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あなたに出逢えたのは運命だったのか

運命と偶然

 高校生の時、少し面白い出来事があった。僕は合唱部に入っていて、毎年初夏の頃にある文化祭が3年生の最後のステージで、そのステージの後部長と副部長とがみんなの前でちょっとした挨拶をするのが通例になっていた。ひとつ上の代の文化祭での最後のステージの後、まず副部長が「ぼくたち3年生がこうして出逢ったことは運命でした」と話した。まぁ青春時代の夢見がちな青年が語る、言ってしまえば陳腐な話しだとぼくも思う。しかしそのあと部長が話す順番になって、「もともと私はこのメンバーが集まったのは偶然だった、と話そうとしていましたが、彼が言ったみたいに、やっぱり運命でした」と言って笑った。
 これはとても他愛もないエピソードだとは思う。けれどあれからもう何年も経った今でも、妙にこの話が頭に残っている。同じことについて一人は「運命」だと言い、もう一人は訂正したとは言え、はじめそれとは真反対とも思える「偶然」と思っていた。別に同じ一つの事物について、別々の見方があるというのは珍しいことでもなんでもない。しかしこのなんでもないエピソードがずっとぼくの頭に残り続けているのは、やはり運命というロマンチックな言葉の響きのせいなのかもしれない。

 「運命」とは、Wikipediaによれば、「人間の意志をこえて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。あるいはそうした力によってやってくる幸福や不幸、それの巡り合わせのこと。」「人生は天の命によって定められているする思想に基づいていると考えられている、人の意志をこえて身の上に起きる禍福。」というふうな意味だという。ここでは3つのことが記されている。一つは、それが人間の意志を超えたところからやってくること。二つ目は、それが人間の幸不幸に関わる出来事であること。それから最後に、天の命などの人間の世界より上位の世界や存在からの力によって定められているということである。
 こうした思考様式の来歴は古く、ギリシア神話のモイライや悲劇作品を見ればわかるように、少なくとも古代ギリシアの時代には存在していた。
 一方で「偶然」についてはWikipediaでは次のように記されている。「偶然(ぐうぜん 英:contingency)とは、必然性の欠如を意味し、事前には予期しえないあるいは起こらないこともありえた出来事のことである。」「必然性の欠如」とあるので念のため「必然」の意味も見ておこう。「必然性(ひつぜんせい、Necessity)とは、そうなることが確実であって、それ以外ではありえない、ということである。」
 こうしてみてみると、「運命」とは超意志的、禍福に関わる、超越的存在による、という限定はありつつも「必然」に含まれる意味内容であり、そういう意味ではやはり「偶然」と対立するものと言と言えるかもしれない。
 でも実はぼくは「運命」と「偶然」は、実のところそこまで背反するものでもないんじゃないかと思っている。そうすれば初めのエピソードもまた違う見え方がするかもしれない。そのために門外漢ながら物理学の話に回り道をしようと思う。

ラプラスの悪魔は本当に否定できるのか

 ラプラスの悪魔という、よく知られている物理学の仮説がある。一人の悪魔がいる。彼は自然界におけるあらゆる力とある一時点における全宇宙の状態およびその素材を完全に把握している。もしこのような存在がいるとするならば、因果律に基づいて、彼は未来に起きるあらゆる出来事を確実に知ることができるのではないか。そう18世紀フランスの数学者ラプラスは考えたのである。
 だがこの仮説は20世紀初頭に登場した量子力学の不確定性原理によって完全に否定されたということである。難しい話はよくわからないが、Wikipediaによると「原子の位置と運動量を同時に知ることは原理的に不可能である」ということであった。
 繰り返すが私は物理学についてはズブの素人だ。だからあまりその議論に深入りするつもりはない。専門家の方からは的外れな議論をしていると捉えられるかもしれないが、とりあえずは字義通りに、「原始の位置と運動量を同時に知ることは不可能であるため、一時点における全宇宙の状態を把握するという悪魔の前提は成り立たず、故にラプラスの悪魔は存在しない」というふうに理解しておこう。

 なぜ私は周り道をしてまでよく知りもしないラプラスの悪魔の話をしたのだろうか。ラプラスの悪魔は「運命」とは関わりのない話だというのに。ラプラスの悪魔の話はむしろ必然性と偶然性の議論に深く関わっていると思う。つまり因果律とそれに基づく法則を前提として、あらゆる物体とそのもつエネルギーを解析すれば、物理的運動がその将来にわたって必然的に導き出せるというのは、科学的決定論=必然性への信仰告白であり、それを否定することは程度の差こそあれ偶然の可能性の示唆になる。
 ところでこの量子力学の発見は実のところ、因果律の否定とまでは言えないというのが実情らしい。初期に不確定性原理を提唱した、アインシュタインと並び称される物理学者ハイゼンベルクの議論を受けて、特に思想界隈では因果律が否定されたと捉えたようだが、そのハイゼンベルクの議論には現代量子力学からみると誤り含みであったようだ。
 そうだとするとこの議論においては、必然性と偶然性に関して次のように理解することができるかもしれない。つまり我々は誰一人として原子の位置と運動量を同時に知ることが原理的に不可能だという意味では、帰納的に因果的必然性を確定することはできない。つまり我々は物事の必然性を観測できないという意味で、あらゆる事物は偶然的に生起すると捉えることができる。しかし一方で出来事が全くの偶然によって生起しているようにはどうしても思えない。実際のところは、我々がそれを知らないだけでニュートン力学でも相対性理論でもなく、より高次の整合的な法則があり、その法則や量子力学では否定された原子の位置と運動量を同時に知る仮想的な、超越的存在を想定することは否定できないのではないか。いかに必然性を整合的に説明する原理が否定されたとしても、人々が物事が因果律に従っていると感じる限り、我々の知らないより高次なルールや認識手法があることは思い描かれ、そこから仮想的にそれを知る存在も想定される。人間が因果律を根本的に否定できない限り、ラプラスの悪魔は何度でも蘇るのだ。

カントの二律背反と要請される神

 ここでどうしても思い出されるのは、カントが『純粋理性批判』で展開した理性の二律背反論についてだ。なぜならば必然性の前提となる因果律と運命が前提とする超越的存在はある意味では矛盾するように思われるものだからである。そこでまず前段階として『純理』について軽く記しておこう。カントはまず理性というものがそれまで無批判に論じられてきたような万能なものではなく、必然的に間違えを犯すものだということを指摘している。

 人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が退けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。
カント『純粋理性批判』篠田訳p13

理性はその能力を越えたものを考えてしまう。そのためカントは、まず先験的感性論及び先験的論理学の先験的分析論にて人間の認識の仕方を論じた上で、その後の先験的弁証論のくだりで人間理性が考えることのできる領域を限界づけようとした。そこで登場するのが二律背反である。ある命題を証明するには、それとは反対の命題が成立しなければよい。しかし奇妙なことに2つの相反する命題が同時に証明として成立してしまうような事態が発生する。それこそが二律背反である。カントはそんな二律背反を4つ挙げている。その中でもここで重要になるのが、力学的アンチノミーと呼ばれる二つである。

先験的理念の第三の自己矛盾
 正命題
自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそこから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
 反対命題
およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。
カント『純粋理性批判』篠田訳pp125-126
先験的理念の第四の自己矛盾
 正命題
世界には、世界の部分としてかさもなければ世界の原因として、絶対者に必然的な存在者であるような何か或るものが実在する。
 反対命題
およそ絶対に必然的な存在者などというものは、世界のうちにも世界のそとにも、世界の原因として実在するものではない。
カント『純粋理性批判』篠田訳pp133-134

やや難解な内容ではあるが、ここで扱われている問題は要するに物事の原因となる自由や神のような超越的存在はいるのかどうか、という話である。自由や神が存在するとするならば、それによって因果論的な法則による連関は崩されてしまうため、これはありえない。しかし自由や神が存在しないとすると、因果論的な法則による連関のそもそもの第一原因がなくなってしまい何も起こらないことになり、これまたありえないのである。要するに理性によっては神や自由が存在するという説としないという説が両方成立してしまうのだ。
 ではカント自身はこの難問に対してどのような回答を与えたのだろうか。簡単に言ってしまえばカントは、それぞれの問題について矛盾するように思われる2つの命題はともに真だとした。どういうことだろう。要するに我々が経験により認識する世界においては全てが因果律の法則に従って生起するためそういう意味では自由も神も存在しない。しかし我々の認識能力の限界の外側には神や自由が存在し、それを因果論とは別の仕方で原因として生起しているというのである。もちろん神や自由の存在自体を明証的に証明しているわけではないので、これは単なるこじつけのようにも思えるかもしれない。しかしながら先程二律背反の説明でも述べたように、神や自由がなければ因果律は成立しないという意味で、少なくとも神や自由の存在は必然的に要請されるのである。これがカントの神の自由と因果律との対立の解決である。

あなたに出逢えたのは運命だったのか

 さてこれまでの議論を整理しよう。ラプラスの悪魔をめぐる議論では、因果律そのものの根本的な否定がなされなければ悪魔は存在し続けることを記した。この時、偶然と必然という相矛盾する二つのものが同時に存在することになる。つまり偶然とは人間が原理的に全面的に必然的連関を認識できないことであり、因果律が否定されない限り超越的存在の全的観測による必然は仮想され続けるということである。
 そしてカントの二律背反論では、因果論的必然性と第一原因としての神の自由がどのように整合するかという議論だった。カントは因果律を経験の認識の領域のみで妥当するものであり、その外側に認識できないが確かに存在する物自体として神を考えることで、この二律背反を回避した。
 お気づきかと思うが、この二つの議論は類比の関係にある。前者では偶然と必然について考えた時、人間の思考能力の限界のため必然性を認識できないため、人は偶然と考える。後者では因果論的必然性と神の自由を考えた時、人間の理性能力の限界により神を認識できないため、人は因果論的必然と考える。しかしここで気をつけなければいけないのは、神と必然性とは本来矛盾するものではないということだ。神による必然性、それこそが運命だ。カントの議論では経験の世界で因果論的必然性を考えることは、物自体の神の自由を考えることはなんら矛盾しない。現象は他の現象との因果律によって必然的に生起するのと同時にまた、神の自由意志によってもまた必然的なのだ。
 ここにこそ「偶然と必然」、「偶然と運命」との違いがある。「偶然と必然」では要請されるのはあくまでも観測者としての悪魔だった。だから悪魔の存在は決して現実には関与してくることはない。だから偶然と必然はその出来事の連関が見えているかという、単なる解像度の問題になる。しかし運命となると、少し違う。超越者が私にこの出来事を与えているということを漠然とであれ信じているか、ただその信のみが問題となる。有限な存在としての自分が見ることを重視するならば、基本的にあらゆる出逢いや別れ、幸福や不幸は偶然に起こった出来事に過ぎない。しかしそこに、有限な存在が決して達し得ることのない神が、超越者がそのように采配している運命だと心から信じるならば、あらゆる出来事は彼から私に与えられており、例えそれが悲哀や辛苦に満ちた日々であってもそれを私は心からこの日々を愛することができる。

だからあなたに出逢えたのは運命でした。

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