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宮崎県のある方言について

 親父の実家は宮崎県の南端で,志布志しぶし湾の小さな港町にある。わたしは毎年の年末年始に,数日間だけいる。齢80を超えた両親を気にかけてか,親父はこの頃,頻繁に宮崎へ帰るようになった。いまわたしは山陽新幹線の2号車にいて,夜更けに広島駅で降りて,真っ赤な在来線に乗り継いで山口県岩国市に帰る。親父は宮崎にいるそうだ。まぁ,会いたい訳でもない。
 思えば今年,東京から離れるのは,正月の帰省ぶりになる。わたしは,旅行することをやめてしまった。
 宮崎の祖父母は薩摩訛りがかなりきつくて,親父の通訳を交えなければ,会話の2割程度が理解できない。地域に独特の語彙や観念にきょとんとするのではなく,薩摩弁は仏語のように,リエゾンのおびただしい多用によって,話し言葉と書き言葉にとっても距離がある話法なのだ。リエゾンっていうのはI LOVE YOUの発音がアイラヴューになるみたいなことね多分。だから,まず発音の練習から,口の開き方を覚えるなんてことからやんなきゃいけない,大変な方言だと思う。
 以前にも書いたことあるけど,天孫降臨以降,宮崎は基本的に太陽がずっと昇っているから,晴れに関する方言や(てかスコールを除き,雨とかは降らない),山の獣に関する方言や,海の幸に関する方言が豊かである。標準語で当たり前のように呼ばれている魚の名前が,宮崎では全然違う名前になって食卓に並ぶ。

 まず,おさかなのことは「イオ」と呼びます。

 年の瀬に,親族たちが車座になって居間に会す。爺さんが上座で,20度の黒霧島をかんしただけものを「お湯割り」と称して飲んでいる。お刺身をあてにして。宮崎の人間はとてもよくイオを食べる。そして宮崎のイオは,たしかに,笑っちゃうくらいうまい。どんなスーパーにでも,その日に港に揚がった,さっきまで生きてたイオが売られている。イオが新鮮であることは,宮崎の人間にとっては当然のことだ。
 たとえば,その晩にわたしが食べたのは,ホゴの煮付け。つくらの卵巣。メヒカリの揚げ物。カツオのたたき。これは普通にカツオですね。レンコ・シビ・ヤズのお刺身。
 優雅で感傷的なイオのフルコースに,泣き崩れながら爺さんにお酒を注いでやる。わたしは基本的に,お酌文化なんか無くなればいいと思ってるけどね。二人の爺さんとしゅきぴには特例だ。宮崎の醤油は,甘い。甘じょっぱいではなくて,直線的に甘い。甘くて,濃い。カツオは高知が有名だけど,甘醤油をかけて食う宮崎のカツオもいける。シビというのはキハダマグロの幼魚のことで,脂身が少なく,これまた甘醤油やビールと合う。ふだん大トロなんてなにがいいんだ,脂がてらてらしてて下品だし。わかりやすい刺激ばっかありがたがりやがってば〜か。どうせお前ら肉の霜降りとかで濡れちゃってんでしょ。しゃらくせ〜んだよ,こころが不感症なってんじゃん。こころが。山菜とか茹でんだよ。クレソンを塩昆布で和えんのよ。脳死でパスタに卵黄載っけんなダボ,てか,流しに卵白捨てな。そういうところやで君,いままで卵黄のこと大事に思ってワシが守らなあかん思ってハニーのこと包んで守ってきた卵白の気持ちなんか考えたことないんやろな君は。あれか,自分のちゃちな思想に都合良さそうなネット記事流れてきたら本文読む前にリツイートするタイプやろ自分,してない? や,いいねはするやろ笑。あーおい,お前一緒になって笑っていいわけちゃうよ。なにがおかしいん? おれいま変なこと言ったか? 間違ったことゆうてるか? などと考えているわたしにとっては格好のご馳走になっている。シビは本当にうまい。
 慣れない薩摩弁も,酒が入ればなんとなくほどけて,ニュアンスとして沁みてくる。薩摩弁は黒霧島のお湯割りのように,五臓にじっとりと融けていくような言語だ。酔いがまわるとカントから一節を引用して,どうしょーもなかどうしよーもなかと人生の立ち行かなさを説く爺さんからは,ちょっと抽象化されたアルジェの雰囲気すら帯びてくる(カミュが大隅半島あたりの出身だったとしても,『異邦人』の筋書きはそこまで違わなかったはずだ。志布志湾で殺されるアラブ人,握られた短刀。理性の象徴としての太陽)。わたしも興に乗って,なんJコピペを引用して盛り上がったりしていた。
 そうしていると,台所から戻ってきた祖母が,居間の襖を開けて,「この部屋,いおくせ」と呟いて,襖を閉めた。

 いおくせ。

 いおくせ。魚臭いということだろう。鮮度抜群の刺身からはいっさいの生臭さはなく,フレッシュな血の香りすら楽しめるくらいなのだが,この宴ではとにかくイオを食べて食べて,食べまくったので,我々の吐息と混ざって,体臭と混ざり合って,「いおくせ」な空間になっていたのだろうか。だが,わたしは「いおくせ」という言葉が持つ,「魚臭い」とはまた違った,より,なんというんだろうか,ヤマト言葉の原初の感覚に接近したというか,採用されなかったプロトタイプの装置を博物館で眺めているときのような,廃線になった駅のホームを覗いたような,洒落怖まとめの「田舎にまつわる怖い話」を読んでいるときの言語野がゾワゾワする感覚というか,なにか,生々しいものに触れたような感じがして。(いおくせ......いおくせ......)と口の中で繰り返し呟いてみたのだった。
 薩摩弁は,このように「臭い」「高い」「上手い」などの形容詞を「え」の口でトメる。「くせ〜」と間延びするんじゃなくて,「くせ」。ここでなにか効果的な作用を及ぼしているのだろうか。わたしも最近,東京でも岩国の方言で話してみたりするが,岩国の言葉にこういった,耳がざわめくようなフレーズはない気がする。当事者だからそう感じたことがないのかもしれない。

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