衝突の中の調和
友達と「大豆田とわ子と3人の元夫」について話したとき
「とわ子とかごめの間にあるものが好き」
と、彼女たちの友情についてそんな言葉を口にしたことがある。
最近のツイートで、一対一の人間関係のことを「私との間の関係」と表現していた。
「私のことを大切にしてくれていた」ではなく、「私との間の関係を大切にしてくれていた」と捉えていることに気づいた。
私と、あなたの、この間にあるもの、それをお互いに働きかけて、大切にしてきたねという感覚だった。この間にあるものは、ゆらゆらと表面に波をたたえるような流動的なもので、同じ形であることはなく、それぞれの働きかけが変わると変化していくもの、というイメージ。
どちらか一方の働きかけではその形は歪なものになって、お互いに心地よくない。居心地の良さは、一緒に作っていくもの。だからこそ、すごくかけがえのないもの。
そんな感じなのかなぁと考えていたところ、先日受けた古武術の体験会で
「人と人が関わる間には、お互いからでた矢印のぶつかるところで”衝突”がおこる。”衝突”というとちょっとネガティブなイメージがあるかもしれないけど、お互いが同じだけ働きかけたらその”衝突”は”平衡”になる。そのことを、武術的調和と考えています。衝突の中に、調和は生まれます。」
という話を聞いた。
聞いた瞬間、わ!!!!!と、嬉しくなった。
感覚として捉えていたものが言語化されたような喜びがあった。
相手のことが大好きで100の気持ちを向けたとして、相手には30の気持ちしかなかったらそれは歪な形になる。逆もそう。
私も50、相手も50、その時は力みのない自然体の関わりが生まれる。
それは「相手の出方を伺う」ということではなく「今、この関わりの中で相手はどんな表情をしているかな?」と思いやりを持って観察するような感じかな、と思った。
古武術の稽古では、相手に触れた時にその体温や感情や緊張を観察する。
そして、それに「調和しよう」と意識をしていく。
それが均衡した瞬間に、まったく力みのない状態で自身の筋力を超えたパワーが発生する。パワーというか、重力…!?と思うくらい、どっしりとしたものだった。この体感がある上での哲学部分のお話、染み入りすぎて面白かった。習うことにした。
長いこと『人間関係は「化学反応」』だと思ってきた。
合う合わないは意識の外にあり、なぜか合う、なぜか合わない、合わないと思ったのにめっちゃ反応しあってしまった、すごく合いそうなのにびっくりするくらい合わない、そういう予想できないミラクルな人間関係の反応を「化学反応」という言葉で捉えていたけれど、思考が整理されるにつれて考え方が変わってきた。
『人間関係は「セッション」』なのかもしれない。
お互いの間にあるものを、どう形作っていく?
そんな体験なのかもしれない!
とわ子のドラマ、大好きだ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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