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問いに答えが必要かどうか

10月末頃、Entôであるイベントに関わらせていただき、直会(なおらいって言うらしい、島に来るまで知らない言葉)をした。

イベントに関わらせていただいて強く感じたのは、問いと向き合うこと
それが大切かどうかはさておき、これまで自分の中で疎かにしていた行為のひとつ。、

今日の直会はもちろん、その後藤代さんをつかまえてグタグタ話して悩み、問い、モヤモヤ、etc....についてぶちまけることができて、とても充実した時間となりました。

そこで感じた2つの要素?トピック?について書いておきたくて、思いつきで書き始めている今。

全力であることが美しい

自分に対する問いを藤代さんに深掘りしていただきある程度の結論になりましたが、自分は全力が好きです。

理由として原体験がいくつも思い当たりますが、小学生の頃のサッカークラブでの活動が1番大きい。

小学生の頃、サッカーチームでキャプテンをやっていた自分は、負けている試合では試合中にも関わらずボロ泣き、、、
おそらく自分の力の無さとチームメイトへの憤りとやるせなさとか色々混ざって悔しくて、泣いて。

そんな自分が1番好きだった!

なんで?

全力だったから?

なるほど、

となり、結果や状況はさておき、全力であることが1つの軸になっていることがボンヤリと判明。

全力を注げるもの、ばしょ、ひとに向き合い続けましょう。


問いに答えは必要か

問いというものに向き合い始めたのもここ最近。今までは無意識に逃げてきたのかも。
言語化上手く出来ないし、なんか恥ずかしいし。

でも、今の自分は答えは不要。
というより、問いや悩みと向き合い続けることを避けたくない。

答えが出るなら出るでいいし、出ないなら出ないで向き合い続ける。
そこを重く考える必要も無いかなと思えるようになれたんじゃないかな。

あとはアウトプット上手くなれるように頑張ります。ほんとに、早急に、まじで、ASAP。

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