習作1
彼はもはや語ることをやめたがっている。彼はいまや年老いて、動くことはままならない、膝がとても痛むのだ。その痛む脚をおして、彼はここまでひとり、歩いてきた。ここというのは海で、海といっても押し寄せる波の中を一歩一歩あゆみを進めてきたというわけではなくて、その波が打ち寄せてくる浜辺のことで、ここは町からそれほど離れているというわけではないというのに人は誰もいなかった。とはいってももちろん彼はそこにいるわけで、彼の後ろには舗道とのあいだの少し芝のように低い草が混じったところから一筋に、それもあいまいな形をした彼の足跡が続いていた。砂の上を歩むごとに彼の長らく手入れがなされずにひび割れてしまった革靴に砂は絡まり、砂にうずもれてもたつく。がようやく彼は水際までたどり着いたのだ。彼は草臥れて、砂の上に腰を下ろして、かたわらにずっと持ち歩いてきた四隅に鋲を打ったトランクを放るように置いて、陽を浴びて鈍く黒く光る靴のすぐそばまで波が寄せてきた。波の音は近くに来るまで思っていたほどには大きくなくて、引き際にソーダ水みたいな音を周期的に立てて水泡がほどけた。あたりには波が打ち上げたくねった白い流木や、沈没船の甲板の板や、コカ・コーラのペットボトルが転がっている。数年に一度、この浜には死んだクジラが打ち上げられて、その時はびっくりするくらい町の人たちがここにやってきてそれを遠巻きに見つめていて、だけどそうした関心は三日と持たずに一足は引き、気が付くとその大きなクジラもだれが持ち運んだのかもうそこにはなくなっていた。彼がここに来たのも、自分の郷里だとか、親しい人を訪ねてだとか、何かの目的があってのことではなくて、どの道を歩いているのかもわからずに歩くままにここにたどり着いた。彼はここに至るまでに、本当に様々な道や道もないような道を歩いてきて、ひたすらに続く上り坂や下り坂の森の中や、特徴のないものの一つとして似通っていない建物が視界の端から端まで碁盤の目状に均整に立ち並んだ迷路めいた街をひたすら抜けた末にここに来たのだ。
なぜ彼はそこまで歩いたのか。彼には帰るべき場所がなかったのだ。何日前になるか、ひょっとすると何か月も前になるかもしれないけてれど、彼は彼の住んでいた家を追い出された。とっくにいつというような時間の感覚は彼にはなかった。それはあまりに突然の、少なくとも彼にとっては予告なしの出来事であった。彼は革張りのソファの背にもたれて、コーヒーを飲んで退屈な本を読んでいた時、突然チャイムが鳴った。マグを持ってゆっくりドアを開けると二人の男がそこにぼろをまとって立っていて、一人は腹が出た中年の男で、その後ろのもう一人はそれよりは少し若い目の下にクマのあるひょろっとした背の低い男で、彼はその若い男とどこかであったことがあるような気がしたが思い出せない。太っちょはこちらに紙を一枚付きつけて「あなたには・ここを・でていってもらわなければなりません」と区切りながら丁寧に言い放った。
「あなたは?」彼はいぶかってドアの隙間から二人を上から下まで眺める。太った男は眉一つ上げずにつぐんだままで、後ろの男は高い鼻とこけた頬が骨ばった印象を与えた。太った男は振り返って後ろの男と目を合わせた後、
「それは大した問題ではないのです。重要なのは、この書類にある通り、この家が差し押さえにあったということ、そしてあなたはこの家を出ていかなければならないということなのです」と同じように機械的な口調で言った。見ると家の前の階段の下の狭い道路のわきに一台の真っ黒な車が止まっていて、その後ろにはる杖をついた老人や近所のご婦人が何ごとかとこちらを覗いていた。いぶかるように眉に眉間を寄せた顔をしたご婦人はまだ若く、ご主人は結婚してすぐに戦地に送られてずっと家を空けていた。とりあえず男達には家に入ってもらう方がいいだろう、一通り話を聞いてそれから彼らをすぐにでたらめだと追い返せばいいだけだ。
男たちはソファに腰掛けると、太った方はぐるりと部屋を見渡していて、もう一人の方は腿に肘をついて手を組んで落ち着きなく貧乏ゆすりをしていた。
「とりあえず、コーヒーを入れてきます。砂糖かミルクはいりますか」
「いいえ結構。話はすぐ済みますから。そうしたらあなたには出ていってもらいます」
と痩せた男が言うがすぐに太っちょの方は、
「砂糖をすこし、それと何か食べるものを頂けるとありがたいです。じつは朝から何も食べていなくて腹ペコなんです」
と言ったが、若い男は相変わらず組んだ手の少し先を見つめたまま貧乏ゆすりを続けている。カップについだコーヒーと朝の食べ残しのパンの切れを数切れ乗せた皿といちごのジャムを盆に乗せて持っていくと、机においてすぐに中年男はひったくるようにパンをとって、ジャムを塗って鼠みたいに醜くくいちらかしはじめたが、痩せこけた男の方はなかなか話し始めなかった。
「それで、差し押さえられた、とはどういうことなのですか?」
それでも男は頑として口を開かない。ふとっちょのパンをむさぼる音だけが部屋に満ち満ちて、それで彼はいらだつのだ。機嫌よく交渉ができるだろうと少し多めに持ってきたパンの切れをきれいに平らげて、皿の上のパンくずまできれいに舌でなめとったあと、コーヒーを一度で飲み干して、中年の男は一息ついてから再び言った。
「先ほども言った通りです。単純なことですよ。この家は差し押さえられたんです」
「いったい誰が差し押さえたのですか。それを言ってもらわないと話になりません。第一私にはそんな覚えはないのですから」
「そんなことはわたしたちの知ったことではありませんよ。わたしたちはあなたに、この家が差し押さえられたということをお伝えするように申し付かっただけなのですから。そう私たちに命じた人だって、上の者からそう命令されたんです。それよりさきはわかりませんが……。とにかく、あなたには、ゲフッ、ここから出ていっていただけねばならないんです」げっぷをしながら男は呆れたようにまたそういった。もう一人の男はというと、口を真一文字にに結んだまま両手を忙しく組みなおし続けていて、視線は机の上に置かれた、さっきまで彼の読んでいた本に移っていた。彼は男達から受け取った書類を一瞥してからいう。
「それでは話になりません。ではあなた方はいったい誰なんです。上の方とも話をさせていただかないと」
「それはできませんよ、彼は忙しいんです。」
「それでは、ここから出ていくことはできません。本日はお引き取り願います。」
指についたジャムを必死になめていた中年男はこっちをぎっと見つめてかたまり、少しの沈黙のあと、
「後悔はなさらないでくださいね?」というと、さっきまで貧乏ゆすりをしていた若い方が急に立ち上がって彼の襟をつかんだ。その拍子に手に持っていた白い大きなマグは落ちて割れてしまい、コーヒーが思い切り膝にかかってしまったが、火傷せずに済んだのはそれだけ時間が経っていたということだった。彼が若い男に引きずられるがままにされているあいだ、この男とは誰だったか、ひょっとするとこの男は私の息子だったのではなかったか、いや違うようにも感じる、などと考えていたが、そのうちに彼は玄関から放り出されてしまった。そのまま階段を転げ落ちた。階段は普段登っているよりもずいぶん長く感じたが、落ち切った後太っちょが投げた彼の靴とさっき読んでいた退屈な本と、普段使いのトランクとが降ってきて、すぐ後に家のドアが閉まる音がした。そこにはもう老人もご婦人もおらず、彼はひとりそこに取り残されてしまった。
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