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SADな熱帯

8/1
 仕事が終わったあと病院に行く。鋼鉄の戸棚からファイルを一冊抜き取って,わたしのカルテを探すふりをしている。軽井沢での夏季休暇バカンスについて,女性スタッフのスカート丈を漸次短くする規則の立案,開業医の友人が巻いてたゴツい腕時計おれも欲しいぜ〜 といった物事を省察する方が彼にとっては重要だ。真っ白な四角い部屋で会計を待つ。ストライプの大ぶりなシャツを羽織った女が一列前のソファに座る。実際,シャツは彼女の体躯には大きすぎるようにしか見えなかった。袖を肘までくるくる捲っている。
 女が受付に問診票を渡すとき,それ以降の世界がスローモーションになったのかと思うほどゆっくり立ち上がった。髪を手櫛でき,革のショルダーバッグの中身を気にしているようなそぶりを見せながら,倦怠感を帯びた腰の振りで部屋を外した。そちらを盗み見ると扉の閉まる寸前だった。女は横顔のまま,流し目でわたしを見ていた。見ていたというより,視点の置き場所をわたしの座標に据えていた,という感じだ。扉は閉ざされた。
 中井貴一『服がでかけりゃケツもでかい! あれよあれよの尻切れトンボ! おまえさんあれだな,あれよあれだな,枕の下でゆっくり窒息させてやりたくなるような,ツラをしているな。知ってるぞ。知ってるぞ知ってるぞ知ってるぞ。本当は病気なんかじゃないんだろう? 眠れないふりをしているんだろう? 我々には全部お見通しだぞ隠そうたって無駄の嵐。おまえさんの番号札,25番。午後の,25人目の患者だ。パドックの馬と出走している馬はまったく別物だ。耕された魂と,延縄はえなわで掬い上げられた魂がある。台無しになった後の焼け野原を眺めに行っていまさら何になるんだ? なあ,教えてくれよ。それとね,それとそれとソウェト。今,この部屋を出た女がいるだろう 。気をつけなよ。おまえさん,ちょっと楽観主義が過ぎるぜ。SUGISUGI!!HEY!SUGIZO!!これね,ミキプルーンの苗木。』

8/2
 アイアイのクスクス添えを一心に頬張りながら午前にした些細なミスがこれからの業務にどれだけ大きな影響を与えるかについて考えていた。先月,会社の業績が良かったらしい。先々月もその前の月も悪くなかったし,右肩上がりというやつではないかと思う。社長を筆頭に,上司は皆,右の僧帽筋を引っ張り出して往来を歩いているような状態だ。まだまだずぶにょろの新人なので室見川が動かしている案件の下請けみたいな雑務ばかりやらされている。オフィスに戻ると室見川はわたしが送信した書類の中に,致命的に些細な間違いがあることを見咎めてまたわたしを無能扱いするだろう。十分な時間を使った下処理で臭みを抜いたアイアイは,繊維質の腿肉から土と菌糸類のニュアンスの香りをほのかに漂わせていて,アフリカのワインと一緒に楽しみたいような味がする。それから,クスクスよね。
 室見川に「なにが面白いの?」と口元の笑みを見抜かれる。

8/7
 朝起きて,汗を拭いて,汗で濡れているパジャマをバスルームの方に殴り捨てて,ワインを一杯飲んで,自分もバスルームに突入してシャワーを浴びる。新しいボクサーパンツを履いて寝室に戻ると女は昨日の服に着替えており目元に重点をおいた化粧をしていた。滑稽こっけいなサイズ感の手鏡を駆使して問題点と思わしき箇所に筆を入れていたから大きい鏡を渡してやる。アイシャドウをレイヤーしている最中にも地肌から汗が滲み出ているようだが,それに関しては気にしていないご様子だった。
 「なにか」女がショルダーバッグから別のポーチを取り出す。
 「なにか?」
 「なにか,話題が欲しい」
 「どれくらいの話」
 「長い話か,そうでないかってこと? 」
 「そういうこと」
 「あと5分でここ,出たいから」
 「ああ。そう」閉じたブラインドはそのままで,窓を網戸にする。フライングロータスの5枚目よりいかれた熱気だ。
 「もののけ姫って映画あるでしょ,うん,子どもの頃好きで,何回も観直して,台詞とかそらで言えるくらいだったんだけど。もう忘れたけど。アシタカが故郷のムラを出る旅の途中で武士の一団に襲われるじゃん,野武士っていうのかな。百姓とか殺しまくっちゃってるようなさ。それで相手方が射った矢を使って敵の両腕をぶっ飛ばしちゃう。ストーンて。いや,スポーン。くらいの軽々しさ。アシタカに憑いてる呪いが弓の威力をかなり強くしているから,放たれた矢は敵の両腕に潜む骨を貫いて,その威力を欲しいがままに肘から先を引きちぎってしまう。背後の木の幹にやじりから突き刺さって,意志を抜かれた腕がネギマのネギだけの状態,みたいになってる。断面の動脈は心臓との接続を切られたことを知覚してないから,まだ血も噴き出しちゃいない。子どもって分かりやすくグロテスクな画が好きだし,わたしもそのシーンは脳に焼き付いてる」
 「二軒目の焼き鳥屋で思い出したから,一緒に飲んでた友人にその話をした。彼ももののけ姫はよく観ていた。腕のシーンを指してあれは痛快だったな,とか言ったと記憶してるんだけど,彼はなんの気なしに『あの武士はかわいそうだったね』,とコメントした。それがちょっと信じられなくて」
 「それが信じられなかったんだよ。今までずっとさ,暴虐を働いてる野蛮人を主人公がやっつけるってフィルターで観てんのよこっちは。その,かわいそうってのは,腕が取れて痛そうだからかわいそうなのか,不具者としての今後を見据えたかわいそうなのか分からなかったんだよ。それに,わたしとしてはどっちとも認め難い。認めたくない。曖昧な記憶を綜合そうごうしたつぶやきのレベルでだけ,かわいそうって述べててほしい。だって,映画の中で,悪は悪でしかあり得ないから。背景の文脈なんか気にしてるのは映画に没頭できていない証拠で,大体においてアシタカの方がかわいそうなんだから」
 「話が全然噛み合わないとかではなくて,同じ目的地に向かっていると思っていてたまに談笑とかしてた隣人が,ある朝突然意味のわからない駅で降りたりする」
 「君はどう思う」
 女は,ふと,いま初めて目の前で喋っているわたしに気付いたような顔をして,全身を一瞬だけ身震いさせた。それから,顎を数センチ先の空気の型に沿わせるようにゆっくりと欠伸あくびをして,再び視界からわたしを外した。
 一応,「ネコなのか?」と聞く。
 「ララ峰さんの話を聞いて,正直なにも思わなかったけど」
 「おしゃべりなんですね」
 そう,わたしはおしゃべり。この先,おしゃべりな中年になるだろう。中年は,黙っている中年と,喋っている中年の二種類しかいない。
 「じゃあ,もう出ます」
 「とても熱いから,気を付けて」「とっても熱いからね!」「とっても!君が想像している以上に,これからずっと!」




「歌とは,人間に興味を抱くことだ」



8/14
 人は,準備のために無理をする。スティーヴンがこさえた一杯のカクテルを飲んだ晩からしばしば夢を見るようになった。永い夢,Fの6度上で鳴っているアドリブのような夢。
 ナイトクラブにはスティーヴンと,なるかと,わたしが連れてきた現在は音信不通の男がいて,車で来たわたし以外は,銀紙で折られた鶴のように酔っていた。メインのフロアでジャージを脱がずに踊っているとイラン人が「コカインあるか?」と忍び寄ってきた。ない。やがてスティーヴンがやってきて,しばらく無言で身体を動かし続ける。バーに行こう,と頭上から。いいよ。ウェイターと喋っている。おーい,そういえば今日飲めないんだった。と伝えてみる。無駄だ。プラスチックの容器をわたしに手渡す。美しい色の蝶を見せてくる子どものような仕草だ。それに反して,中身はうがい薬みたいだった。これはなんのカクテルだ,パーティードラッグだよ。へへん。ごめん,クスリとかやんない。ノーノー,クスリゆったてイリーガル違うアル,お兄さん,たいほされないね。2時間,たったの3,000円ね。ほらそこ座るね。マッサージ,ほらここが気持ちいいね。スティーヴンは日本のバラエティを観すぎていて,笑えない芝居をするのが好きだ。股に手を突っ込まれる前に一息で飲み干す。甘ったるい液体が舌の上でいつまでも粘っこい。

 ハウスミュージックが我々に与えるのは鈍磨な快楽だ。その軽薄な反復は,徐々に船尾へ向かって後退しながら,次の波を呼んでいる。次の波とは,更に丸みを帯びた快楽である。セイレーンの歌声のただなかに,大きく口を開けたヘビがいる。「咥えたげよっか(笑)」と囁かれたときには喉奥まで喰らいついたヘビがペニスを締めている。なにやら死もある。
 苦痛は,毛並に逆らって生命の方に向って戻ろうとする時に生じる(Cocteau, 1952)。
 ぬるーい生とそれよりもぬるーーい死がお互いの尻尾を追いかけて遊んでいる。輪に加わろうとする。掴めない。そこに在るはずのものがない。ハウスは踊る者にある催眠をかける。催眠が解けるとき,我々はもう一度,あのクソ忌々しい命題に直面する。この世界にもともと存在していなかったものを,ハウスの官能が錯覚させていたのだ。
 コクトーは束の間に阿片を喫う。やがて打ち壊される吸引具に目配せしながら。わたしにはブロンのびんが残された。ブロンの壜だけが残された。

 パーティーが終わっていた。立っているのはもう,なるかだけだ。なるかだけが,最初から最後まで踊り続けていた。


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