのです。

そもそも古墳時代から渡来人が大量に来ていますし、人も思想も文化も融合され続け、独自の形を、社会に、生き方に活かそうとするのが日本でしょう。今現在をみても、日本は、技術の独創性はそれなりですが、加工・改善・改良・職人といったプロ集団であり、また人のよい国民性であり、人としての肯定感は灯台下暗し…実態として充分にあるのです。

(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE
https://www.minatogawajinja.or.jp/about/history_foundation/
https://www.minatogawajinja.or.jp/grounds/highlights/

亀趺からみる日本、中国、朝鮮

亀趺は、「亀の台座」ですが、実態としてこの「亀」は、亀ではなく竜の子である贔屓(ヒキ;ひいきの語源)である場合が多いです。よってその場合、「贔屓の台座」の意味です。中国の伝説によると、龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子の一つを贔屓といいます。

その姿は亀に酷似していますが竜の子ですので、控えめながらキバや角があります。意味合いとして、亀の甲羅は重さに耐える象徴なので、碑を支える台座になったとも考える事ができます。残りの"竜生八子"も、屋根や紋、橋などに施されています

また、政治的な意味合いで言うと、中国皇帝が周辺国の君主に対し、臣下である確認の意味合いもあったようで、階位により、亀趺の設置には厳格に規定されて、朝鮮などにも伝来したようです。中国皇帝の碑には、贔屓の親の竜で、より高位を表す竜趺が使われます。

朝鮮半島では、新羅後期から高麗時代にかけて、石碑の台石としての亀趺の形が変わりました。首のつきかたが異様になったのです。哺乳類の首と口と背骨の関係について「獣首」(けものくび)、爬虫類の首と口と背骨の関係について「亀首」(かめくび)という表現を使うことにすれば、新羅後期から高麗時代にかけては獣首であり、その前は亀首、その後も亀首、という特徴があります。
  中国は一貫して亀首のようです。
  日本では、朝鮮半島の変化の影響が見られます。
  醍醐寺本十天形像(9世紀末以前)の大亀は亀首です。
  唐招提寺の金亀舎利塔(平安末)は亀首です。
  和歌山龍光院の金亀舎利塔(1460年銘)は獣首です。
  江戸時代になりますが、茨城県坂東市(旧猿島郡猿島町)の万蔵院(真言宗)に石造舎利塔(1681年銘)があり、それは獣首です。
  時期に着目してください。朝鮮半島でとっくになくなった獣首をずっと造り続けています。
  朝鮮半島で獣首が流行するのは、仏教が盛んになったことと関係がありそうです。日本の舎利塔に獣首が見られるのも、それで説明できます。
  その朝鮮半島で亀首(※獣首?)がなくなるのは、元寇以後の中国との外交関係が関わりそうです。儒教の影響が強まります。
  こうした状況がある中で、江戸時代の大型墓葬が営まれることになりました。
※新羅 前57年 - 935年、高麗国 918年 - 1392年、元寇 1274年 - 1281年

http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edomin/kihu/_trwKFp3.html

朝鮮では儒式+仏式で獣首、儒式色が強くなると亀首?…でしょうか。
なお、儒教は、孔子を始祖とした思想体系で、孔子を祀っている霊廟の孔子廟の数は、現在の韓国でダントツに多いです。朝鮮の転換点は、新羅後期から高麗期(918年 - 1392年)の独自性のある「獣首」誕生とモンゴル帝国よる属国化(1259年)により元の「亀首」回帰で、日本の「獣首」の誕生の転換点は、おおよそ秀吉の朝鮮出兵(1596年)期に高麗時代の寺院をみているので、その時期に輸入されたと考える事ができます。

日本では「亀趺」と呼ぶのが一般的で”亀の台座”の意味だが、中国では亀趺は、単純に亀の場合を指し、龍ならば龍趺と呼び、龍頭亀身の場合を贔屓というようだ。贔屓の由来は玄武(亀と蛇=龍)の変化したものとらしい。なので、殆どの場合、贔屓と呼ばれる。

https://songye.exblog.jp/22529908/

中国の贔屓(画像有)
河北省正定県(五代十六国時代後唐)、山東省曲阜市孔廟十七碑亭、河北省承徳市避暑山荘、安徽省寿県北門
https://songye.exblog.jp/22529908/

北京市宛平城、北京市盧溝橋脇、南京市大鐘亭、南京市霊谷景区、ソウル特別市の大清皇帝功徳碑(亀首)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%94%E5%B1%93

韓国の贔屓(画像有)
安成康王墓(6世紀)、慶州西楽洞帰部(7~8世紀)、ソウル塔骨大原寺費(1471)、ミョンヒョルンのカン・ヒジェアピールビジョン(1699)、丹陽求人史世界平和起源費(1997)
https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B7%80%EB%B6%80

日本の贔屓(画像有)
東本願寺(飾り瓦の贔屓)
https://kyoto-zoo.com/cat26/

楠木正成と韓国人慰霊碑
https://ameblo.jp/ameblojptachan1941/entry-12675604217.html

徳川光圀公夫妻の墓(贔屓の向きは大陸方向という話も)
https://ameblo.jp/tokugawamuseum/entry-11632835336.html

23点の画像
http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edomin/kihu/_t4wB64I.html

1779年 菊池正観公神道碑(熊本県,「熊耳山正観禅寺」境内)
https://www.libraryofall-kikuchi.net/post/2022%E5%B9%B407%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E7%86%8A%E6%9C%AC%E3%83%BB%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%94%EF%BC%89

金昌寺(埼玉県秩父市)、月照寺(島根県松江市)、観音禅院(武蔵野市)、長崎孔子廟の贔屓(長崎県長崎市)
http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/fukuda/kame/kame-5.html

その他の国の贔屓
ベトナム、ハノイの孔子廟、ロシアのウスリースク
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%94%E5%B1%AD

つまり、この時期、日本において、儒教の影響も多少取り込んだ「仏教式」が、社会のトレンドであり、そこに儒教に傾倒し影響された藩主、貴族の間で使われた埋葬形態のひとつとしての贔屓を考える事が出来ます。

例えば、水戸黄門で知られる水戸藩の二代藩主、徳川光圀(1628-1700)の父・頼房が1661年、水戸城で死去しますが、葬儀は儒教の礼式で行っています。また湊川神社の楠木正成墓には贔屓がありますが建造させたのは、光圀です。そして光圀は朱子学派儒学者、林 羅山との親交があり、羅山の朱子学は中国から直輸入したものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に流入した朝鮮朱子学を自覚的、選択的に摂取したものであるとされています。

当時、秀吉の朝鮮出兵などの経緯があり、その後、儒教思想家が現われ、その思想の智慧を借り、藩政の基礎を固めようとしたのが、光圀、備前岡山の池田光正、会津の保科正之などです。前述のリンク先には、光圀が朱舜水を江戸に招いている事も書かれていますし、水戸徳川家と朱舜水の末裔との交流は2016年の光圀の墓所復旧工事の完了を記念し末裔たちが中国から来日しており、深い親交があるようです。
https://www.youtube.com/watch?v=8xMmukusScM

儒教式と神道式の葬祭儀礼

水戸藩の儒教喪祭儀礼文献について
https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/48/kiyo4802.pdf

上図の左の石碑は兜巾(トキン)があります。国家神道式の墓にも兜巾がみられます。下図の赤枠の先が尖がった形のことです。

「近世の墓を探る」立正大学博物館 P14-15第 17図
熊谷市内における墓石型式の変遷(セリエーション)
https://www.ris.ac.jp/museum/profile/lvhgqo0000004877-att/record_17_compressed.pdf

そうであれば、結局、水戸学の喪祭儀礼における儒教と神道の関係は、前期水戸学においては儒教的傾向が顕著であり、後期水戸学においては神道の影響がみられるようになるものの儒教に取り代わることはなかったということになる

https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/48/kiyo4802.pdf

ここまで、古墳時代の墳形、江戸期の贔屓の伝来、儒教思想の伝来・影響、兜巾と触れてきましたが、ようやく、神道式と儒教式の一致に関して考える事ができます。「朝鮮式」を疑問思考で考えてきましたが、中国の影響、各国の時世による栄枯、各国の独自進化がありますので「朝鮮式」の定義すら時代により変化します。

どちらかというと、「朝鮮からの伝来に依る儒教式の色合いが濃い時代」などの言い方の方が言葉としてふさわしいでしょう。それであっても、元祖は中国であったり、仏教であれば、元祖はインドであったりしますが。

一方、日本には、古墳時代はもとより、その後も中国や朝鮮の王朝滅亡などにより、王族関係者が渡来したり、王子を日本に送り再建を図る事もある訳です。そのような人たちが時の日本との中枢とかかわりが深いなら、復権に日本を利用したり、政争にも参加してくるでしょう。

…と長くなりましたので、この記事はいったん閉じて、後編に続きます。(後編を書くにも1~2週間程度、時間を要します)

日本書記のくだりに関しては、ナラティブ(物語性をもった)情報戦、歴史修正による復権目的…という視点で書きましたが、いやはや、今の時代まで論争になるくらい、その強力さが痛感できますね。現代においても、大衆の認知機能自体や馬人参の習性はさほど変わらず、科学でも、国際情勢でも、権力癒着・権威手法・プロパガンダからくる修正主義・真理省化が存在し、何かと被りますね。

ただ、今は、認知機能やナラティブ戦略など誰もが学べるのも事実ですから、学びへの重要度が高ければ、認知戦強国(フェイクを見抜く能力が高く、きちんと防御でき、他者にも伝える事ができる人が多い国)になれるはずです。
私たち次第ではありますが。


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