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その日は雪が降っていた。

9話

兄の言う通り、母はすぐに来た。
多分もう床に就いていたのだろう、いつも割ときちんとしているのに足元は便所サンダルだし、服は着古たTシャツとズボンだしで、アンジュの祖父を見たあとだと何だかどうも小っ恥ずかしい気持ちになった。
「瀬那!」
駆けつけた警察に事情聴取をされていたあたしはその声を聞いて、引っ込んでいた涙がぽろんと一粒零れ落ちた。
母は飛びつくようにあたしを抱きしめ、すぐにあちこち確認するようにぺたぺたと触ってくる。
水道水でベシャベシャなあたしを抱きしめたせいでTシャツの色が変わってしまっていた。
「ああ‥‥せっかく綺麗な顔で産んだのにこんな傷つけやがってどこのどいつよ、殺してやる!!」
「ちょ‥‥母さんお巡りさんいるから物騒なこと言わないで」
壁に押し付けられたせいで、右頬の高いところに傷が出来ていたのを見つけて、母は金切り声を上げた。
わっと泣き出す母を兄に任せて、黙って待ってくれていたお巡りさんを振り返る。
若い女性の警察官は、松島と名乗った。
「あの、母がすみません」
「いいよお、謝ることじゃないよ。いいお母さんだよ」
松島さんはやたらと間延びした喋り方で、先程していた質問を繰り返した。
「それでやっぱり、犯人の顔は見てないんだよね
え?」
「‥‥はい、そもそも暗いし、振り返ろうにも捕まった時に固定されて動けなくて」
押し付けられた時打ち付けた頭がずきりと痛む。
恐る恐る指先で触れてみると、ほんのりと赤がついてこちらも擦り傷になっているようだった。
「やだ、頭も打ったのね。すぐ済むからね」
そう言って彼女は現状保存と言いながら、あたしの怪我の写真や周囲の写真を撮り始めた。
ふと気づくと、警官とやり取りしている間に早川も合流したらしく、ひどくショックを受けた顔でアンジュと手を繋いであたしのことを遠巻きに見つめていた。
「こんなものかしら‥‥何か伝え忘れたことは無いかな? 大丈夫?」
松島さんが穏やかな微笑みをたたえて、こちらを振り返る。
あたしは舐められた首筋を押さえて、首を横に振った。
もうこれ以上、見世物になりたくなかった。
後になって思えば、この時全てをきちんと話していれば、アンジュは今も此処にいたのかも知れなかったけれど、今となってはどうしようもないことであった。
「ではこれから病院に向かいましょ、傷の手当しなくちゃね」
松島さんの腕があたしの肩をぐっと引き寄せ、支えてくる。温かく、力強いのに優しい力だった。
先程までアンジュと早川がいた場所を横目で振り返る。けれど、もうそこに2人の姿はなかった。


病院から帰った時にはもう日付が変わりかけた頃だった。
いまだ怒りに震えて泣いている母をなだめて布団に押し込め、風呂場に入ってようやく一人になったあたしは長い長い息を吐いた。
兄ーーー葵は多分居間であたしが風呂からあがるのを待っている。
母は勝ち気に見えて、割と弱い。娘のあたしから見ても子供っぽいなと思うことも多い。
そんな母にあたしのケアなんて、正直今は無理だろう。
葵はそんな母のフォロー役をいつもしてくれた。
父不在の家庭だからか、妙に気のつく男になってしまった。
ぼんやりとそこまで考えて、あたしはゆっくり瞬きする。
頭の擦り傷は大したこともなかった。
舐められただけだ、いつか笑い話になる程度の嫌な体験だ。そのはずだ。
不意に首筋をねとっとしたものが這う感触が蘇る。
気持ち悪くてたまらなかった。胃の中の物がせり上ってきて、慌てて洗面器を抱えて全部吐き出す。

「‥‥すっきりしたか?」
全部吐き出して口の中をゆすいだタイミングで扉の向こうから穏やかな問いかけがあった。
驚いて顔をあげると、扉の向こうに兄らしきシルエットがあった。
「えっいつからいたの」
「オエオエ聞こえたから今来た。とりあえず上がれよ、脱水するぞ」
そう言って葵は扉の隙間から水泳の時に使うループタオルを差し出してきた。
年頃の妹に対する配慮らしく、あたし自身もありがたく思いながら受け取る。
立ち上がったら、少しクラクラした。思っているよりも時間が経っていたのかもしれない。
「お前何食ったらこんな色になるの?」
「葵にい、デリカシーって知ってる?」
すれ違いに処理しに入ってきた葵のデリカシーの無さに少しだけ、救われた気がした。
葵が目を背けてくれている間にさっさと服を着て、居間へ行くと飲めと言わんばかりにスポーツ飲料が置いてあった。
遠慮なく飲んで、ほっと息をつく。
片付けを終えた葵が音もなく近づいてきて、あたしを居間の真ん中に敷いた布団へとおしやり、自分もその隣の布団にゴロンと横になる。
「とっとと寝て、忘れろ。寝れないならなんか俺が適当に話してやる」
最早、子供の寝かしつけでしかない。
あたしは反論する気にもなれず、仰向けになって天井を見上げた。
「‥‥あたしと一緒にいた子、なんか言ってた?」
微かに声が震えてしまった。
葵はああ‥‥と小さく曖昧な相槌を打つ。
「なんだったかな‥‥俺もちょっと動転してたから、あれだけど黒髪の方は着いていけばよかったって泣いてて、人形みてーな方は黒髪の子なだめてたよ」
「そう‥‥」
葵は黙り込むあたしの頭をぐしゃりと撫で回し、なにか言葉を探すように視線を空に巡らせた。
そしておもむろに子供を寝かしつけるようにあたしのお腹を定期的なリズムで叩き始める。
葵の手のひらの温もりに少し、気持ちが落ち着いてくる。
とろとろとした眠気が訪れてきたのを感じた時、葵は言葉を選びながら話し始めた。
「‥‥あのさ、確かに黒髪の子の言うように団体で動いた方がよかったよ。
 そうすれば、お前はあんなクソ野郎に嫌な目に合わせられることはなかった。
 けどな、そんなタラレバ起きたあとじゃ意味ないし、だからってお前も、あの子達も絶対に何も悪くないんだ。悪いのは、お前らみたいな子供を痛めつけようって思いつくクソどもの方だからな。
 ‥‥そこだけ、お前もあの子達も、絶対履き違えんなよ。悪いのはクソ野郎だけだ」
いいな、絶対にだぞ、と締めくくり、葵はくたびれたのかすっと目を閉じるなり、あっという間に寝息を立てて眠ってしまった。
腹の上に置かれた兄の手のひらの温度にひどく安心する。
泥のような眠気に襲われながら、あたしはふと、葵が今言ったことは一生忘れないだろうなと思った。




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