【R18】 永遠の三日月 ②
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高校三年の一月から、半年ほど付き合った男が居た。信一というサラリーマン。わたしよりも八つ年上だった。
学年末試験の前日にひとりで映画を観に行ったわたしは、池袋の文芸坐でナンパされた。
お茶も飲まずにそのまま江古田にある彼のアパートに直行して、セックスをした。
そうすることに、なんのためらいも感じなかった。
初めてセックスしたのは高三の七月だった。相手はひとつ年上の大学生。
新宿の丸井の前でナンパされた。テレビ番組の話ばかりする、つまらない男だった。
彼とのセックスは合計三回。
思ったほど痛くはなかった一回目。痛みと、こそばゆいような感じが同居していた二回目。三回目は痛みはなく、くすぐったいだけだった。
二人目は中学の同級生。十月だったと思う。
同窓会で会った時に映画に誘ってきた。
彼のことはなんとも思っていなかったが、断わる理由を思いつかなかったので約束をした。
そして映画を観た後で、当然のようにわたしを抱いた。
人妻と付き合っているという彼は、自分のサイズとテクニックにかなり自信があるようだったが、わたしはちっとも感じなかった。天井のシャンデリアだけを見つめていた。
その後は会っていない。
三人目が信一だった。
信一とのセックスは、初めから快感しかなかった。
最初に彼の部屋で抱かれた時から、わたしはどうしようもないくらい濡れてしまった。
彼の指が触れるだけで電気が走った。息がかかるだけで身体が熱くなった。
彼が入ってくると、抑えきれずに声を上げた。
セックスが気持ちのいいものだと、その時初めて知った。
信一と会うのは日曜の午後。決まって彼のアパートだった。
六畳に三畳のキッチン付きの部屋には不釣り合いな、立派なシステムコンポがあって、ビートルズなんかをかけていた。
壁にはスーツが吊るされていた。
彼はキャスターを吸っていた。
そして良太と同じようにヘビースモーカーだった。
わたしのセックスは、すべて信一に教え込まれたものだ。半年の間で、わたしの身体は少女から女に作り変えられた。
フェラチオの仕方を教えたのも信一だった。
彼に口を犯されるだけで、わたしは濡れてしまった。彼の舌が肌に触れると、愛液はスリットを伝ってシーツを濡らした。
彼は中国の占星術に凝っていて、会社を辞めても街頭に立ってやっていける自信があると豪語していた。
その占いによれば、わたしは淫乱な星のもとに生まれたのだそうだ。そして、それは彼の方も同じなのだという。
だから俺たちは出会ったのだと、彼は言った。俺たちは身体が合うのだとも言っていた。
わたしは彼を愛していた。
タバコの匂いの付いた爪も、コーヒーの味の苦いキスも、いやらしい指も、強引な性格も、低い声も。
彼のセックスも、彼に属するすべてのものを。
けれど信一が愛してくれたのは、わたしの身体だけだった。
どんなに彼を好きになっても、決してわたしを好きだとは言ってくれなかった。
それを知って、いつの頃からかわたしは彼に抱かれながら泣くようになった。
彼は「泣くなよ」と言うだけで、涙を拭ってくれようともしなかった。
十八歳の少女の思いは、灰色のスーツを着た疲れたサラリーマンには重すぎた。
ある日いつものように部屋を訪ねると、スピーカーの上に飾ってあったチョコレートの箱がなくなっていた。
バレンタインにわたしがプレゼントしたものだった。
おかしいなと思っていると、終わった後、布団の中で彼が言った。
「会社に好きな女の子が居るんだ。なんとなく上手くいきそうなんだよね」
だからどうだというのだろうか。わたしはなんだったというのだろうか。
好きじゃないならどうして半年もわたしを抱いていたの?訊きたかったけれど、泣くことしかできなかった。
それきりになった。
二ヶ月ほどして、突然彼からの電話で呼び出された。
勝手な男だと思ったけれど、信一に会えるという単純なうれしさで、わたしはまた江古田へ出掛けていった。
そして、いつも通りにセックスをした。
「会社の子と、だめになっちゃったんだ」
彼はそう言った。
わたしへの謝罪はなしだった。
それでも、また抱いてもらえただけで幸せなのだと思った。
たとえ愛してもらえなくても、身体だけでも必要としてもらえるのなら構わないと、自分をごまかしていた。
そうやってヒロイックな気分に酔っていた。
やっぱりわたしは泣いてしまった。
今度は本当にそれきりだった。
わたしは彼のことを何も知らなかった。
伊藤信一という名前。
わたしより八つ年上で、三月六日生まれであること。
出身地が神奈川県であること。
新宿にあるソフトウエア会社に勤めていること。
キャスターを吸っていること。
コーヒーはブラックで飲むこと。
ビートルズが好きなこと。
それだけしか知らなかった。
けれど、彼の身体はわたしの身体が一番よく知っていた。
彼を許してしまうには、わたしはあまりにも幼すぎた。
彼は二十六歳の立派な大人で、わたしはたった十八の小娘だったのだから。
信一と別れてから、寝た男の数は憶えていない。一年で軽く両手分は超えてしまった。
でもどんな男と寝てみても、彼以上に感じさせてくれる人は居なかった。
もちろん、信一とのセックスにも絶頂感はなかった。
だけど、他の誰としてもそれは同じことだった。
だから彼が忘れられなかった。わたしの身体が忘れようとはしなかった。
彼以外の男とのセックスで、あんなに濡れたことは一度だってなかったのだ。
良太は信一に似ているような気がする。
うまく言えないけれど、どことなく、タバコの吸い方や強引な性格が似ているように思えた。
それとも、わたしがそう思いたかっただけなのだろうか。
でもわたしは濡れてしまった。信一とした時と同じように。
相変わらず絶頂感はなかったけれど、足の間を愛液が伝わる感覚は、わたしを切ない気分にさせた。
だけど、とわたしは心に釘を刺す。
好きになってはだめよ。
もうあんな辛い恋はしたくない。
良太の身体を知れば知るほど、わたしは彼に惹かれてしまうだろう。
きっとわたしは性欲と愛情を混同しているのだ。
セックスには愛なんて必要ない。そんなもの、ない方が気持ちいいに決まっている。
信一とのセックスがそうだったように。
そして良太とのセックスがそうであるように。
だって、洋輔とのそれは少しもよくはないのだもの。
もし本当に愛が必要なのだったら、洋輔に愛されているわたしは、もっと幸せなはずだった。
今のわたしはちっとも幸せなんかではない。
洋輔のセックスは、数を数えているうちに終わってしまう。麻酔の時の儀式に似ていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。いつつを言わないうちに闇の中に落ちる。
あれと同じタイミングで、洋輔はわたしの上に崩れてきた。
そうして家へ帰った後で、わたしは信一を想いながら、指で自分を慰めた。
自動販売機で紙コップのブラックコーヒーを買って、学食の椅子に座った。
コーヒーが好きな信一の影響で、わたしはずっとブラックだった。
砂糖を入れずに飲むようになって、初めてコーヒーの味がわかるようになったと思う。
人生もそうなのかもしれない。
愛だってきっと同んなじなのだ。
シュガーコーティングなんてない方がいい。
本当の味を知った時に、よけい苦く感じるだけなのだから。
バッグからセーラムライトを出して、一本だけ残っていたそれを咥えた。
最近本数が増えてしまった気がする。
昨日買ったばかりのタバコが、一日でもう空だ。
このままだと、洋輔と会っている間の禁煙に耐えられなくなってしまうかもしれない。
でも、もうどうでもいいような気がしていた。
洋輔とはもうセックスしたくない。
顔も見たくなくなる日も、案外近いうちに来るのかもしれない。
「よっ、こないだはどうもな」
良太だった。
自分のコーヒーをテーブルに置いて、わたしの向かいに座った。
「良太、授業どうしたのよ」
今日は合同授業がある日だ。
けれどその教室に彼の姿は見えなかった。
「ああ、ちょっと寝坊しちゃってね」
「じゃあなんで今頃出てきたの?」
いくら寝坊したといったって、もう夕方だ。この後授業は入っていない。
ゼミを取っていないなら、学校に用はないはずだった。
「決まってるじゃん。夏実に会いにだよ」
「調子いいわね」
わたしは良太の顔に煙を吹きかけた。
「タバコ一本くれない?切らしちゃって」
「わたしもこれが最後なのよ」
「それでいいよ。ちょっと貸して」
彼はオレンジ色の口紅が付いたタバコを取り上げた。
「へえ、メンソール入りなんて吸ってるんだ。初めて吸ったな」
そう言って、お返しにわたしの前髪に煙を吹きかけた。
「でさ、次はいつ会える?」
「今会ってるじゃない」
「そうじゃないよ、あの時の約束」
「約束なんてした憶えないわよ」
良太は指先でわたしのイヤリングをいじっていた。
そうされるだけで、わたしはもう濡れていた。ショーツに染みができてしまうかもしれない。
あの日から、わたしの妄想の対象は良太になった。
自分の部屋のベッドの中で、指を使いながら彼に言われた通りのセリフをつぶやいていた。
「美散のこと、泣かせちゃだめよ」
「俺はどっちかっていうと、夏実をヒイヒイ言わせて泣かしたいね」
「やってみてよ。できるもんなら」
「俺のこと、好きになるよ」
共犯者の目で見つめあった。今すぐにでも抱かれたいと思った。
「今日……」
言いかけた時、後ろで良太を呼ぶ声がした。
「朝日奈くうん、ごめんね、待ったあ?」
美散だった。
振り向くと、わたしに向かって
「あ、夏っちゃん元気い?」
と手を振った。
「おー、待ったなんてもんじゃねえよ」
良太は立ち上がると、タバコを灰皿に置いた。
「じゃ、な。また今度よろしく」
そう言って、さっさと美散の所へ行ってしまった。
「夏っちゃんバイバイ」
美散に応えて手を振り、良太の背中に声を投げてみた。
「バイバイ、朝日奈くん」
聞こえているはずなのに、彼は振り返らなかった。
手をつないで行ってしまったふたりを見送って、わたしはため息をついた。
「バイバイ、朝日奈くん」
もう一度、小さくつぶやいてみる。
「好きよ、良太」
今度は心の中で言ってみた。
どちらもそらぞらしいような気がした。
紙コップに残っていたコーヒーを飲んでみる。
すっかり冷めた黒い液体はとても苦くて、ほんの少し吐き気がした。
男はずるい。
でもわたしだって同んなじか。
そう考えて、灰皿に置いたまま短くなっていたタバコを吸った。
メンソールタバコは口の中がスースーするのはいいけれど、煙が目に染みやすいのが難点だと思う。
「愛されたい」
唐突にそんな言葉が浮かんできた。
誰にの限定もなしに、ただわたしは愛されたいのだと、紫色の煙を見つめながら思った。
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