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いじめの無い世の中になる訳がない


不可能なものは不可能とハッキリ言っておいた方が良いのではないかと思います。


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・・・いつだったか、新聞の特集記事で子供たちに願い事を書いてもらうという微笑ましいコーナーがありました。

野球選手になりたいとか、ヨーロッパに行ってみたいとか、
ザ・子供100点満点みたいな願い事達の中に一つだけ
「いじめが無くなりますように」と書いている子供がいて何とも言えない気持ちになったことがあります。
子供よ。残念ながらいじめは無くなりません。野球選手になるより確率が低い。というか絶対無くならない。

何故いじめは無くならないか。
大人の世界を見てもそうだぜ?なんて説明の仕方もありますが、
そもそもいじめというシステムが無くなる可能性がゼロであることの説明を色々な角度からしたいなと思います。


【1.いじめは被害者がそう感じた時点で発生する】

まずはじめに、いじめというのはハラスメントと同じで本人がいじめであると感じたらいじめになります。
どれだけ激しい口撃を受けても本人がいじめであると感じなかった場合はいじめになりません。(身体に痣などの証拠が残っていれば話は別)
しかしこれは裏を返すとどんな些細な行為でも本人がいじめと感じたらいじめになり得る訳です。

「背が高くてカッコいいね!」の様なセリフを悪気無く言ったとしても
相手が身長の高さにコンプレックスを持っていて責められたような気持ちになり、しかしそれを言い出せない性格であったり、
セリフを言う側もこのセリフをことあるごとに言ってしまっていたりすると、
相手の出方次第ではいじめと捉えられてしまう場合があります。

今のは些細なすれ違いによる悲しいパターンですが、
人によっては被害者の立場になる方が強いということを理解している人間もおり、
全く見当違いのことも「私はいじめられた」として誇張するパターンもあります。
残念ながらこれも「本人がそう感じた」ということでいじめとなってしまいます。

被害者意識の強い人も同様で
普通の人は気に留めない些細なことも攻撃されたと感じる場合があります。
遅れてやってきたら自分の分の席だけ無かったといった類でも本人が傷つく場合はあります。
これも本人が被害を受けたと感じたのならばいじめの範疇になります。
「誰がどう思うか」の部分はコントロールのしようがありません。

全員が悪気無く行動していたとしても
このように受け取り手の解釈次第でいじめとなってしまうことはあり、この時点でいじめを無くすのは難しいと言えます。

そして以上のパターンに加えて、これから説明していく最もポピュラーな「普通にいじめている」パターンも存在してきます。

【2.人を攻撃することで安心を得られる人達がいる】

基本的に世の中は能力のある人の方が有利になる部分があります。
求められる能力は環境に応じて様々ですが、
その時求められている能力に対してはより良い方が望まれるのは当然のことです。

そうなると、能力が足りない人はどうしても不利になることの方が多いのですが
「能力は足りないが生きる力は強い」という人達の多くはその環境の中でなんとか生き残ろうとする術を考える力が強いです。
これが自身の能力を伸ばすことや自身の能力にあった環境を探すことに向かえば良いのですが
時々「相手を攻撃することで相対的に自分の価値を上げる」という手段を取る人がいます。
「自分より能力の高い人間を排除すれば自分が生き残ることが出来る」という考え方です。

こういった考え方で実際に行動する人がいる場合、いじめというのは必然的に起こってきます。
一言に能力と言っても、
例えば仕事での能力は劣っていたとしても「周囲にバレないように嘘を吹き込んで特定の人間の心象を悪くする能力」は優っている場合があります。
いくら「いじめは相手がそう感じた時点で発生する」と言っても
明確に特定の人間を排除するために攻撃行動を取っている人間がいる時点でいじめはもう始まっていると言えます。

このような「能力は足りないが生きる力は強く、相手を排除する選択肢を取るタイプ」の方というのは
攻撃が上手くいってようやく安心を得られます。
多くの人は家に帰った時とか、お風呂に入っている時や好きな趣味の時間をしている時に安心などを得られるかと思いますが
この手の人は脅威となる存在を攻撃している時に安心するために、いじめが無くては生きてはいけないとでも言うべき存在です。
「皆でいじめを無くして平和な世の中にしましょう」と言っても
その人の中の平和な世の中というのは「誰かを攻撃して排除することで相対的に自分の価値が上がっている状態」であるのです。

全員の平和を望めばいじめが発生するという何とも言えない状態になります。


【3.集団で誰かを攻撃するのは楽しい】

SNSが世に出たおかげでより目に見える形なりましたが
そもそも「集団で誰かを攻撃するのは楽しい」という性質の方は多いです。
何か間違っているであろう人を集団であれやこれやとまるで一体感を持って正義の力で圧倒している姿はよく見かけます。
一見正論の塊のように見えますが、その塊の中には単に相手の見た目を揶揄しているだけのものも含まれていたりします。
しかしその正義の塊の中ではそのような仲間の些細な点は何故かスルーされ、
あくまで目的は一体となって対象に指摘することとなっています。このいわゆる正義ショーとでも呼べるものを楽しむことが優先ということです。

2で述べた「安心する」に通じる部分はありますが、
間違っているものを指摘している間というのは自分は間違っていない側という認識になりやすく、その間はある意味安全な立ち位置にいられると言えます。
つまり安心して楽しむことが出来る時間になっているということです。

しかし時間が経過すると、叩かれていた側からそれを覆すような証拠が出てくる場合があります。実際の所は違っていた。

ところがそんなものが出てきた所で全員が謝罪するわけではありません。それどころか時間が経ってから出てきた相手の出方に興味すら無いという方もいます。
あくまで人を叩くショーを楽しんでいるその瞬間が主軸なわけです。
時が過ぎて相手が謝ろうがあの時の自分が気持ち良ければそれでいいというわけです。
ネット上のいじめとでも言うべきショーはこうして日夜繰り返されております。

そして残念ながらSNSの大半は実在する人間で構成されており、現実にもそのような思考ルーチンの人が存在しているということになります。
そんな考え方の人が身近にいればいじめが起こるのはこれも当然なわけです。


【4.そういう人間が生き残ってきたから】

いじめはよくないとは言いますが、そもそも本当によくないものであればこの長い時間の間に当然淘汰されるわけです。
しかし今もまだ続いている。
それはいじめが生存に有利に働いているからと言わざるを得ません。

他人を攻撃する楽しさであったり、
集団に守られながら正義にみえる力を行使することであったり、
能力がなくとも気に入らない存在を排除することで環境の中で生き永らえることであったり、
敏感に被害者側であることをアピールして周囲に守ってもらうことであったり、
これらが生存競争の過程で有利に働いたということです。

仮にいじめはよくないという人と積極的にいじめをする人間が対峙してしまえば当然いじめをする側の方が有利です。
どんな根拠であれ、対峙してしまえば実際に攻撃行為を行える方が有利なのは変わりありません。
距離を置けばそういった人間の攻撃から離れることは出来ます。
しかしこれは同時にそういった人間の存在を許したということにもなります。
生き残るという意味で考えればどちらに転んでもOKというわけです。

これだけお得な行動なのですから、いじめは当然無くならないわけです。

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…と、色々な理由を色々な角度から書いてみました。
全部書ききった気もしないので、恐らくまだまだいじめが無くならない理由はあるかと思います。

いじめというのは体験するのはもちろん、見ているだけでも大変不快な行動ですので
なるべく関わり合いにはなりたくないものです。
実際、いじめを目撃するだけでストレスレベルはかなり上がるそうです。

そんないじめ行為。
いじめは残念ながら無くなりませんが、極力関わらないようにすることは可能です。
いじめというのは誰でもが好んでする行動ではないので、
いじめを行いやすい傾向の人間を集団に入れないことで環境は守られます。
仮にそれでもいじめ行動が発生した場合は、その人物に集団から抜けてもらうということが必要になります。
ここはエネルギーが必要ですが、長期に環境を守るための行動と考えれば早期に手を打った方が良いでしょう。


子供達よ、いじめはなくならない。
けれどそれが起こらない環境にすることは出来る。
なので目指すならいじめの無い環境を目指してみて欲しい。
大きくなればそれが出来る。
いじめをする人間を変えることは諦めなさい。

そして、子供のうちにいじめられたら親か警察か親戚か全国の子供シェルターかどこでもいいのでとにかく逃げ込むべし。
自分の身をストレスから守れれば手段はどれでも良いので、安心して保護されに行こう。

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