大塚英志の天皇制について

前書き

最近大塚英志の天皇制に関する文章を色々読んでいた。何か書こうと思って数か月悪戦苦闘してみたのだが、どうにも書けそうにない。それは僕に文章の読解能力とレジュメ的にまとまる能力が欠けていること(アカデミックリーディングとかいうのだろうか?)、そしてそれをめんどくさがるという性質によるものなので自分の責任なのだが、しかし何かを表に出さないことにはすっきりしない。ということでかなり荒い状態の文章なのだが(推敲もしていない)これをもって供養としようと思う。
お目汚しをして申し訳ないと思う一方で、まあ自分の文章力ではこんなものだろうという諦め、しかし自分の天皇制についての考えもある程度表れているという自負もあるという具合なので、奇妙な言い方だが読むほうも諦めてそういうものだと思って読んで欲しい。

本文

大塚の天皇制観はいかなるものだろうか。
それは天皇制を断念すべきだ、というものである。その理由は天皇制があることによって日本国民が「公民」になれない、というものだ。また、象徴天皇制が天皇個人の人権を奪うものであることも付け加えられるが、メインの理由としては先に挙げたものになる。
この主張は平成天皇の生前退位を受けて書かれた『感情天皇論』の中で主張されている。
最もこの主張は生前退位を受けて思いついたものではなく『少女たちの「かわいい」天皇』所収の「疎外された天皇を『断念』するために」(2003年)や『戦後民主主義のリハビリテーション』所収の「いかに『伝統』と決別するか」(2004年)でもすでに表明されている。
『感情天皇論』では天皇制の断念の一例として天皇家のバチカン化という突拍子もないアイデアも登場するが、実はこのアイデアも「疎外された天皇を『断念』するために」で示されている。
では、『感情天皇論』と他2つの評論の違いは何かというと、『感情天皇論』が小説や映画といった創作物の評論を通して近代天皇制観を暴き、批判するのに対し、他2つの評論は時制に応じたニュースに対して書かれた評論である、という点になる。最もそこでの分析結果には大きな違いはないし、また結論も先に述べたように変わらない。
問題は大塚の天皇制批判には基本的に天皇の代替物が出てこない、という点である。大塚が評論の対象とする作品には天皇がいない世界が描かれているものもあるが、大塚がそのような世界が良い、と言っているわけでもなく態度を保留しているように読める。
大塚は天皇が象徴天皇制によって感情労働をしているといい、加えて象徴天皇制によって日本国民が公民として戦争責任や歴史に対する責任から逃れている、という主張をしている。ここから天皇を解き放ち、国民に公民たる自覚を植え付けよう、という考えは私も同意できる。
『感情天皇論』には次の一文がある。
「そもそも本当に私たちは、今、天皇制を必要としているのか。」
これは反語となっているので、必要としてはいない、と言いたいと思うのだが、しかし、『感情天皇論』の中で天皇制の必要性の議論が十分に尽くされたとは言えない。漏れている議論の一つがナショナリズムである。実は『感情天皇論』には含まれなかったものの、大塚はかつて天皇制論をナショナリズムと関連付けて議論していた。

大塚のナショナリズム論はその文章が書かれた同時代的(90年代後半)なナショナリズムの空気とそこで現れた議論への批判として書かれている。前者はW杯における「君が代」、「日の丸」についてであり、後者は教科書問題についてである。両者に対する批判は同じものでナショナリズムにおける天皇の不在、無視を批判している。
ここでの批判はナショナリズム的な表象が無批判に用いられることで、なんとなくのナショナリズムに結びついていることに向けられている。そしてそれらの由来や歴史性が無視されていることを指摘している。
そのため大塚これらナショナリズムの表象を意識的に選択すべきだと述べ、その多くは不要だと述べる。そして先に挙げた理由で天皇が「断念」されるのだ。

ここで私の疑問に移るのだがナショナリズムとは公民を成り立たせるための公共性、公共圏の「枠」ではないのか。つまりナショナリズムを批判して放棄したときに、私たちはいかなる公民であり得るのか、という疑問が残るのだ。
おそらく大塚は個々人が公民となることで、主体的に議論し、歴史的決断、結果を引き受けられるようになる、という在り方をイメージしていると思う。では公とは何か。大塚が依拠する柳田の時代であればそれこそ国民国家が想定されるだろうが、大塚はそれを批判しているように見える。大塚は国家を政治システムの単位でしかないものだ、とまで言うのだが、問題はナショナリズムの表象をはぎ取られた政治システムに公民が参与することはできるのだろうか。
大塚の公民は理想化されたものではあるのだが、その一方でそれをあまりに「私」とその周辺的なものに集約しているようにも感じる。それを地に足のついた公共性論として評価もできる。一方でそれはその人たちの社会、公における議論にはつながっても国家についての議論にはつながらないように思う。
私の考えではナショナリズム的な表象は人々にナショナリズムの感覚をもたらすために必要であり、それがあるから、国家にまつわる議論ができるのではないか。それは地域社会的な公民からの飛躍である。
大塚が伝統や国家を批判できるのもまたそれらのナショナリズム的な表象があるからである。これはそれらの表象が批判対象として存在するから、という意味ではなく、それらの表象によってつくられた枠があるからだ、ということだ。
批判によってその枠を取っ払ったときにその代わりになるものを大塚が用意できているようには思えない。それは公民が議論していく中で作られていくのだ、というのかもしれないがそれが国家のレベルまで届くとは思えないのだ。
私はむしろ公民が成立するためにナショナリズム、とりわけ天皇が必要だと思う。

参考文献

大塚英志(2003)『少女たちの「かわいい」天皇』角川書店
大塚英志(2004)『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』筑摩書房
大塚英志(2005)『戦後民主主義のリハビリテーション』角川書店
大塚英志(2007)『公民の民俗学』作品社
大塚英志 宮台真司(2012)『愚民社会』太田出版
大塚英志(2019)『感情天皇論』筑摩書房


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