ステートメント_ここからは祈りの領域🕳/Paul.U
壺
🕳️まず壺があって、その壺に素手を入れてみようと思う。壺の入り口はちょうど腕の太さ程度。私は右利きなので、左手で壺をおさえて、肘まで腕まくりをした右手を入れた。あとは感触を頼りに中を探る。
🕳️壺の中はやたらとぬるぬるしていて、いくつもの紐が絡まり合っていた。一部の紐は綺麗に解けているが、もう一部の紐は結び目ができている。あれ? この紐、何処かで触った気がする。
🕳️何処かの紐を引っ張れば、そのテンションで解ける場所もあるし、他の紐を道連れにして強固な結び目になってしまうこともある。そして、粘り気によって指は滑る。困った。
🕳️このように、幾つもの紐からなる結び目は力任せに引っ張れば良いもんではない。時間をかけてしっかりとその構造をイメージする必要がある。そしてこれは一生続く。
結び目
🕳️これは私の幼少期。周りは田畑に囲まれ、鉄塔が立ち並んでいる。電線はそれらを繋ぎ、空に五線譜のような模様を描いていた。
🕳️父は鳶職、母はパート、そして4つ上の姉が1人いる。どこにでもある典型的な家族の構成と言ったところだ。
🕳️母は人に迷惑をかけることをアレルギーのように嫌い、人と話す時はいつでも気を張っている。大袈裟なほど心配性で自己犠牲的な優しさを持っている。
🕳️反対に父は学がないのにプライドだけは立派に高く、短気で、見栄っ張り。私と姉の学校行事の時はわざわざ知り合いから高級車を借りてくるようなことが度々あった。
🕳️そんな真逆の性格を持つ両親だったが、私が小学校6年生ごろまでは何不自由 なく暮らしてきた。年越し旅行でグアムに行ったり、日光の高級旅館に宿泊したりなど(むしろ多少裕福な)、家族だったと思う。
🕳️とはいえ、違和感を感じなかったのは私と姉がまだガキだったからで、ガキも時の流れでやがて大人になる。そして徐々に、家族は崩壊へと向かうことになる。
🕳️姉は高校生になったあたりから父を嫌い距離をとり始めた。見栄っ張りで短気な性格の父と思春期の姉、という組み合わせなので当然の成り行きだ。
🕳️そのため父も途中から姉に口をきかなくなった。その皺寄せは次第に母に影響を及ぼすことになる。父は度々暴言を吐くようになり、家中の扉をわざと音を立て締めたり、部屋に閉じこもって酒を飲み、大声で叫んだりしていた。
🕳️母は毎月、給料日になると父親の部屋をノックして「今月のお給料をください」と土下座をしにいく。機嫌が良い日は無言で投げ渡されるが、機嫌が悪い日は 「誰が稼いできたと思っているんだ」と家中に響き渡るほどの暴言で母親を罵っていた。
🕳️父が車で帰ってきた音を聞くたびに母親は元気がなくなり、姉は自室に篭るよ うになった。
🕳️この頃あたりに母のリウマチが発症。力作業の多いパート作業は務まらなくなり、代わりにコンビニでアルバイトを始めた。
🕳️狂った父と、それにしがみつく病気の母親、思春期真っ只中の姉、平凡な日常は子の成長とともに崩壊していった。
🕳️そんな中、私はなんとか母と姉を楽にさせようと父親の機嫌をとることに必死だった。その行動あってか私は父にとても好かれていたため、休日は私と2人でさまざまなところに連れて行ってくれた。その時だけは純粋に楽しい気持ちもあった、と思う。しかし私は母も姉も好きなので複雑な気持ちだった。
🕳️しかしついに、私が高校1年の秋、両親は離婚をする。私と姉は母親に連れられ、不穏な家を出た。母が何か父親に反抗したのを見たのはこれが最初で最後だった。次住むアパートは駅の近くで、すでに家電が揃えてあったのだが、これは母が一人で揃えたらしい。母はつらいことを一切口にも態度にも出さないところがある。
🕳️父は最後、部屋から出てこなかった。代わりにプリンターから出力された活字の置き手紙にはこう書いてあった。「いつ戻ってきても良いように、部屋はそのままにしておきます」
🕳️高校は工業高校の建築デザイン学科に進んだ。もともと建築物に興味が特別あったわけではなかったが、私立よりお金がかからない県立であること、卒業後に即就職できること、高校生でもバイトができること、などが理由だった。
🕳️とにかく自分にかかるお金はなるべく早く自分で稼げるように、というのが何よりの優先事項だった。もうこれ以上父親に土下座している母親を見たくなかった。
🕳️高校在学中に奨学金を申請し大学に行くことも考えたが、そこまでして何か学びたいものが明確にあったわけでもなかったし、何より早く田舎を出て東京に行きたい気持ちもあったため、断念せざるを得なかった。
🕳️そして先述の通り、高校1年生の秋に両親が離婚する。一応養育費として父からある程度振込まれてはいるものの、コンビニのアルバイトでは遊ぶお金までは工面出来ない。それに母のリウマチ用の治療費もバカにならないため、私もアルバイトをすることにした。
🕳️アルバイトで稼いでいるおかげもあり、友達と遊びに行くことに金銭的な問題は特になかった。ようやく、自分で遊ぶお金を自分で稼ぐことができたのだ。
🕳️この頃からコピーバンドを始めた。バンドではベースを担当していた。
🕳️もともと中学生の時には吹奏楽部でドラムを叩いていたが、RED HOT CHILI PEPPERSに出会い、中2の時にベースを始めていた。ベースはお年玉をすべて使って購入したんだったっけ。
🕳️高校を入学してすぐの部活動見学の時に吹奏楽部を見に行き、そこでドラムとベースの演奏を見せたところ、たまたま見にきていた1個上の元吹奏楽部の先輩(のちにギターボーカルだと判明)が一緒に文化祭でバンドをやろうと言ってくれたのがきっかけだった。ちなみに私はなぜか吹奏楽部ではなくバドミントン部に入った(やったことないことやりたい、みたいな理由だったと思う)。
🕳️ASIAN KUNG-FU GENERATIONやBUMP OF CHICKENといったいかにも高校生バンドらしいコピバンをした。はじめてスタジオに入って合わせた時、家で一人で弾いている時には感じることが出来ないとてつもない高揚感でスパークした感覚は、今でも鮮明に思い出すことができる。おそらくこれが私の音楽原体験だと思う。
🕳️その後、その先輩ボーカルが知り合いのドラマーを紹介してくれてまた別のバンドを組むことになった。学校の文化祭から徐々に県内外のライブハウスでもライブをやるようになった。
🕳️AppleMusicに加入し、もっぱら国外のロックを聴きまくったのもこの頃だ。Alabama Shakes、My Bloody Valentine、RED HOT CHILI PEPPERSなどは今でも私のバイブルだ。
🕳️家は少し貧乏にはなったし、バンド、バイト、勉強、部活などで忙しくなったけど、それでもこれまでの人生とは比べ物にならないほど満ち足りた日々だった。
🕳️そして何より、これまで以上に働いていて疲れていたとは思うが、母親の表情が以前よりも柔らかくなっていたことがとても嬉しかった。
🕳️でも、どこかで、父親のことが気になっていた。
🕳️今どこで、何をしているのだろう。
道
🕳️高校卒業後は東京で就職をした。葛西に寮を借りている大手子会社で、心配性の母も少しは安心したと思う。
🕳️入社してから最初の1週間は地獄だった。働いて稼いで生活する、こんな単純なことがなんてつらいのかと、月並みな絶望をした。
🕳️毎日、退屈で反吐が出るような労働の連続。思えば高卒に任せられる仕事などこの程度だ。はじめてその時、大学に行けなかった/行かなかったことを後悔した。
🕳️最初のうちは大学などで東京に出てきた高校の時の友人たちと遊んだりしていたが、途中から労働という地獄に対する焦りが生まれ、自己啓発本やビジネス本などを読み漁るようになった。友人たちとは徐々に疎遠になっていった。
🕳️とはいえ起業をするほど自信とエネルギーもなく、かといって諦めて労働を受け入れることができたわけでもなかったため、“ただただテクニックの知識だけを 蓄えた労働嫌いの友達がいない若者”という人間になってしまった。狂人である。
🕳️それでも高校生の時に加入したバンドは続けていた。メンバー全員が上京したので下北沢や渋谷のライブハウスでライブもして、そのバンドは事務所との契約まで決まるまで成長していった。
🕳️この頃は高校生の時に聴いていた音楽とは少し違うDisclosure、The Chemical Brothers、Jungleなどのクラブミュージック/エレクトロあたりを聴いていた。
🕳️その影響もあり狂人と化した私はロックミュージックよりクラブミュージックの方が素晴らしいという雑な考えになり、バンドを脱退することにした。
🕳️それと同時期に始めたのが今も活動しているTOSH7だ。
🕳️起業こそできないけれど、まずは行動だと思い、ローンでPCやスピーカーといった音楽制作に関わるすべてのものを購入した。
🕳️音楽理論やPCの知識など皆無だったが、それでも毎日1曲ずつ作曲することを自分に課し、徐々にそれらしい曲を作ることができた。
🕳️クラブにもいった。積極的に人にも話しかけにいった。バンドをやめた焦りもあったので執拗に声をかけ続けた。そこで出来た友人のやるイベントにオープンからラストまでずっと居続けたこともあった。
🕳️今思い返すととても恥ずかしい限りだが、そのおかげも徐々に友人も増えた。恋もした。恋人もできた。
🕳️一方その頃労働はというと、相変わらず最悪だった。
🕳️徐々に任されることも多くなり、残業は連続性を帯び、ついには土日にまで侵食しはじめた。一緒に働く人間も粗暴な人間ばかりだ(もちろん、良い人もいたが)。ストレス性の顔面麻痺になり顔半分が動かなくなったこともある。TOSH7のメンバーはそれを笑ってくれた、それだけが救いだった。
🕳️ようやく自立した素晴らしい日々を獲得したと思ったのに、労働に泥で上書きされ続ける。本で蓄えた知識は一部だけ役に立ったが、それをも凌駕する理不尽さが私を襲った。
🕳️そしてついに壊れた。適応障害だった。
🕳️自分のことは自分でやる、そうやって生きてきたはずなのに、できなかった。 もう疲れた。戦えない。
🕳️しかしその時、東京で出会ったさまざまな人が助けてくれた。恋人は私を散歩に連れ出してくれた。先輩は一緒にパフェを食べたり、飲み連れていってくれた。 クラブにいくとみんながお酒を奢ってくれた。私にとってこの時期はとてもつらかったと同時に泣きたくなるほど優しい日々でもあった。
🕳️2カ月の休みを経て、私は職場に復帰した。その時プロジェクトを一つ任せられた。復帰早々にそんなことをしてくる神経に腹を立てたが、成果を上げて転職することが何よりの復讐だと思い引き受けた。結果そのプロジェクトは成功をし、私はようやく地獄と同等の職場をあとにした。
🕳️不安だった転職も無事成功をした。相変わらず労働はクソそのものではあるが、前よりは心地が良い。時間ができて創作もできるようになった。こうして文字を書くことも。
惑いと祈りと
🕳️紐は絡まり合う。見ることはできない壺の中で。
🕳️発光した。音楽が流れた。揺れた。人が出会った。別れた。
🕳️壺から右手を引き抜く。螺旋状の紐の感触と、特有のぬめりだけが今、ある。未だ、ほどくことが出来ない呪いの一種か。
🕳️沢山試すと良い。
🕳️ここからは祈りの領域。
書き手:Paul.U
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『登録された鉄の隙間、風の子たちのステップ』